15 異界へ

 小屋の窓から見える外の景色が白んでいく。


 それは四日前と同じ光景だった。

 思い返される光景と同様に、神社に立ち込める霧はまるで人を惑わし、拒絶しているかのようだった。

 雨具を着込んだユーラが荷物を背負い、先に外へ出ていってしまう。

 イサムはすぐに続こうとして躊躇う足を、今日は様子見だけだと自身に言い聞かせて踏み出した。


 二人はまず神社の敷地をぐるりと一周した。

 石段はなくなっている。辺りを囲む茂みの向こうは、もうイサムの知る場所ではないのだ。

 山小屋まで戻って来ると、その傍の茂みを前にして二人は立ち止まった。


 この先に何があるのだろうか。

 イサムは興味と恐れが入り混じり、その一歩をなかなか踏み出すことができないでいた。


『行かないの?』


 一向に動き出さないイサムに、ユーラが声を掛けてくる。だが、イサムはその声に答えなかった。


 今いるここが分岐点だと、イサムは感じていた。様々な理由を重ねてここまで来たが、ここで一歩踏み出せばもう引き返すことはできない予感がする。

 今回は様子見だと予定を決めてきた。それでいて迷うのは、心が、体が、行くことを拒否していることに他ならないのではないか。異界に対して興味があることは否定できない。しかし非日常は物語として読むから面白いのであって、現実にして楽しむものではないのだろう。子どもの頃の憧れは憧れのままの方がいい。イサムはもうそれを知る年齢でもあった。

 このままだと就職できない。自分を変えるには新しい環境に飛び込む必要があるのではないかという思いも、イサムをここまで動かした原動力の一つだ。イサムは何かを変えられる予感に、ユーラの言葉に導かれて異界へ渡る準備をした。だがいざそれを前にすると、そんな不確かな予感だけで異界へ向かうのは、思い切りが良すぎる気がした。就職活動も諦めるには早い時期で、まだまだ挽回できるはずだ。

 今は危険を避けて、より現実的な道を進んでもいいのではないか。異界へ渡れる条件を確認した今、イサムが焦る必要は何処にもなかった。


 ユーラは黙ったまま、イサムの様子を窺っている。

 その視線に気付きながらも言葉を発さず、イサムは悩みに悩んで、そしてようやく決心した。


 現代医学を信じつつ、この顔でも就職できる職場を探そう。まだ打てる手があるはずなのに、異界に渡るのは早計だった。今日までの時間を費やした準備は無駄になるかもしれない。しかしこうして答えが導き出せた。ならばそれは必要な時間だったのだと、イサムはそう思うことができた。


「やっぱり」

『ねえ』


 引き返そう、とイサムが言葉を続けようとして、突然のユーラの声がそれを遮った。


 今まで黙っていたのは何だったのか。ユーラを見れば、その目はイサムを見据えて動かない。

 その真剣な眼差しに、イサムは何だか嫌な予感がした。


『私が助けて欲しいって言ったら、助けてくれる?』

 そう言うなり、ユーラは顔を伏せた。


 もうその先の言葉は聞きたくない。続けられた言葉は予感通りの、聞きたい類いのものではなかった。

 けれど止めようにも、ユーラの目はもうイサムを見ていない。


『……あの街に行って気付いたの。この世界には魔力がない。多分この山を通じて少し魔力が流れてきてて、だから村では気付けなかった。

 人や物に魔力がない。食事をしても魔力が戻らないの。村での食事も全然足らなくて、今はあなたから供給されてる魔力でどうにかなってる。でもそれが尽きたら……』

 そこまで口にすると、ユーラは顔を上げて再びイサムを見てくる。

『このままだと私、いずれ死ぬわ』


 そんな言葉を聞かされて、先ほど言いかけた言葉の続きを誰が口に出せるというのか。イサムは何も言えず、向けられた視線を只々受け止めるしかなかった。


『まだ死にたくない、……死ねない』

 ユーラはそう繰り返して、今度は視線を山小屋傍の茂みへと向けた。


 その視線の先にあるのは茂みではなく、きっとその向こうにある異界だろう。睨むような、険しい視線が異界に何を見ているのか、イサムにはわからない。

 只、その視線はユーラの言葉を、単に生きたいがための命を乞う言葉ではない、この先を見据えてのものだと思わせてくる。

 この世界に来ることなど、ユーラ自身が以前語ったように想定外だったに違いない。それでいて尚、現状を受け止め、さらに先を見ているユーラの強い心根が、社会のレールから外れることを恐れるイサムには眩しかった。


『助けて欲しい』

 ユーラの声が耳に響く。


 人から必要とされることは単純に嬉しい。しかしイサムはそれでもまだ動けなかった。ユーラの心根には憧れるが、それとこれとは話が別だ。情に動かされて即決すれば後悔しかねない。

 イサムの脳裏にはヨシヒサの言葉が思い浮かぶ。

 自分のやりたいこと、進みたい道とは一体何なのか。イサムはそれを考えながら、如何に自分が目に見えないものに縛られているかを実感させられた。


 ユーラは自身の言葉を言い終えた後も、イサムの言葉と結論を待っている。

 しかしイサムの迷いは長い。

 手持ち無沙汰なのか、ユーラの空いている手がしきりに首をさすり始めるのを横目に見た。


『……あー、首が痛い』

 そして唐突に発せられた声は大きく、平坦だった。


 思考を中断させられたイサムは抗議の意味も込めて、声の主であるユーラを見た。

 するとユーラはその視線を避けるように、露骨に顔を逸らした。


『どっかで首を痛めたかしら……。階段で転げ落ちた覚えはないんだけど』

 顔を逸らし、首をさすりながら、ユーラは言葉を続けてくる。


 ユーラの言葉や行動の意味がわからず、イサムは一瞬呆けた。けれどすぐそれに思い当たって、動揺した。


『魔力があればすぐ治るんだけど……。魔力さえあれば』

 ユーラの顔がイサムに向いて、二人の目が合った。

「……あの」

『ごめんなさい。独り言なんだけど、聞こえたかしら』

 そう言うと、ユーラははにかんで笑った。


 そんなユーラを前にして、イサムはここ数日を振り返った。

 そもそも自分がこんなに負い目に感じる必要はないのだ。結果だけ見ればユーラを間違いなく助けた。それを考えたら、その過程で起きたこと、神社の石段から落としてしまったことなどは些細なことでしかないはずだ。しかしそれでも相手から主張されれば、罪悪感を覚えずにはいられない。

 上手いことやられたと、イサムは苦々しく思った。罪悪感を積み重ねた今、それを無視した後味の悪さは経験済みで、今回も相当なものだろう。

 そしてそもそも迷いはしても、自分を頼って伸ばされた手を振り解くことなんて、イサムにはできなかった。


「お前、人の性格をとやかく言えないんじゃないの」

 イサムは投げやりにそう言って、茂みへ足を踏み出した。

『そんなこと初めて言われたわ』

 ユーラは軽く笑いながらそう言うも、臭い芝居をした照れからか顔を少し赤らめていた。


 イサムが茂みに踏み込むと、ユーラが小走りに追い越して先導する。二人が茂みを抜けて森の木々の間を進み始めれば、徐々に霧は晴れていった。


 イサムは手に持ったポールを使いながら、慎重に山の中を進んでいく。

 その歩みは順調そのものだったが、様子見という前提がなくなったかのように、先導するユーラの足に止まる気配がない。

 霧が晴れ、見渡す限り森の中となった場所を歩きつつ、イサムは一体何処まで進むのかと不安になっていた。


『見て!』

 森が切れて、ユーラが声を上げた。


 そこは切り立った崖の上だった。

 視界が開け、辺りの様子が確認できる。今いる場所は山の山頂付近だった。


 絶景だった。

 青い空に山の緑が映える。山地に森が広がっていて、遠くには広い平野が見えた。


『ここが私の住む世界よ』

 ユーラが景色を眺めながら、噛み締めるようにそう口にする。


 イサムは見渡す景色に息を呑む。鮮やかな色の鳥が森から飛び立つ。その姿を目に焼き付けるようにじっと眺めて、心臓が高鳴る。ここは日本ではないのだ。

 異界も夏なのか、日差しは強い。吹き付けてくる風が火照った体に心地良かった。


「……それで、俺達は何処を目指すんだ?」


 目に入るのは空と森だけ。道や目印になりそうなもの見当たらないない。景色に見入る中でそれに気が付くと、イサムはこの後どうするのかが気掛かりになった。


『わからないわ』

 ユーラの返答は素っ気なく、これ以上ないほどにわかりやすかった。

『助けて欲しいって言ったじゃない』

 そして続けられた言葉を聞いて、イサムは颯爽と身を翻した。

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