2 修道士(2)

 夜。森の静けさの中にユーラの寝息が響く。生物の気配は薄く、道の周辺に人がいるのを知って、それを避けているかのようだった。


 そんな夜に番をするイサムの目は、いまだ眠る女へと向けられていた。


 女の寝ている場所から道を挟んだ反対側に、イサムとユーラは陣取っている。その距離は大よそ五メートルほど。女を覆う黒い布は夜の闇に溶け込み、星明りの下ではぼんやりと輪郭しか掴むことができない。


 女は一度も起きてこない。体調が悪いのかと疑うも、聞こえてくる安らかな寝息にそれはないと思い直し、見守るに留まっている。

 この状況にユーラは不満があるようだったが、イサムは後悔していなかった。仮に女を放って進んでいても、大した距離を進めなかっただろう。それならば夜の番のついでに見ているぐらい、どうということはない。


 イサムが鼻から深く息を吸えば、夜の冷えた空気が体を巡る。


 異界に来てから、もう数え切れないほどに夜を迎えた。それでも夜の番の、この闇には慣れそうもなかった。ざわつく心を抑えようと、イサムはユーラの寝息にじっと耳をそばだてる。その音は一人で夜にあるイサムの孤独と不安を和らげてくれていた。


 そうしてユーラの寝息に耳を傾けていると、不意に別の音が混ざり始めていることに気付いた。

 それは道の先から聞こえてくる。のしりのしりと地面を踏みしめるその音は、重量感のある大柄な獣を想像させてきた。


 イサムの首元で眠っていた蛇が目を覚まして、首を起こすとイサムと共に音のする方へ頭を向けた。

 また、それに気が付いたのはイサムと蛇だけではなかった。

 今まで起きる気配のなかった女も目覚めたのか、急に素早く上半身を起こしたのだ。


 音の主が姿を見せたのは、それからすぐのことだった。


 星明かりがその姿を浮かび上がらせる。まるで鹿のようだとイサムは思った。頭に雄々しい角を備えた四つ足の、大きな体を持つ獣だ。


 道の中央を悠々と歩く獣は、初めからイサム達の存在に気付いていたのだろう。その歩みがイサム達と布を被った女を脇にして止まった。そして頭の角を一度振り回すようにしながら、首を地面に座り込んだ女へ向けていく。


 イサムの目には獣の後ろ姿が見えるばかりだった。只、次第に大きくなる獣の荒い息遣いと女の衣擦れの音は、その雰囲気が落ち着いたものでないことを窺わせてくる。


 獣は女と相対して緊張し始めたのか、足をじりじりと動かし始めた。


 暴れ出すかもしれない。このままだと獣と女のどちらかが耐えられなくなる予感がして、どうにか獣の関心を女から引き剥がしたいとイサムは思った。そうしながらもイサム自身もまた獣と女から広がる緊迫感に心臓の鼓動が早くなり、耐えられそうもなかった。その手はいつでも起こせるように、隣で眠るユーラの寝袋の端を掴んでいる。


 それから獣の注意を引こうと、イサムは様々なことを試みた。靴を地面に擦りつけてじゃりじゃりと音を立ててみたり、石を手に取ると獣に向かって転がして蹄にこつりとぶつけたりもした。けれど緊張の高まった空間にいる獣、そして女もイサムの存在に気が付いていないようだ。


 そうこうしている内に女が逃げようとしたのか、がさりと一際大きな音が聞こえた。それに反応してだろう、獣の後ろ姿が鼻息荒くしながら前傾視線を取るのが見えた。


 瞬間、イサムは口笛を吹いていた。


 短く澄んだ音は夜の森に溶け込み、掠れるようにすぐ消える。元々得意でなく久々なこともあって、それは音色を作るまでには至らなかった。

 しかし聞き慣れないだろう澄んだ音に、獣は反応してイサムの方へ振り返った。また獣越しに見えた女も動きを止めて、こちらに気付いたようだった。


 上手くいった。そう思ったのも束の間、獣と相対すれば想像以上の圧力に緊張した。蛇はその圧力から逃れるためか、今まで持ち上げていた首をだらりと下げて、寝た振りを始める。蛇のそれに薄情な奴だと思うも、イサムに咎める余裕はなかった。


 暗闇の中、獣の両目が輝き、イサムの両目を捉えて離さない。その目に宿す光は理知的に見えて、風格が感じられた。


「ここらの森は豊かで動植物が多く、魔物ですら餌に困らない。だからわざわざ人には近付いてこないはずだ。

 それなのに近寄ってくる獣がいたら、それは敵意を持つか、それともよっぽど好奇心が強いかだ」

 その言葉は旅立つ前、オルモルから聞いたものだ。


 襲って来ないというならば、獣の行動はきっと好奇心によるものだ。無駄に煽って敵意を持たれ、戦うことになるのは避けたかった。面倒に巻き込まれるのは、猪との争いで十分だ。


 イサムはオルモルの言葉を信じ、捉えられた両目に力を込めて、獣が飽きるのをじっと待ち続けた。


 そしてその時間は五分を過ぎると終わりを迎えた。


 好奇心が満たされたのか、それともイサムに飽きたのか。獣は予備動作なくイサムから視線を外して、その首を道の先へ向けたかと思うと歩き始める。

 唐突な終わりの訪れに、イサムは只々安堵した。獣が道の先に消える頃には、体を強張らせていた緊張も消えていた。


「ありがとうございます」

 獣の姿が見えなくなると、道の向こう側から声を掛けられた。


 声の主である女は先ほどまでやはり怯えていたのだろう、聞こえてくる声には上擦った響きがあった。


 立ち上がり、そのまま近付いてくる女。

 恐怖から解放されてすぐに礼をする態度に、イサムは律儀なものだと思った。


「いえ」

 異界語の練習を始めてまだ数日、イサムは短く素っ気ない言葉でしか返せない。

「クエンタから来たのですが、夜に獣に遭うなんで初めてで……」

「はぁ。それは運が良い」

 続けられた言葉にも何と返せばいいのかわからず、適当な言葉を口にする。


 だがイサムの言葉など端から関係ないのかもしれない。女は言葉と共に抱えていた恐怖を吐き出しているようで、口を閉じる気配が一向になかった。


「運ではありません。神のご加護です」


 そして何気ない言葉に返ってきたそれを聞いて、イサムは面倒になりそうな、嫌な予感がした。

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