15 戦い終わって
天気は快晴、雲一つない青空だった。
夏の日差しが照り付けているが、心地いい風が肌を撫でる。花や草が風になびき、さわさわと立てる音もイサムの耳には心地いい。
「綺麗ね」
そう口を開いたのはキキョウだ。
久々の遠出に疲れを見せるキキョウだが、広がる光景には感じ入った様子だった。
「そういえばこの花、桔梗って言うんですよ」
ユーラは話しながら、一面に広がる紫の花を示す。
それは昨日、戦いが終わって小屋へ戻った後のことだった。
「その花、どうしたの?」
キキョウがイサムの服を見て、尋ねてくる。
夕食にはまだ早い時間。
イサムだけでなく他の者も空腹を訴えて、軽く食事をしようと皆で食卓を囲んでいた。
イサムが自分の服を確かめれば、花畑にあった花がくっ付いている。紫色で星型のそれを服から剥がすと、イサムはキキョウに差し出した。
「ありがとう。……懐かしいわ」
そう呟きながら、キキョウは差し出されたそれを摘み上げて目の前にかざす。
「その花、ご存知なんですか?」
「村の近くに花畑があるのよ。そこでしか見たことないけど、母が好きでよく連れて行ってくれたわ」
ユーラの問いに、キキョウは答える。
「オルモルも行ったことあるわよね」
キキョウがオルモルに話を振ると、オルモルは食事をしながら頷いた。
「今日そこへ行ってきたんです。明日も行く予定ですけど……」
ユーラがそう口にした途端、オルモルがユーラを睨み付けた。
「あら。じゃあ明日、ご一緒させてもらえないかしら」
「母さん!」
キキョウの言葉に、オルモルが食べるのを止めて声を荒げた。
「私もイサムもいるから大丈夫よ」
ユーラがそう言えば、味方を得たとばかりにキキョウは顔に喜色を浮かべた。
オルモルは縋るようにドニスを見るが、ドニスは諦めろと首を振る。その視線はイサムにも向けられたが、イサムは両手を軽く上げて無抵抗を示すことしかできなかった。
そうして戦いの翌日、再び花畑を訪れるイサム達にキキョウが同行することになったのだ。
イサムには桔梗のことを、幼い頃に祖母のチヨから教えてもらった覚えがあった。
昨晩、ユーラに確認してみれば、日本の山で見たものをカヨコに聞いて、そこでユーラも初めて知ったとのことだ。この異界で広く知られた花ではないらしい。
異界で一般的でないならば、イサムの住む世界の、例えばあの神社と呼ばれる土地を通じて、桔梗は異界にもたらされたように思えた。
キキョウの、キキョウという名前は、この花から名付けられたと考えるのが自然だ。そしてそうであるならば、キキョウの親は桔梗を知る、日本人だと考えられた。
「私と同じ名前なのね」
ユーラの摘んだ花を受け取りながら、キキョウは呟く。
神隠しに遭った者が異界に飛ばされて、それで生きている可能性をイサムとユーラは考えたことがある。言葉が通じず、魔物がいる世界に準備もなしに放り込まれることを考えれば、その可能性は限りなく低いという結論だった。
ユーラが言うには、この異界にイサムの住む世界の人がいた記録は少ないながらも残っているらしい。どのような記録かまではユーラもよく知らないが、その記録の信ぴょう性が疑われているのだけは有名とのことだった。
記録があるくらいだ。もしかしたら日本人の集団が、この世界にはいるのかもしれない。そこからオルモル達の住んでいた村へ、誰かしらが訪れたことも考えられた。そんなイサムの想像はユーラにしてみれば、記録はおとぎ話や寓話に近いもので、それを根拠に可能性を考えること自体がありえないと一笑に付すものだった。
キキョウは花畑を眺めながら、ユーラと会話を交わしている。
その様子は良くも悪くも普段通りで、傍に立つオルモルも安心しているようだった。
キキョウの母親は神隠しに遭った後、わずかしかない可能性の中で命を繋いだのだろうか。そしてこの世界の誰かしらと子を成してキキョウを生んだ。言葉もわからない、常識も通じないだろう孤独の中で、キキョウの母親は生きて、亡くなった。
イサムは常々、自分は帰ることができるからこそ、この場にいることができると感じていた。いわば今は過酷な旅行の道中だ。それがもしも帰れないとなってしまったら、自分は冷静にここでの日々を過ごすことができるのか。
この花畑を目にして、キキョウの母親は一体何を思ったのだろう。生まれた娘に、ここの花から名前を付けた。それがイサムには日本との接点を忘れまいと、ここに一縷の望みを託していたように思えて仕方がなかった。
キキョウとユーラの二人から少し離れた場所には、昨日と変わらず猪の屍が横たわっている。
それは動物に食い荒らされることもなく、綺麗なままだった。
取り留めのない思考を止めて、イサムは猪の屍へ歩み寄る。
その首元にはいつものように蛇がいて、またオルモルとドニスもイサムに続いた。
手を伸ばして触れてみれば、当然のことながら猪の体からは熱が失われていた。まだ腐敗臭はしていないが、この暑さにそれも時間の問題だった。
イサムは次に猪の目に突き立つポールの柄に手を掛けた。引き抜こうとすると、何処かに引っ掛かっているようで抵抗がある。途中で、ポールが曲がっているのかもしれない。
それでもぐいと引っ張れば、無抵抗の猪の首が動き、白く濁った左目がイサムを捉えた。
猪の屍と目が合うと、死体を弄んでいるかのように思え、延いてはオルモルと猪の戦いを冒涜したような気分になった。
そんな後ろめたさを感じてまで、イサムはどうしてもポールを回収したいわけではない。そう思うと溜息を一つ大きく吐いて、惜しみつつも自分のポールを諦めることにした。
また共に寄ったオルモルは、先ほどから猪の体に短剣を突き立てている。
「どうなってるんだ、これは」
オルモルの口からは愚痴がこぼれる。
死して尚、猪の体は容易には剣を通さない。押しても引いても傷がつかないそれは、突き立てることでようやく剣先がわずかに入るようだ。
わずかに出来た切り口を徐々に広げて、オルモルは猪の毛皮を剥いでいく。そして時間を掛けて作業を終えると、昨日言ったように残った部位には手を付けなかった。
「肉は血抜きをしてないからな、食っても美味くないだろう」
オルモルの言葉に反対の声を上げる者はいない。
只、イサムの首元では蛇が不満なのか締め付けてきて、それを宥めるのに後で肉を与えることを約束した。
ずっと森で暮らしているのだ、オルモルは猪の肉に処理が必要なことぐらいわかっていたはずだ。それでいてこれということは、昨日の内から肉に手を付けないことを決めていたのだろう。
またそうして残った猪の屍は埋葬せず、野に晒すことになった。そのまま朽ちるかもしれないし、他の動物が死骸を漁りに来るかもしれない。他のものに手を付けられても、オルモルはそれはそれで構わないようだ。猪の屍が森に生きるものに、戦いがあったこと、そしてその結果を示していくらしい。
戦いとは勝敗が決まって、それで終わりではないのかもしれない。その後の結果を受け入れること、それも含めてこその戦いなのだと、オルモルの行動や態度から思えてくる。
イサムは自分自身を振り返ると、そういう意味での戦いを、これまでいくつ終えてきたのかと疑問に思えた。負けたとなれば何かと理由を付けてその結果を受け入れず、戦いを終えるのではなく放棄してばかりのような、そんな気がしてならなかった。
オルモルとドニスは猪の屍の脇で、まだ何か作業を続けている。
それをぼんやりと見ていると、イサムの耳には不意に昨日の、豚の最後の一鳴きが甦ってきた。またそれと同時に、猪の屍の向こうにはあの豚達の姿が浮かんでくる。
敗北を受け入れるとは、一体どういうことなのか。
豚達はこれから、この森でどうやって生きていくのだろう。自分で導いた結果すら、イサムには受け入れ難いことがある。だが豚達は自身の関与しないところで勝敗を決められ、その大きな理不尽を受け入れて、これからを生きていくのだ。
それを選択する覚悟とその先の未来について、イサムは考えても想像がつかなかった。
しばらくして作業が終わり、いざ帰ろうという時だった。
「もう少し、見て回りたいわ」
ユーラを横に、花畑を眺めていたキキョウがそう口にする。
猪に勝ったからといって村に住むわけではなく、恐らくここに来る機会もそうないのだろう。
オルモルが作業をしている間に休んでいたこともあってか、キキョウの顔からは疲れの色が消えている。
ならばキキョウの願いを断る理由はないと、イサム達は花畑を一回りすることになった。
森の中に忽然とある花畑。歩いてみるとイサムの思っていた以上に広さがあって、その不自然さが浮き彫りになる。そしてそこは以前にも思った神社傍の、白い巨岩のあった場所を彷彿とさせてきた。
イサムは皆と一緒に歩きながら、あの白い岩や似たものを探して視線を動かした。
巨岩がないのは一目でわかる。しかし隠れた小さい岩があるのかもしれない。そう思うと地面や草丈が股下まである桔梗の根元に、自然と視線は向けられていく。
そしてそれに気付いた。
花畑を分け入って進んだ先、その地面に白いものが転がっている。
イサム一人、足を止めて地面に屈むと、それを拾い上げようとした。けれど草が絡んでいるようで、重くはないが簡単にいかない。思い切って持ち上げれば、ぶちぶちと草が抜け、千切れる音がした。
目の高さに掲げると、すぐにわかる。
それは真っ白な、人間の頭蓋骨だった。
「ひっ!?」
イサムは思わず声を上げて、拾ったそれを取り落とした。
声を発すると、前を歩く全員が足を止めて振り返った。
イサムの手元から落ちたものを気にしてか、ユーラがそれに近寄って拾い上げる。
「っ……」
ユーラは息を呑むが、イサムと違って取り落としはしない。そのまま辺りの地面を探し始め、頭蓋骨以外の骨を見つけ出した。
「どうしたの。それは骨……?」
そう声を発しながら、キキョウがオルモル達と一緒に戻ってくる。
「落ちてたんです。そうよね?」
ユーラがイサムに確認して、イサムは動揺が抜けきらず無言で頷いた。
ユーラの見つけた地面に散らばる白骨は、長く風雨に晒されていたようだ。それらは土を被って半分ほど埋まっているものや、野草の茎がしっかりと絡んでいるものが多かった。薄らとわかる全体像からは、それが大柄なものとわかる。恐らく成人男性のものだろう。
死因がわかるようなものは残されていない。死体になってから荒らされた形跡はなく、骨は綺麗な形で残っている。猪の屍もここで、このようになっていくのかもしれない。
身元のわかるものを探して、イサムが周りを見てみると傍に落ちている何かを見つけた。
「それじゃ、よくわからないわね」
拾い上げたものを横から覗いて、ユーラが言う。
それは錆の固まりだった。白骨化した死体と一緒に長年風雨に晒されていた結果だ。イサムの手にはそれなりに重量感がある。
錆びているということは金属で、その形状から連想されるのは短剣だった。柄は木で出来ていたのだろう、既に腐り落ちて存在しない。柄に当たる部分を手で持ちながら確認していくが、イサムの目にはそれが特徴のない平凡なものにしか見えなかった。
オルモルが近寄ってきて、興味深そうにイサムの手元を覗き込む。
イサムがそれを手渡すと、受け取ったオルモルはキキョウ、ドニスと共に確かめ始めた。
この花畑から一番近い村落はあの廃村だ。もしかしたら知り合いなのかもしれない。イサムは二人と一匹の様子を窺った。
「村人だとは思うけど、誰かはわからないわね」
錆びたそれから地面の白骨へと視線を移しながら、キキョウは口を開く。
「昔、村の猟師の皆が使ってたもののはずよ。だけど誰かの特徴もないし、猟師もいっぱいいたから……」
只、イサムはその言葉を聞いて、見たことのないオルモルの父、ケルグのことを連想した。
昨晩、キキョウから聞いた話によると、この花畑に村人が訪れることはなかったらしい。村の近くとはいえ、途中の森には危険があるからだ。しかしキキョウの母親はここを気に入っていたようで、よく訪れていたそうだ。その強い思い入れの理由をキキョウは知らないが、キキョウとケルグ、幼い頃のオルモルはその付き添いで頻繁に訪れる機会があったとのことだった。
その話を知れば想定される人物はイサムですら限定的で、それはオルモルとキキョウならば尚更のはずだった。
白骨化した遺体はケルグのものかもしれない。だがこれをケルグのものと認めることは、何処かで生きているという可能性を否定することでもあった。
オルモルとキキョウは白骨へ視線を落としたまま、考え込んでいるようだった。二人の様子を、傍でドニスが窺っている。
イサムとユーラは、そんな彼らのことを静かに待った。
花畑には、風になびく桔梗の音だけが響いていた。
それから花畑を一回りすると、皆は言葉少なく帰路に就いた。
帰路ではキキョウの疲労を心配して、一度は断ったキキョウをオルモルが背負って歩いている。
「イサム達はいつ出発するんだ?」
森に入ってからしばらくして、オルモルがそう尋ねてきた。
イサムとユーラは確認するようにお互いの顔を見合わせる。
廃村や道が猪の縄張りから外れ、先へ進むことは容易になった。
イサム達はこの旅の計画で、まず道を見つけるのに時間が掛かると考えていた。始まりが目標や目指す方向もわからない森の中、旅に掛かるだろう期間は半年ほどという想定だった。
けれど道が見つかった今、ユーラの記憶が確かならば、目的地のプレダへの行き帰りに掛かる期間は三ヶ月ほど。当初の予定が短縮されて大幅に時間の余裕が生まれていた。
『余裕があるならさ、しばらく準備というか、いろいろ教わった方がいい気がするんだけど。もう嫌だよ、あんな不味い肉を食い続けるのは……』
「それは同感だけど、道を進めば森もすぐに終わって、そんなに心配する必要ないと思うわ」
『……その言葉を信用していいのか、悪いけど判断できない』
イサムがそう言うと、ユーラの目が険しくなる。
その視線に胃が重くなる気がしたが、イサムは目を逸らさずにそれを受け止めた。
するとユーラは溜息を吐いて、軽く首を横に振る。
「五日後ぐらいね。それまでお世話になっていいかしら」
そして発せられた声はイサムを飛ばして、オルモルへ掛けられた。
「……ソの、イロイロオシえてホしい」
そうなると、イサムもそう続けるしかない。
イサム達の言葉に、今度はオルモルとキキョウが顔を見合わせる。
それから二人はイサム達に向き直ると、「勿論」と軽く言って笑顔を見せた。
森を抜けて廃村に出た。
廃村まで来ると、村同士を繋いだ森の中を走る一本道がイサムの目に入った。
「プレダはどっちになるのかしら?」
イサムと共に道を眺めながら、ユーラがオルモルに尋ねた。
「そのプレダっていう地名は知らないが、確かあっちが教会の巡礼者が目指す……、確かカラトベだったか」
「カラトペね」
オルモルの言葉をキキョウがすぐに訂正する。
「カラトペ……。まぁ近くまで行けば、地理はわかるわ」
その地名を知っているのか、ユーラは一瞬安心したような表情を浮かべたが、それはすぐに険しいものへと変化した。
「カラトペ?」
難しい顔をしたユーラにイサムは問い掛ける。
「司教都市よ」
それだけ言うと、ユーラは視線を道の先に向けて黙った。
それから五日後、イサムとユーラは蛇を連れ、カラトペを目指して旅立った。
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