28 軋轢の夜(3)

 その夜、ユーラが目覚めたのは偶然だった。


 ダムティルに来てからのユーラは体調の回復にのみ努めている。日の大半を眠って過ごし、眠るべき夜に起きることなどほとんどない。復調してくれば、日中に体を少し動かしたりするが夜眠るのは変わらなかった。

 その日の日中も、ユーラはいつものように昼食のひどい味の果物を食すと、寝台から体を起こして宿泊所の中を巡った。多くの者が働きに出てがらんとした宿泊所の中を歩き、手の空いた宿泊所の女主人のリレイタを相手に雑談に興じる。体が疲れを感じると寝台へ戻り、その後に帰宅したパルツィラやイサムと会話をする。そして日が落ちれば、次の日に備えて眠りに就くのだ。


 だが次の日を寝台で待つはずのユーラは今、下層の街中を歩いていた。


「何やってるのよ……」

 夜の空気の冷たさに、外套の前をかき合せながら思わず愚痴る。


 魔力糸の繋がりから感じるイサムのいる方向へ、ユーラの足はひたすら動いていく。


 ユーラが眠りから覚めた時、部屋の中はいつもと違っていた。恐らく眠ってから幾許も経たずに目覚めたのだろう。まだ日が昇っておらず、辺りは随分と暗かった。

 再び眠ろうとしても体調が戻ってきたことと日中に体を休めていたことで、ユーラの体は今までほどに睡眠を求めていないのか、すっかりと眠気は覚めてしまっていた。体調を万全にするのが自分の仕事だと、横になって目蓋を閉じても、一向に眠りは訪れない。

 覚めた頭はユーラの意思に関わらず、その耳を働かせて部屋の様子を窺っていく。

 そしてユーラが隣の寝台で眠るはずのイサムがいないことに気付くのと、戻らないイサムを探して宿泊所を出るのはそれからすぐのことだった。


 下層の街中は深夜だというのに人の姿が珍しくなかった。獣化病の者ばかりで、夜目が利くからだろう。けれどそれでいて活気がなく、人がいるのに静けさの満ちた街中に、ユーラは何処か気持ち悪さを感じていた。


 そんな静寂の中に物音はよく響く。ユーラの耳に聞こえてきたのは騒々しい水音だった。

 下層で水音を立てる場所など、何処かわかりきっている。ユーラの目は遠くに塩の川で激しく手足をばたつかせる者と、その者を川から引き上げようとする人の姿を捉えた。






 洞窟の暗闇にパルツィラと束ね役の男の声が反響する。


 二人の間で始まった問答は、いまだ終わる気配を見せていない。

 先ほどから続くやり取りは男がイサムを引き渡すように求め、パルツィラが拒否することの繰り返しだった。


「ヒュイジを襲った奴を庇うのか? あいつがお前に声を掛けてやったのに」

「自業自得です。あいつが泳げないっていうなら、少し同情しますけど」

 落ち着いた調子のパルツィラの声に迷いはなかった。

「それにさっきの音。モスフさん、これ以上騒ぐとさすがに人が来ますよ」

「……だったらどうしたっていうんだ」

「困るのは、モスフさん達です」


 イサムを後ろにパルツィラが発した言葉で、男達が一瞬ざわめく。

 だが一人、パルツィラにモスフと呼ばれた男は鼻で笑った。


「あいつの紹介だからと思ってたが、結局お前も他の奴らと変わらないんだな」

「……どういう意味ですか?」

「俺達を余所者だと、そう思って馬鹿にしてやがる」

 その声はまるでモスフ自身の不快感を吐き出して、周りに伝播させようとしているかのようだった。

「どうせ奴らは何もしやしない。勝手に何かに期待して、怯えて、そして死ぬんだ」

「何を言って……」


 死ぬ、という言葉の唐突な響きにはパルツィラだけでなく、状況を見守っていたイサムも息を呑む。


「お前も同じだ。ここまで来たら、今更引き返せない」

「最初の話と違う」

「こいつを見て、気が変わった。お前らよりたちが悪い。まるで自分は関係ないと思ってる」

「それは、まだ、話をしてないから」

 パルツィラの返す言葉に力はなかった。

「そいつも余所者なんだろ。それに、亜人じゃない」

「……でも」

「そいつを寄越せ。余所者同士で話を付ける」

 モスフはゆっくりとそう言った。


 イサムの前に立つパルツィラは動かず、さりとて返す言葉がないのか只々黙っている。

 男達、そしてモスフもパルツィラの返答を待っているようで、洞窟の中には沈黙が訪れた。


 イサムは首元に手を運び、そこに蛇がいないことを確かめる。二回目となると、喪失感は薄かった。そのまま退路を探してちらりと後ろへ振り返ってみるが、夜目が突然利くようになるわけもなく、そこにはやはり暗闇が広がるばかりだった。


「最初から……、最初からそうするつもりだったんですね」

 沈黙を破ったのはパルツィラの声だった。


 思い詰めたような、そんな印象を受けるその声は相手に問い掛けるというよりも、自身に言い聞かせているようだった。


「さっき言っただろ」

「騙したんですね」

 返ってきたモスフの言葉に、パルツィラは強い口調で被せるように言葉を続けていく。


 しばらく待っても、男達から声が上がることはなかった。

 代わりに聞こえ始めた地面を擦る音が、段々とイサム達に近付いてくる。


 男達に合わせてパルツィラも後退したのか、状況に戸惑うイサムの鼻先にパルツィラの後頭部がぶつかった。


「目を瞑ってください!」

「え?」

 パルツィラの言葉の意味が、イサムにはわからなかった。


 その言葉と同時に、突如として辺りが明るくなる。

 イサムの目に映り、焼きついたのはパルツィラの掲げた右手、その手首から先が真っ赤に燃える光景だった。


「魔術だと!?」

「そんなばかな!?」

 狼狽する誰かの声が聞こえた。


 暗闇に予備動作なく現れた光の眩しさに、イサムは期せずしてパルツィラの指示通り目を瞑った。

 だが目蓋の裏には既にしっかりと焼き付いていて、それは暗闇の中で尚浮かぶ。


「急いで!」

 その声と共にイサムの手首がぐい、と引かれた。


 そうしてイサムは再びパルツィラに手を引かれると、今度は暗闇に幻光を見ながら洞窟の中を駆け出した。


 パルツィラの燃えた手首の向こう、そこに立つ男達の姿が、イサムの視界に先ほど初めて映った。


 一瞬だけ目で捉えた姿の中に、イサムは人に混ざって大きな熊を見つけて、見ない方が良かったと後悔した。正しい認識を得て麻痺していた恐怖が甦り、走る足の動きはぎこちない。高鳴る心臓はいつも以上に鼓動を早くしていた。

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