24 変化と終わり
知らない者が部屋に増えたからといって、私の生活が変わるわけじゃない。パルツィラがそう思ってから早十日。生活はその思いとは裏腹に、同室のイサムとユーラに引きずられて変化を余儀なくされていた。
パルツィラの生活の変化としてまず挙げられるのが、寝台の上から満足に動けないユーラの世話をすることだった。
手が足りないからと宿泊所の女に請われ、パルツィラはどうして私がと思ったものの、自身が下層にやって来たばかりの頃を思い出せば、同じ獣化病の者への手助けを断ることはできなかった。
体を拭き、服を着替えさせ、用を足すのを手伝う。パルツィラが仕事へ行く前や、仕事を終えて戻ってきた後などの空いた時間を中心に、そうして世話をしていると嫌でも気付かされるのが、同じ獣化病の者の中でも存在する自身と他人との体の違いだった。
今日も仕事を終えて戻ってくるなり、パルツィラはユーラの背中を拭いている。
作業の最中、否が応でもパルツィラの視界にちらつくのはユーラの白い綺麗な肌に、手拭いを握る自身の、赤い体毛で覆われた腕だった。
ユーラの獣化の具合からは獣化病が治りかかっているだろうことを察せられるが、それでも自身の体との対比にパルツィラは、そもそもユーラが獣化病であることすら疑いたくなってしまう。
その体を目に映していると、パルツィラの頭に思い浮かぶのは獣化病になったばかりの、まだ家族で暮らしていた頃の記憶だった。家族が涙を目に浮かべながら自身の体毛を剃る姿を、パルツィラは忘れたことがない。体毛の濃くなる自身の体に戸惑いはあった。だがそれ以上に、悲しむ家族の姿に深く落ち込んだのを覚えている。
パルツィラの拭くユーラの傷のない白い背中。来たばかりの頃は生気が薄く青白かったそれは、いまや体調の回復を見た目にも感じさせてくる。そして健康を取り戻して輝くそこからは、パルツィラの家族のような、周りの悩みや苦労を背負っているようにはとても思えなかった。
耳を見れば同じ獣化病だと疑いようもない。けれどまるで人と変わらないその背中はパルツィラに、自身の指先から伸びる鋭利な爪で、傷を付けてやりたい願望が抱かせてくる。それは同じはずなのに違うユーラの体と、もうすぐ下層から出ていくだろう未来に嫉妬しているのかもしれなかった。
「ありがとう」
パルツィラが手を止めて背中を眺めていると、ユーラから声が掛かった。
拭き終えたと思ったのだろう。こうして折を見て掛けられる感謝の言葉に、パルツィラは今日も自制を促された。勿論、本当にユーラを傷付けるつもりはない。只、じっとユーラの背中を目に考えていると掛かる言葉は、自身の嫌な願望に対して警告しているように感じられて、どきりとしてしまう。
「どうしたの?」
動かないパルツィラを不審に思ったのか、背中を向けていたユーラがそう口にしながら振り返ってくる。
「いえ、あの……」
そうして向けられたユーラの視線に、パルツィラは慌てて口ごもった。
パルツィラの生活の変化で次に挙げられるのは、主にユーラを相手にした、会話の機会が増えたことだった。
昨今のパルツィラの下層の生活の中に会話の、特に雑談をする機会は失われていた。与えられるわずかな食事に、課せられる過酷な労働。無駄な労力を割くことを嫌った下層の住民達は自ずと口が重くなっている。そんな日々の中でパルツィラが会話をする相手といえば、宿泊所の女主人のリレイタぐらい。それも会話の内容は生活における連絡事項ばかりで、記憶に残るようなものは何もなかった。
ユーラはパルツィラの言葉を待つように、じっと視線を合わせたままだ。
それに堪え切れず、パルツィラの口からは言葉が零れた。
「どうすれば獣化病が治るのかと思って……」
途端、ユーラの顔がきょとんとしたものに変わった。
そしてユーラの表情の変化に、パルツィラは自身のしたことに気付き、焦った。
失言だったという思いが、パルツィラの胸中に渦巻いていく。口から出た言葉は確かに日々思っていたことだったが、意識して避けていた話題でもあったのだ。
イサムという男を連れて下層に下りて来た意味を考えれば、それはつまりそういうことなのだろう。それをわざわざ口に出して尋ねてしまったことがはしたなく、パルツィラは恥ずかしくて仕方がなかった。
「すみません! さっきのは聞かなかったことにしてください……」
ユーラから顔を逸らしながら、パルツィラの顔は次第に紅潮していく。
当然ながら、パルツィラがユーラと話すのはこれが初めてではない。宿泊所にイサムとユーラが来た当初は、相手にもしていなかった。だが二日目には部屋に籠もったユーラの暇潰しに話し掛けられ、併せてリレイタからも世話を頼まれれば、言葉を交わすのは自然なことになっていた。
そうこうしている内に、いつの間にか気が緩んだのかもしれない。パルツィラの言葉に返ってくる声はなく、無言の空間の中でパルツィラは恥ずかしさに顔を伏せた。またそうしながらも、頭の中ではここ数日が下層に来てからの生活、そして自分自身をも変化させ始めていることに気付かされた。
恐る恐る横目でユーラの様子を窺えば、ユーラは先ほどと変わらない様子で座っている。
先ほどの言葉の意味にはどうやら気が付いてないようで、怒らせていないとわかってパルツィラは一先ずほっとした。
事務的な会話ではない、他愛のないユーラとのやり取りは、既に宿泊所と仕事場を往復するパルツィラの生活における楽しみになっていた。
下層の暮らしに楽しみを見つけるという自身の変化には驚かされたが、それは不快なものではなかった。只、少しだけ家族で暮らしていた時のことを思い出して、パルツィラは胸が苦しかった。
沈黙が気まずくなってきた頃、パルツィラは別の話題で口を開こうとして、部屋の入口から聞こえてくる足音に気付いた。
それにはユーラも気が付いたようで、二人してそちらへ視線を向ける。
「ただいま」
その言葉と共に部屋に入ってきたのは、疲れた顔のイサムだった。
仕事を終えたばかりなのだろう、イサムは声にも疲労をにじませている。そして部屋に入るなり、自分の寝台へ向かって一直線に進んでいく。
パルツィラとイサムの接点はユーラに比べて圧倒的に少ない。それはパルツィラが日々を宿泊所と仕事場を往復して過ごすように、イサムもまた下層と上層を往復していて、顔を合わせることが少ないからだ。特にここ二、三日は疲労の色を強くして、仕事を終えて戻ってくるとすぐにイサムは寝入ってしまい、会話をする機会がなかった。
只、接点は少ないながらも、パルツィラのイサムへの印象は悪くない。
最初は獣化病のユーラだけを置いて、早々に上層へといなくなると思っていた。だが他の者とは違い、イサムは上層へ行くことはあっても下層へ必ず戻ってくるのだ。特別な興味はないけれど、それだけで与えられる印象は良いものへとなっていた。
今日もいつものように入口近い寝台へ進むのを見て、パルツィラはイサムから視線を外そうとする。
しかしそのイサムの足が不意に止まった。
そしてイサムは何かを思い出したかのように顔を上げると、視線をユーラとパルツィラの方へ向けて進路を変えた。
近付いてくるとはっきりしてくるのは、イサムの視線が向いているのはユーラではないということだ。
向けられた視線にパルツィラが何の用かと困惑している内に、イサムは二人の座るユーラの寝台までやって来た。
そしてイサムが「これ」と言いながら差し出してきたのは、手の平ほどの大きさの紙片。それには何やら文章が書き付けてあった。
「はい?」
「あ、ああ。なんか君宛てだって、上で貰った」
予想外のそれにパルツィラの口から疑問の声が出れば、イサムが慌ててそう言った。
その説明を聞いても不可解であることに変わりはなかったが、自分宛てならばと、パルツィラは手を伸ばしてそれを受け取る。
そうして流れのままに受け取った紙片の文章を読んだことで、パルツィラのこれまでの日々は唐突に終わりを告げた。
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