幕間
幕間
大型の帆船が海を進む。
定期船として島の港を出発した船が運ぶ積荷は、いつもと同じ膨大な量となる穀物と、出発間際に急遽追加された例外だった。
その例外として船に乗り込んだナリアは、甲板から太陽の光に輝く真紅の海を眺めていた。
海は天を支える巨人の血と汗で出来ている。
初めて海を目にした時、信心深くなかったナリアでさえ、聖教会の語るその神話を真実だと思った。
空の青と血のような赤が果てまで続く光景は、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせて、神話を疑うことを許さない。
これを目にしながらまだ見ぬ大陸を目指した過去の航海者達に、ナリアは尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
海風が吹きすさび、ナリアは乱れる髪を手で押さえた。
海の匂いは人の血のそれとは違う。濃い潮の匂いに初めて海を渡った日を思い出して、ナリアの胸には懐かしさが込み上げていく。
そんなナリアに声が掛かる。
「こんなところにいたんですか。船室にいないというから、何処にいるのかと。申し訳ないんですが、船室で休んでいてもらえませんかね」
ナリアは声のした後方へ慌てて振り返った。
声を掛けてきたのは船員だ。ナリアの慌て様を目にして、その顔に焦りを浮かべていた。
「すみません。酔ってしまって……。少し海風に当たったら、すぐに部屋に戻りますので」
「……何かあったら、すぐに声を掛けてくださいよ」
船員の迷惑そうな口調にナリアは申し訳なさを感じながらも、その場から動きはしなかった。
大陸への輸出を担う貨物船は七日に一度、定期的に港を出る。
それに対して、人を運ぶ輸送船は不定期且つその頻度もない。大陸から島へ渡る船に制限は掛けられていないが、島から大陸へ渡る船には厳しい渡航制限が敷かれていた。
そして現在、島の輸送船に大陸へ向かう航行は予定されていない。
その中でナリアは大陸へ渡るために、聖教会の力によって貨物船へ乗り込むことになったのだ。
出発間際に積荷の追加で予定が狂うこと、それが人間でしかも要人であることに、船員達の間には緊張と苛立ちが募っているようだった。
ナリアの船旅の経験は大陸から島へ渡ったのが最初で、島から大陸へ渡る今回が二回目となる。
いまだ右も左もわからない海の上で、船員の邪魔をしたくないと思ってはいた。けれど慣れない船旅による酔いと、故郷へ近付いている懐かしさから、ナリアは用意された船室で大人しくしていることはできないでいた。
まだ大陸は見えてこないのかと船の向かう先を見詰めながら、ナリアはこの旅に至った経緯を思い返した。
「今回のことは大変残念だった」
呼び出されたナリアは部屋に入るなり、挨拶もそこそこにそう切り出されて閉口した。
入室を許された部屋の中は大きな窓から採光されて明るい。造りは他の部屋と同様に、白い石材を基調としている。調度品の類はなく、壁に沿って本棚が並び、入口正面には大きな机と椅子が来客を迎えるように置かれていた。後は申し訳程度に長椅子が部屋の隅に置かれるのみで、物の少なさが厳かな雰囲気を演出している。
部屋の持ち主である男は、椅子に腰掛けたままナリアを迎えた。綺麗に片付けられた机に両肘をつき、組まれた両手で顎を支えている。じっとナリアを見据えて、その返事を待っているようだ。
ナリアには逆光で、視線を感じるものの男の表情まで窺うことはできなかった。
「……私の力不足が招いた結果かと。大変申し訳なく」
「そうではないだろう」
ナリアの言葉を遮って男は口を開く。
最初から彼は自分の謝罪など必要としていないのかもしれない。ナリアは男の視線を受け止めながらそう思った。
「あのような結果は誰も予想をしていなかった。前回の選定を見届けていた猊下でさえだ。誰も君を責めはしまい」
「しかし多くの方が期待を寄せてくださったと、そう聞き及んでおります」
「予期せぬ結果であったが、最悪の結果ではなかった。だが君の心配も最もだ。それは今後とも君が教会に尽くしてくれることで払拭されていくことだろう」
「お言葉のままに。力の限り、そうさせて頂く所存です」
ナリアの言葉に、男は鷹揚に頷く。
男の痩せぎすな体躯と切れ長な目は、神経質そうな印象を与えてくる。けれどその印象と異なる言葉と態度には、上に立つ資格を持つことを十分に感じさせられた。
男は目を瞑ると、そのまましばらく黙っている。
何の話で呼ばれたのか、ナリアに心当たりはなかった。労うためだけに人を呼び、会う時間を作るほど、男に暇はないはずだった。
黙ったままの男は、なかなか話を始めない。
無言の時間が無駄に思えて、ナリアは取り敢えずとばかりに口を開いた。
「あの……、猊下は何と?」
「案ずることはない。君のことは何も仰っていなかった。今は先ほど選ばれた者と秘儀堂へ入られている。今日にでもお言葉を賜るかもしれん」
「では」
「みなまで言うな。神の御心を推し量ることなど、誰にもできん。その時まで、余計なことは考えずともよい」
男の言葉にナリアは黙るしかない。
部屋の中に気まずい沈黙が満ちていく。
再び訪れた無言の時間に緊張が高まり、焦れたナリアが何か言葉を発しようとする。
その時、男の目が開いた。
「君に仕事を頼みたい」
「仕事……?」
思わず聞き返したナリアだったが、すぐさま自身の非礼に気が付くと、床に膝をついて顔を伏せる。
「構わん。立て」
男の言葉にもナリアは上目で見るに留まると、男が再び立つように手で促してそこでようやく立ち上がった。
「驚くのも無理はない。本来であれば、仕事を命じられることなどありえないからな」
ナリアの胸に男の言葉が棘のように突き刺さる。
「これを」
男は書簡を収める筒を机の上に置くと、ナリアの方へ差し出してきた。
ナリアは前に進み出ると、それを両手で取り上げる。
「中を拝見してもよろしいですか?」
「構わん。何てことはない。今回の結果のことが書かれているだけだ。君にはこれを、カラトペのギッティ大司教に直接渡してもらいたい」
中の書状を取り出して、その文面を確かめていたナリアの手が止まった。
ナリアが顔を上げれば、椅子から立ち上がった男が窓から外を眺めるように背を向けている。
「君の言うことは正しい。多くの者が君に期待していた。それは教会の中だけではない」
切り捨てられた。
男の言葉を耳にしながら、ナリアの体にその思いが巡っていく。
「偶には帰郷して、ゆっくりするがいい。もうこちらに来て何年になる?」
「七年になります」
答えるナリアの動揺に、男は気付いていないようだった。
「そうか。もうそんなになるのか……」
男は喋りながら、本棚まで歩いていく。
そして本棚に本と同じように並んで収められていた箱を取り出すと、机まで運び、その上蓋を外した。
箱の中には、畳まれた書状がぎっしりと詰まっている。
「では、ここからが話の本題だ」
男は箱から書状の束を取り出すと、机に並べながらナリアにそう告げた。
「陸が見えたぞー!」
大きな声が近くから聞こえ、意識が現実へ引き戻される。
目を凝らして遠くを見詰めれば、ナリアの目にも陸地を捉えることができた。
船が出港して五日あまり。
長い航海ではなかったが、ようやく見えた陸地にナリアは人心地つく。
ナリアが大陸を離れて七年、故郷の村を出てからは十二年経つ。
使命のために戻ってきた。しかしその実は都落ちと同義だ。王都にもう戻れないだろうことは、ナリアにもわかっていた。
それでもナリアには、聖教会から与えられた使命を果たすより他なかった。
かの地から、自分の故郷はとうに姿を消しているのだから。
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