三章
1 修道士(1)
浅間イサムは、自身を食い道楽だと思ったことは一度としてない。
一人暮らしをしている時は、外食や中食を中心にしていた。しかしそれは利便性故であって、味を求めてのことではない。味気のない栄養補助食品に水だけの食事を続けたこともある。
だからこの異界での食生活について、不満を感じるということをそもそも想定していなかった。
イサムとユーラがオルモルの小屋から旅立って、既に二週間が経つ。
だが道を進む二人の姿は、いまだ森の中にあった。
オルモルから学んだ技術によって、二人の食事は異界に来たばかりの時よりも多少改善した。けれど本質的な変化はない。
今朝の食事も木からもいだ酸味のきつい果実と捕まえた獣の肉を焼いた、素材の味だけが十二分に活かされたものだった。
その料理と呼べるか怪しいものを、ユーラはいつもと同じようにひたすら無言で口に運んでいる。
イサムも同じように食事を進めつつ、頭は自身の持つ食事への認識について考えさせられていた。
簡素な食事を自ら進んですることと我慢や仕方なしにすることは、行動が同じでも全く違うことだった。手を伸ばせばいつでも好きなものが食べられる環境だからこそ、イサムは一時の間を味気のない食事に耐えることができていたのだ。
今、イサムは無性に味の濃いものが食べたくて仕方がなかった。思い浮かぶのは、最後に外食をした実家傍の中華料理屋。あれが最後だとわかっていたならば、馴染みのラーメンと餃子のみならず、炒飯ぐらいは無理をしてでも食べていたはずだった。
黙々と食事を続けるユーラの様子を、ちらりと横目で窺ってみる。
あの中華料理屋での、ユーラの喜び様を覚えている。しかしこんな食事が続いても、ユーラは不平不満を一切漏らさない。
イサムは手元の果実に視線を戻した。そして空腹を満たせば自分の不満も減るだろうと、食べる速度を一層速めた。
食事の質に不満を抱けるのは、心に余裕のある証拠だった。
いまだ途切れない森の中にいるイサムとユーラだが、その表情は暗くない。それは道を進み、確実に目的地へ近付いていることがわかっているからだ。
足を取られそうな石がごろつく獣道の延長は、今や人や馬車の通れる立派な道へと変わっていた。
只、進んでいる道はユーラが旅していた道と違うようで、道沿いにある村々の何処もがユーラの知らない村だった。
辿り着く村は皆が排他的で、商人でも巡礼者でもない二人組を迎えてくれはしなかった。道の確認だけを許されて、門前払いをされるのが常だった。廃村も多く、イサム達は相変わらず森で食糧と水の確保に動き、オルモルに対して感謝の念を抱く機会を山ほど得ていた。
また村を訪れることが増えてくる中、イサムはあることをきっかけに異界語を話す練習を始めていた。
それはある日の、村を訪問した後のことだった。
『やっぱり、その耳が原因なのかね』
その日、二人は昼頃に巡礼路沿いに村へ辿り着き、他の村と同じように追い返された。
ユーラが村の者へ話し掛けた当初の感触は、悪くなさそうに見えた。だがユーラが獣化病だと気付くと途端に態度を硬化させて、相手はこちらの話に聞く耳を持たなくなったのだ。
「じゃあ、次の村はあなたが行くのね」
苛立ちの混ざったユーラの声が、後ろを歩くイサムの耳に届く。
嫌味のつもりではなかった。獣化病の者に悪感情を抱く者がいる。オルモルの話から知ったことを、イサムは何気なく口に出しただけのつもりだった。
そもそもイサムには獣化病の存在がいまいちよくわかっていない。イサムの主観からすれば、何か容姿を変える魔術でも使っているようにも思えてしまう。ユーラに病だという根拠を問うても、症状は知っていても、その点に関しては偉い人が決めたとしか答えられなかった。
そんな偏見がないからこそ、イサムは異界の言語に不慣れであることを口実にして、村を訪れた際の対応を全てユーラに任せることができていたのだ。
只、今の言葉は当事者意識を欠いていたかもしれない。イサムはそう思うも同時に、自分が行ったところで満足に交渉できないことはユーラもわかっているはずだとも思った。
気が立っているのだろう。軽く謝って宥めようとイサムが考えていると、前を歩いていたユーラの足が不意に止まった。
ユーラはそのまま振り返ってきて、イサムを睨み付けてくる。
その視線を浴びて、イサムは背中に冷たいものを感じた。そしてユーラの怒りの大きさにようやく気付いた。その原因を必死に考えてみれば、自分が異界への慣れから何処か緊張感をなくして、迫る事態にもお客様気分でいたことに思い至る。もしかしたらユーラは大分前から村人の対応だけでなく、イサムの態度に対しても怒りを溜めていたのかもしれなかった。
『あの、悪い』
気の利いた言葉が思い付かず、イサムはおずおずとそう口にした。
しかし謝罪は既に手遅れだったようで、振り上げられたユーラの拳に、イサムは物理的にも精神的にも叩きのめされることになった。
それから幾日か経って訪れた次の村。
村の入口には語らう複数人の姿があった。話に夢中なのか、やって来たイサム達に気付いた様子はない。
「スミマセン。アノー……」
「あぁ?」
イサムが緊張を胸に話し掛ければ、返ってきたのは呆けたような声だった。
あの後、イサムはユーラへ謝罪を重ねて、そして村へ辿り着いたら口火を切ることを約束させられた。
この村は、その約束を履行する最初の機会だった。
村人達はイサムに気付くと、怪訝そうな視線を向けてきた。まず顔を、そして視線を下げて、イサム達の恰好を確認してくる。
ユーラは外国人の、洋風の顔立ちをしているが、どうやら異界の皆がそういうわけではないらしい。顔立ちや肌の色も様々で、日本人やアジア系の顔立ちも巡った村の中でちらほらと見掛けている。今回イサムが顔を見られても、違和感は持たれていないようだ。只、顔に刻まれたしるしがどう思われたかはわからないが。
またイサムの恰好は素肌を隠す紺色の長袖シャツに深茶色の長ズボン、その上に深緑の外套を羽織っている。背中にはリュックサックを背負い、腰にはオルモルから餞別で貰った短剣があった。後ろに控えるユーラも同様の格好で、その手にはトレッキングポールが握られている。
イサムはこの世界の巡礼者を知らない。だがどう贔屓目に見ても、自分達の姿が巡礼者には見えないことは想像に難くなかった。
こちらでは見慣れないだろう恰好に片言の言葉、その首元には蛇が陣取る。それらが村人達の不信感を払拭できるわけがなく、その顔は険しいままだった。
「すまんが、今は余所者と話す時間はなくてな」
「ソウですか……」
そんな村人相手に食い下がっても意味はないだろう。
イサムはすごすごと引き下がると、後方に控えていたユーラの下へ戻った。
『駄目だった』
「人のこと言えないじゃない」
返す言葉もなく、イサムはうなだれた。
自身が浮いた存在なのだと思い知らされる。またそんな自分を助けてくれている、ユーラの存在の大きさに改めて感謝の念を覚えずにはいられない。
そしてこの日からイサムは一日の中で必ず時間を取り、ユーラを相手に異界語を話す練習を始めたのだった。
朝食を終えて、イサム達は今日も道を歩き始める。
先日追い返された村で、まだまだ森が続くことだけは聞いていた。今日という日も只々歩き続けるだけの、そんな一日だろうとイサムは何とはなしに思っていた。
そうして時刻は昼を過ぎた頃。
額に汗をにじませて歩くイサムの視界に、見慣れないものが入ってきた。
進む道の先、往来の邪魔にならない道の中央を外れた脇の方に、こんもりとした固まりがある。人の大きさほどはあるそれは、黒い布で覆われていた。
森の中で明らかに浮いたそれを見て、イサムは何処かで似た状況があったことが思い起こした。
自然と二人の歩みは止まった。けれど一本道を引き返すわけにも行かず、進まざるを得ない。
慎重な足取りで近付けば、それはやはり人のようで、寝息らしい規則正しい呼吸音が聞こえてくる。悪臭もなく、疲弊して行き倒れているというよりは単に寝ているように思えた。
それの様子を窺うイサムに、ユーラは目でどうするのかと問い掛けてくる。
目の前の光景が、ユーラとの出会いと重なった。恐らくあの時とは状況が違うのだろう。けれどこのままにしておいたなら、動物や魔物に襲われる可能性は十分にある。
「もしもし」
イサムは自然としゃがみ込み、声を掛けていた。
少し前だったら、こんな面倒に関わろうとしなかった。無意識に出た行動で自身の変化に気付かされて、驚きがある。ユーラを一度放置した、あの時の顛末が自分の中で尾を引いているのかもしれない。
「随分優しいのね」
ぼそりと飛んできたユーラの言葉には棘があった。
面白くなさそうな声色は自分の時との対応の差、その不満を訴えているようだった。
思えば、最初はユーラの言葉を無視していた。忘れていたそれを飛んできた言葉で思い出せば、イサムが気まずさを感じるのは当然だった。
「ん……」
布の固まりが身じろぎ、若干高い声を発した。
その声が聞こえたことをこれ幸いと、イサムはユーラの言葉に聞こえなかった振りをした。そのまま目の前のことに集中しようと、布の固まりを注視する。
声の高さからは、それが女性だと想像できた。だが顔も体と共にすっぽりと布に覆われて確認はできない。
確かめるにも、寝ている女性に無断で触れていいものなのか。女性慣れしていないイサムは判断に困ってユーラを見た。
するとユーラは溜息をつくと、イサムを立たせて場所を入れ替わる。
「あの、ここで寝ていると危ないですよ」
ユーラがそれを揺すりながら、大きめに声を掛けていく。
揺する手で見当をつけたのか、布を剥いでその下が露わになれば、そこにあったのはやはり女性の顔だった。
「う、ぅ……」
しかし聞こえてくるのは、不快そうなうめき声だけだ。
女は返事をせず、体が揺すられ続けてもそれから逃れるように身じろいでいる。うめき声は発するが、一向に目を覚ます素振りはなかった。
「無理ね」
それだけ言って、ユーラはすぐに立ち上がった。
人として最低限の義理は通したと、そう言わんばかりにユーラがイサムを見てくる。だがイサムとしては一度こちらから関わっておいて、それを放置していくのは何だか決まりが悪かった。
日は傾き始めているが、まだ明るい。普段ならばまだまだ歩みを進めている時間帯だった。
そんな中、イサムが「今日はここまでにしよう」と言い出すと、ユーラは心底呆れた様子だった。
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