16 別れ

 イサム達が旅立つその日、体調を崩したキキョウとは寝台の上での別れとなった。


「プレダまで行ったら、またこちらに伺います」

「きっとね」


 キキョウの笑顔に送り出されて、イサム達は小屋を出る。

 オルモルとドニスは見送りに廃村まで同行した。


「またアおう」

「ああ」


 オルモルとイサムが交わす言葉は短い。

 五日間の中で様々なことを語らい、別れに特別な言葉は必要なかった。


 そうしてイサム達は道を進んでいく。

 こちらを振り返ることもしない遠くなる背中を、オルモル達は眺め続けた。


「本当に良かったのか?」

 イサム達の姿が小さくなると、ドニスが声を掛けてきた。



 オルモルは五日間、イサムとユーラに森での過ごし方や狩りの方法、獲物の捌き方を教えた。結果は十分身に付けたとは言い難いものだったが、あまり知識のなかった当初に比べれば大分良くはなっていた。


 イサム達の準備を手伝いながら過ごす日々の中、それは旅立つ前日のことだった。


「良かったら、一緒に行かない?」

 ユーラが誘いの言葉を掛けてきて、イサムもそれに頷いてくる。

「……ありがとう。だけど、今は行けない」

 オルモルはそれを嬉しく思うも、答えは最初から決まっていた。


 行けない理由は明白だ。日頃から体調を崩すキキョウは、もう長くないことを皆に感じさせていた。

 寿命なのはわかっている。それでも一日でも長く生きて欲しい。その思いが自分の寂しさから来るわがままだとわかっていても、オルモルは止められなかった。

 キキョウの体に負担がないように、ここ一年は小屋に閉じ込めるような生活をさせていた。そんな生活が続く中での先日の遠出は相当な体への負担になったようで、ここ数日、キキョウはずっと寝台の上だ。


 イサムとユーラはわかっていたのか、オルモルの答えを聞いても静かに頷くだけだった。


 花畑への遠出以来、オルモルは自分のしてきたことに後悔に似た葛藤を覚えていた。

 長く生きて欲しい。だが小屋の中に閉じ込めて何のために生きろというのか。花畑で目にした、生き生きとしたキキョウの表情を、オルモルは久しく見ていなかったという事実に気が付かされた。自分のわがままのために、キキョウに我慢をさせていたのだ。

 今はもう、残りの人生をキキョウの好きなように生きて欲しいとオルモルは思った。そしてその最期の時まで寄り添っていたい。

 それはキキョウに我慢を強いたことへの贖罪の気持ちではなく、純粋に母を想う気持ちだった。



「今は母さんの傍にいたい。それに俺だって、自分一人で旅くらい出来るさ」

 ドニスの問い掛けにそう返し、オルモルは笑った。





 オルモルの笑顔を見て、ドニスは目を細めた。


 イサム達と出会い、オルモルは変わった。最初は人恋しさから来るものだとドニスは思っていた。しかし違った。イサムとユーラ、あの二人のオルモルを見る目がケルグや村人とは違ったからだ。それはキキョウのように恐れを抱かず、平凡な人へと向けるものだった。


 森で暮らすようになってから、オルモルが村を訪れたことはない。それは暮らしていた村だけではなく、歩いて行くことのできる隣村もそうだった。森の中で猟をする人間を見掛けても声を掛けることはなく、なるべく人目を避けていた。


 オルモルは人の目を通すことで自分が変わっていくと思い、それを恐れているようだった。それは自分自身の目も例外ではなく、水面に映る自分の顔を見る目は、いつも憎々しげだった。

 今にして思えばオルモルのそれと同様の思いを、ケルグもまた抱えていたのかもしれない。


 ケルグのことを考えると、ドニスの頭には花畑で見た白骨が浮かんでくる。

 あの白骨を、ドニスはケルグのものだと確信していた。


 オルモルとキキョウの住まう小屋は、元々ケルグが使っていたものだ。そこに家族がいるのを知っていて一度も会いに来ないケルグに、ドニスとキキョウは冷たい奴だと憤った。当事者のオルモルがそれに怒ることはなく、ドニスはそれを父に捨てられて絶望しているのかとも思っていた。

 村から去ったとされる時でさえ、ケルグは小屋を訪れはしなかった。ケルグにとって家族とはなんだったのか。ケルグに対する怒りは重なるばかりだった。


 だが白骨は花畑にあった。

 ケルグは家族の思い出が残るあの場所で死んでいたのだ。


 ドニスはキキョウの母親、ケルグとキキョウ、そしてまだ赤ん坊だったオルモルと花畑へ訪れた日のことを覚えている。寡黙な母親と夫に対して、キキョウがオルモルをあやしながら話し掛ける光景は微笑ましいものだった。


 ケルグは家族への想いを捨てたわけではなかったのかもしれない。だからこそ小屋へ、オルモルに会いに行くことを死ぬその時まで選ばなかった。


 森は姿だけでなく、オルモルとケルグの弱さをも隠した。

 オルモルは人の目に、化け物を前にしたように見てくる村人の目に自分の姿が映らなければ、自分は人のままでいられると思ったのだろう。村を出て森に入ってから、オルモルは自分の姿がどれだけ変わったか確認することを止めた。二足で歩き、弓を使い、その姿をどんどんと犬へと変えながらも、人であろうとし続けた。

 他方のケルグは、自分の目に変わっていくオルモルの姿を入れることを拒んだ。その目に入れないことで、オルモルを化け物だと思うことを、また自分の面影が消えていくオルモルを息子ではないと思うことを拒んだのだろう。生きているという事実のみを、思い出に残る姿に重ね、そこに息子の未来を想った。

 ケルグがオルモルを森に行かせる際、何と言ったのかをドニスは知らない。けれどケルグに怒りを向けないオルモルの態度は、その時に二人がお互いの弱さを知ったのだと思えた。


 自身の弱さを受け入れて、そしてそのままケルグは死んだ。

 けれどオルモルは自分から森へ出ることを口にした。その変化が、ドニスは只々嬉しかった。





 小さくなっていくイサムとユーラの姿を眺めながら、オルモルは二人のことを思い返した。


 戦いの後の五日間、自身を獣のようにして戦って見せたのに、二人の自分を見る目に恐れはなかった。

 オルモルは自分の姿が嫌いだった。人に恐れられる容姿を望んだことは一度としてない。人の目に自分の姿を映すことも嫌い、他の同類もきっと同じ気持ちで孤独に生きていると思っていた。だからだろう、同類が集まって生活しているという話を聞いた時には、価値観を破壊されるような衝撃を受けたのだ。

 自分の常識を覆すあの二人との出会いによって、オルモルは考える機会を得た。人であるとはどういうことか。それは自分が固執していたことなのに、今まで深く考えてこなかったことだった。


 オルモルが人であることに固執したのは、他の人の自分を見る目、その変化が恐ろしかったからだ。昨日まで笑っていた顔がある日を境に引き攣り、目を逸らす。あの時のことを思い返すと、今でも胸が痛くなる。

 最早この姿が元に戻ることはないだろう。もしかしたらもう二本の足で立って走るより、四つ足で走った方が速いかもしれない。それは自分の中で思い浮かべた、人間の像とはかけ離れたものだ。既に自分の体が人間のそれではないと、そう思ったことも何度もある。

 だがオルモルは愚直に、自分が人だと信じてきた。自分が人であるならば、他の人の、父の自分を見る目も変わらない。そう信じることだけが寄る辺だった。悪意の視線に自信の揺らぎを感じれば、それを避けようと森の小屋へ移ったのだ。


 自分だけを信じて、他者を恐れて、森へ逃げた。あの頃は必死だった。だからわからなかったのかもしれない。

 友人がいた。村に悪意と善意が渦巻く中、顔に怯えを浮かべながら、それでも手を伸ばしてくれた友人達がいた。

 けれど怖がる者には会いたくないと、意固地になって人の弱さを認められず、伸ばされたその手を振り払ってしまった。そして弱さの中にあった強さに気付けなかった。

 何を以って正しく人なのか、その答えはわからない。

 只、自分を信じるだけでなく、他人のことも信じたいとオルモルは思った。

 信じたい人達に出会ったのだ。


 イサムとユーラの姿はすっかり見えなくなった。


 空を見れば今日も快晴で、森の切れ間にある廃村には夏の日差しが照り付けている。まだまだ暑くなりそうだった。


「後で水でも浴びに行くか」

 オルモルはドニスに声を掛ける。


 そうして一人と一匹は、キキョウの待つ小屋へと引き返していった。

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