25 仕事を終えて

 ダムティルに辿り着いてから、半月が経とうとしている。手元の手帳でそれを確認すると、イサムは大きく息を吐きながら顔を上げた。


 暦の上では、夏は既に終わっている。けれど緑の少ない街中では、風の冷たさでしか季節の移り変わりを判断することができなかった。


 街中を吹き抜ける風が、地面の砂を巻き上げる。


 イサムは目を細めながら手早く手帳を手荷物の革袋にしまうと、肌寒さから両腕を静かに抱え込んだ。


「今日はもう終いだな」

 そんなイサムに掛けられた声は、すぐ傍の風になびく天幕の下から聞こえてきた。


 天幕の下からこの露店の主である男、グガが姿を見せる。

 グガはその手に馴染みとなった果物を二つと、手の中に収まるほどの小さな布製の巾着袋を持ち、イサムに向かって歩いてきた。


「もう届けるところはないんだろ?」

「確認した」

 続けられた男の言葉に、革袋の中の手帳を示しながらイサムは軽く答えた。


 季節は秋口のはずなのだが、夕方近くでも日はまだ高い。

 イサムが働き始めた頃は暗くなるまで商売をしていた。切り上げるのが早くなったのは、その必要がなくなったからだろう。


 イサムの隣までやって来ると、グガは手に持った果物と巾着袋を差し出してくる。

 今日の仕事の報酬であるそれらを、イサムはいつものように受け取り、革袋に収めていく。そして収め終えてからグガに視線を戻せば、グガは天幕の方を眺めていた。


「大分減ったな」

 喜色めいた声で呟くグガの視線の先、そこには天幕の下に並ぶ商品がある。


 イサムが手伝い始める前よりも商品は数を大きく減らし、商売が順調なことを示していた。その成果の大半はイサムの訪問販売によるものだ。

 只、成果が目に見える形で提示されても、イサムに充実感はなかった。

 商品を売る際にイサムが宿や食堂を訪れてはまず行うのは、修道士のナリアが用意してくれた木簡を提示し、身の上を明らかにすることだった。その木簡の効果は絶大で、それを見せながら商談を進めれば、あれよあれよという間に話はまとまる。掛かった労力といえば市場から商品を運ぶ程度のもの。やってみれば拍子抜けするほどに、大した苦労もせず売り捌けてしまったのだ。

 とはいえ、商品力が優れているわけでもないそんな商売に継続性はない。

 イサムの二度目の訪問には稀有な物好き以外、皆一様に苦虫を噛み潰したような顔を見せてきた。そしてそれを無視できなかったイサムはまだ訪ねていない店を探して、ひたすらダムティルの上層を日々巡っていた。


 商品を見るグガが感慨深そうに何か言葉を続けているが、イサムは聞こえない振りをした。


 こんな街には二度と訪れない。そう腹を括ったイサムの行為の代償は近い将来、この男が支払うことになる。喜ぶグガの姿には居た堪れない気持ちになるが、どうせそのままでいても売れなかったに違いない。そう思うことで、イサムはこの場から逃げ出そうとする足の動きを何とか封じることができていた。


「これだけ売れたんだ。もうすぐ村に戻ることになる」

 天幕の下に向けていた目をイサムに戻して、グガはそう口にする。


 イサムへと向けられたグガの視線に申し訳なさが含まれているのは、その言葉の意味するところが、イサムの仕事の終わりであるからだろう。

 だが商品を売り捌いてきたイサムにとってグガの言葉は十分予想できたもので、今更慌てるものではなかった。


「……うん。まぁ、力になれて何より」

 適当な言葉を返すイサムに、グガは「今すぐではないが」と付け足すように続けてくる。


 その付け足しは取り繕うようなものに思えたが、イサムはその内心にまで関心が持てなかった。今、イサムの頭に思い浮かぶのはこれからの仕事の心配などではなく、この街で再び商売をするだろう時の、グガの苦労する姿だけだった。



 そうして上層での仕事を終えて、イサムは下層の帰路に就いた。


 帰路を進むイサムの足取りは体に募る倦怠感に、いつの間にか下層に暮らす人々のものと変わらなくなっていた。さすがに一日一食では体が持たず、仕事の報酬の一部を使って自身の食費に充てている。しかしそれによって疲労が癒えても尚、体は重い。

 時折、どうしてこんな生活を強いられているのか、本当にわからなくなることがある。自身の選択による結果だと知りながら、思考がそちらへ向かうにつれて、イサムは背後に限界の足音が近付いてきている気がした。


 慣れた道を進んで向かう先は、以前から利用している宿泊所だ。仕事を見つけたことで懸念だった宿泊費の問題が解決されて、イサムとユーラは変わらずにそこに泊まることができていた。

 只、解決に至るまでの事情はイサムが当初予定していたものとは大分違う。多くの商品を売り捌いたイサムだったが、その実、宿泊費に見合うだけの石を得ることはできなかったのだ。


 宿泊所の中に入れば、待ち構えていたかのような宿泊所の女主人、リレイタの姿が目に入る。イサムは視線が合うと、革袋の中から今日の仕事の報酬である巾着袋を取り出し、差し出した。


「いつも悪いわね」


 全くそう思っていない様子でそれを受け取って、リレイタはいつものようにその場で中身を確かめ始める。


 巾着袋の中身は石ではない。この街で採れ、ありふれている塩だった。


 リレイタは袋の中に指先を突っ込み、かき回すように動かしている。初めてではないその光景を目に映しながら、イサムは異界と自身の常識が違うことを改めて思った。


 どうして塩で宿泊費を支払うことになったかといえば、そもそも石に対してイサムの誤解が存在していたからだ。いくつか商談を重ねる中でイサムが気付かされたのは、石はやはり石でしかないという当たり前のことだった。

 ここでは確かに、石が金銭としての機能を有している。しかし少し見た目の良い指先ほどの石、それ自体には何ら生活に寄与するものがなく、またその流通量もイサムの当初の想像を遥かに下回っていた。

 ダムティルは森や他の街が近く、様々な物が集まる上にこの街自体も相応の価値を持つ塩を生み出す。

 多くの人が何かしらの物を持っている状況では、物を得るために数少ない石を介在させるより、直接物々交換を図った方が手っ取り早い。もしも物がなければ自身で労力の提供を行うことも多く、石を使った支払いは決して優先順位の高いものではなかった。

 そしてそれはイサムの手伝う商売にも、宿泊費にもいえることだったのだ。


 イサムが考えている間に確認を終えたのか、リレイタは指の動きを止めて袋から引き抜くと袋の口を閉じていく。


「はい、どうも」

 簡素な受領の言葉で、明日の分の宿泊費の支払いが終わった。


 今までの支払いで、イサムがけちをつけられたことはない。けれど受領の言葉を聞くことで、今日一日の仕事を終えた思いを得て、ようやくほっとする。


 イサムはその心地のままに女に軽く会釈をすると、休息を求めてユーラの待つ宿泊部屋へ向かった。


 宿泊所の奥へ進んで部屋まで近付けば、聞こえてくるのは小うるさい女性の会話の声だった。それはイサムが疲れた様子を見せつけながら部屋に入り、寝台へ進んで倒れ込んでも止むことはない。


 抗議の意を込めてイサムが視線をやれば、会話をしていた二人の内の一方であるユーラがイサムへと視線を返し、二人の目が合った。


「お疲れ様」

「お疲れ様です」

 ユーラの声に重なるのは、ユーラと同じ寝台に腰掛けたパルツィラの声だった。


 会話を止めたパルツィラは立ち上がると、イサムの寝台へ近付いてくる。

 イサムは顔を寝台に伏せて横になったまま、革袋を左手に持って掲げた。


「ありがとうございます」

 その声と共に、イサムの左手から重量感が失われる。


 イサムが軽くなった左腕を寝台に下ろせば、どさりと音を立て、次に聞こえたのは革袋の中を漁る音だった。

 外は既に夕闇に染まり、宿泊所の中も薄暗くなってきている。

 暗がりの中で革袋を漁る音が止むと、続いて部屋に響いたのはしゃくりしゃくりと果実をかじる小気味いい音だった。


 イサムの視線が横を向けば、ユーラとパルツィラが渋い顔をしながら静かに果物へ齧り付いている姿がある。


 パルツィラがこうしてイサム達の前で食事を取るようになったのは、ここ最近のことだった。

 上層の食料品をユーラの世話に対する礼だと提供しようとするも固辞されるのが常であり、イサムは避けられていると思っていた。イサム自身、面識のない女性と同室だということに緊張感を覚えていたので、そんなものだろうと思っていたのだが、パルツィラには何処かで心境の変化があったようだ。思い当たるのは数日前に渡した紙片ではあるが、生憎と字の読めないイサムにはそこに書かれた内容がさっぱりわからなかった。


 紙片はある日の帰り道、大階段を下って中層に来た時に突然渡された。

 渡してきた相手は若い男で、どうやらイサムが営業を掛けた相手の一人らしく知った様子で話し掛けてきたのだが、一日に何軒もの店を回るイサムには全く覚えがなかった。

 若い男はパルツィラへ渡すように指定してきて、また紙片を受け取った時のパルツィラの反応からも、どうやら二人に面識があることはイサムにも予想がついた。だがそこから事情を聞き出せるほどに、パルツィラと親しいわけではない。


 イサムが眺めている内に果物を食べ終えて、二人はどちらともなくまた談笑し始める。


 パルツィラの仕事はイサムよりも早く終わるそうで、宿泊所に戻れば二人が会話する姿を見掛けるのは珍しくなかった。

 ユーラとパルツィラが日頃どんな話をしているのかをイサムは知らない。只、二人の打ち解けた様子には、ユーラならばパルツィラの心境の変化について何か聞いているのかもしれないと思えた。


 二人の姿を視界に入れて漫然と考えていたイサムだが、ふと体に重みを感じてそちらへ視線を移す。

 そこには女性二人から逃げるように、イサムの寝台へと移動してきた蛇がいた。

 蛇は二人の会話が終わらないことを知っているようで、うんざりしているとでも言いたげに緩々とした動きで、イサムの体の上に丸まっていく。


 蛇の行動でそれまで考えていたことを打ち切られ、イサムはそのまま顔を寝台に伏せた。


 パルツィラと紙片を渡してきた男の関係にこの街の代官との面会など、イサムには細々と気に掛かることが山積している。しかしそれも全て、ダムティルを離れてしまえば関係ないことだった。

 ユーラの体調はほぼ完調し、旅路の路銀を稼ぐためにも続けていた仕事ももうすぐ終わることになった。


 耳に聞こえるユーラとパルツィラの声を遠くに感じながら、イサムは明日から、そしてこれからすべきことをぼんやりと考えつつ、一日を終えようと眠りに入った。


 けれどイサムの今日という日は、まだ終わってはいなかった。

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