14 何が為の戦い(3)

 渾身の投擲の後、イサムはオルモルがポールを手に構えるのを見た。しかし次の瞬間、その目に飛び込んできたのは、猪にはね飛ばされるオルモルの姿だった。


 ドニスが一目散にオルモルへ向かって駆け出した。

 オルモルの体が地面に落ち、ほぼ同時にどおんと大きな音が花畑に響く。


 何事かと思い、イサムはオルモルから視線を外して、ユーラと共に音のした方へ顔を向ける。

 そこにはオルモルと同じように、その巨体を地面に横たえた猪がいた。


 戦いが終わったのだ。

 状況をすぐに理解すると、二人もオルモルの傍へ駆け寄った。


「逃げなかったのか」

 オルモルの声がする。


 オルモルは生きていた。体の様々な箇所で体毛に血がにじみ、特に赤黒く染まった口周りと指先が痛々しい。

 それでも軽い声色がその無事を伝えてきて、イサムは胸を撫で下ろした。


「立てるか?」

 ドニスの問いに、オルモルは軽く首を振る。

「もうぼろぼろだ。肩を貸して欲しい」

 苦笑しながらそう言うと、オルモルの目はイサムとユーラへ向けられた。


 二人はオルモルの両脇に回り込み、肩を貸して体を支えた。

 そのまま立ち上がったのだが、完全に脱力した体はイサムの想定外の重さだった。


『重い……』

「悪いな」

 漏れた呟きが文句だとわかったのか、オルモルは笑いながらそう返してくる。


 そうしてオルモルを連れて、イサム達はゆっくりと歩き出す。

 その足の向かう先は、倒れている猪のところだった。


 地面に横たわった猪の右目に、ポールが柄に至るまで飲み込まれていた。そこからは血が止め処なく流れ落ち、紫の花と緑の野草を赤く染めている。


 最後となったあの突進の時、猪は一切勢いを緩めず、突き出されたポールごとオルモルへ体をぶつけにいった。またオルモルはその突進を躱そうとせずに、向かってくる猪へポールを突き出し続けた。

 その結果、オルモルははね飛ばされたが、ポールは猪の目に吸い込まれるように突き刺さったのだ。目でなければポールの方が耐えられなかったのかもしれない。


 猪の体を確かめれば右前脚が捻じれ、本来曲がらない方向へ曲がっている。


 巨躯で走り続け、負荷が掛かって折れたのだろう。もしかしたらオルモルの最初の一撃が呼び水になったのかもしれない。そして突進の途中で脚が折れた結果が、目からポールへ突き進むことに繋がった。

 それが偶然か、必然かはわからない。只、はっきりしているのは、勝ったのはオルモルだということだ。


 猪の頭の傍で勝利を確かめるように、オルモルは猪の体や突き立ったポールを眺めていた。

 その足元にはいつの間にか、イサムの首元から離れた蛇がいる。蛇は猪を眺めていたかと思うと不意に近付き、その首を伸ばして猪の頭へ触れていく。


 途端、猪の体が身じろぎ始めた。


 猪もまた生きていたのだ。まるで見計らっていたかのようなそれに、ドニスはすぐに飛び掛らんと構え、ユーラはイサムにオルモルを預けて一歩前へ進み出た。

 猪がくぐもった唸り声を発すると、残った左目がぎょろりと動いてオルモルを捉えた。


「……おマエの勝ちダ」

 ポールが脳まで達しているのか、聞こえてきた声はぎこちない。


 そして一言告げた後はぴくりとも動かず、猪は今度こそ事切れた。


 花畑が静寂に包まれる。

 恨み言ではない、敗北を認める猪の最期の声を聞いてから、イサム達の誰もが声を発することができずにいた。

 するとその静寂を破る、長く悲痛な鳴き声が突如聞こえた。その声は幾重にも重なり、花畑、森の中に響き渡る。その声は猪の死に哀悼の意を捧げているようだった。


 森から花畑へ、声を上げた豚達が姿を見せてくる。

 ドニスが警戒するような仕草を見せるも、豚達はそれを無視してまっすぐ猪へ向かってきた。

 オルモルに促され、イサム達は猪から距離を置く。


 やって来た豚達は猪を囲み、その屍を鼻で小突いた。起きろと鼻先で屍を揺する豚達の姿に、イサムは胸が痛くなる。

 しばらくそれを続けて猪がもう動かないと理解したのか、豚達は一匹、また一匹と森へ去っていく。何匹かは興奮して、イサム達を攻撃してこようとしたのだが、それは別の豚に押し留められた。

 その仲間を押し留めた豚は、イサムとオルモルを襲ってきたあの青あざを付けた豚だった。青あざを付けた豚は自身が最後の一匹になるまでこの場に残り、全ての豚を森へ行かせると、最後に猪に向かって大きく一鳴きして森へと去っていった。


「終わったわね」

「ああ」

 ユーラの声にドニスが返す。


 最後の豚の鳴き声と後ろ姿に、イサムは本当に戦いが終わったことを実感した。


 辺りにはイサム達以外、もう誰もいないようだ。

 豚達がいる間、その牽制をしていた犬達もちらほら姿を見せていた。だが豚達が去るのに合わせて、彼らもいつの間にかいなくなっていた。


 一先ず戦いが終わったことへの安堵がある。只、去っていく豚達の姿を見ていたら、イサムの胸には疑問が生まれた。

 それがイサムの口を重くする中、オルモルもまた同じことを思ってか、言葉を発さずにいる。


 疑問に思ったのは、なぜ豚達は猪を殺したオルモルを襲わなかったのかということだ。結局、今日の戦いで豚達が自ら戦うことは一切なかった。猪との戦いの後、満身創痍のオルモルを前に数は揃い、勝ち目は十分あったはずなのに。


 イサムは血で濡れた草をかき分けて、再び猪に近寄った。

 オルモルもイサムが動くと当然のようにそれに合わせ、なぜかイサムの足元で蛇も同じように続いた。


 猪の戦いに手出しをせず、終わってからも仇討ちを挑むでもなく引き下がる。豚達のその行動の意味は何なのか。

 森の強者であるという強い自負が、猪には見て取れた。この戦いは森の強者である猪に、オルモルが挑むものだったのかもしれない。そして豚達はそれを邪魔しないようにイサム達を阻み、オルモルが勝ったことで決着した。

 しかしオルモルは強者になりたかったわけではない。村の仇を討ちたかったのだ。戦いに臨む猪は、オルモルのそんな想いを理解していたのだろうか。


 イサムが手を伸ばして猪の屍に触れてみると、その体はまだ温かかった。


 そもそもなぜ猪は村を襲ったのか。森の動物を狩る外敵の、森を荒らす人間を倒したいがためだったのだろうか。もしかしたらそれも、単に強者へ挑んだだけだったのかもしれない。

 同じ言葉を操り、会話ができる。だから意思疎通ができていると錯覚した。

 戦いに勝敗以上の意味を持たせたがるのは、きっと人間だけなのだろう。

 もしかしたら避けることのできたこの戦いに、想いを乗せたオルモルは今一体どんな気持ちなのか。


 イサムがそれとなくオルモルへ視線を向けると、オルモルの目はじっと猪に向けられたままだった。

 それは仇討ちをなしたことへの感慨か、それともイサムと同様のことを考えてか。その褐色の瞳の奥にどんな気持ちを湛えているか、窺うことはできなかった。


 その後は三十分ほど、皆は花畑で休憩を兼ねた思い思いの時間を過ごした。

 時刻は昼を過ぎ、日は傾き始めている。


 イサムは座り込むとぼんやり空を眺めたり、他の者へ視線を向けたりして過ごしていた。その首元には戻ってきた蛇もいる。

 すると不意に、イサムの腹が空腹を示して音を発した。

 軽く朝食を済ませてからそれ以降、今日は何も口にしていなかったのだ。意識させられると、イサムは途端に空腹と喉の渇きが気になってきた。


「帰るか」

 オルモルはそう言って、笑った。


 休憩の間も、オルモルの目は猪へ向けられていた。

 何を思っていたのか、その表情は心の整理を終えたようだった。


 オルモルのその言葉を合図に、イサムとユーラは立ち上がる。

 二人がオルモルの脇に回ろうとすると、オルモルはそれを手で制して立ち上がった。一瞬ふらつくも、その後の足取りは確かなものだった。


「猪の、あれはどうするの?」

 ユーラの問いに、オルモルはしばし考える。

「今は捌く道具がない。明日毛皮だけ貰いに来よう。」

 そしてそれだけ言うと、歩き出した。


 肉をどうするかは語らない。イサムでも最期の声を聞いて、思うところがあった。命のやり取りをした相手に、何かしら感じ入るものがあるのかもしれない。

 何だか、戦いに意味を持たせることもそれはそれで悪くないと、イサムはそのように思えた。



 一度村へ戻ると短剣を回収して、イサム達は帰路を進んだ。


 小屋が見えてくると、その傍に人の姿が見えた。

 手頃な岩に腰掛けている。キキョウだ。脇には二匹の犬が控えている。


 二匹の犬はイサム達の中のドニスに気付いたのか、鳴き声を上げて、それから役目は終わったとばかりに森へと去っていく。

 犬の鳴き声に、キキョウもイサム達に気付いたようだった。


「おかえりなさい」

 キキョウはそう言ってオルモルとドニス、イサム達を迎えた。


 岩に腰掛けたキキョウの様子は普段と変わらず、調子が良さそうにはとても見えない。


「母さん! どうして……」

「ごめんなさいね。でも」

 いつもならば駆け寄るオルモルも今日は動けず、心配そうに声を掛けるに留まった。

 そこへキキョウの謝罪の言葉が重なっていく。

「あなたがいつも心配してるみたいに、私だってあなたのことを心配してるのよ」


 その口調は穏やかだったが、イサムの耳にも残る言葉は強い意志を感じさせてきた。


「さあ、中に入りましょう」

 そしてイサム達を促すと、キキョウは静かに立ち上がった。

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