14 出発

「次は他の料理も頼んでね?」

「またヨロシクおネガイします」


 苦笑しているツカサに、ユーラが頭を軽く下げている。

 またの機会などあるのだろうか。イサムは二人を見ながら、そんなことをふと思った。


 買物を終えた三人はすぐに別れず、ユーラの希望で昨晩に続いてツカサの祖父母の中華料理屋で食事を取った。

 昼食時から少しずれた時間帯。人の少ない店内で三人はのんびりと食事を取ることができたのだが、ユーラが注文したのは昨晩と全く同じもので、三日連続でエビチリを食べるユーラにはイサムだけでなくツカサも呆れていた。

 そして食事を終えると腹ごなしに駅前まで三人で歩き、今はバス停で簡単な別れの挨拶をしているところだった。


「イサム。今日は久々話せてよかった」

「ああ、うん」

「……カヨコおばさんにもよろしくね」


 ツカサが話し終えるのと、バスが見えてくるのは同時だった。


「それじゃあ、また」

「またね」


 最後に軽く声を掛け合って、イサムとユーラは他の乗客と一緒にバスへ乗り込んだ。


 バスの中はさほど混んではおらず、二人はバス後部の二人掛けの席に別々に腰掛けると、自身の隣の席にホームセンターで買い込んだ登山道具やらの荷物を置いた。


 イサムが窓側の席から外を見れば、バス停から見送るツカサの姿が見える。


 ホームセンターで会計を終えた後、イサムは荷物をまとめながらツカサと就職活動の話をした。

 ツカサは話題に対して何ら暗いところを見せなかった。最初、既に結果が出ているのかとイサムは思うも、話が進めば何てことはない、ツカサもいまだ就職も何も決まっていなかったのだ。それでいてイサムと違い、まだ若いからどうにでもなると現状を楽観していた。

 それはこれから結果が出るという絶対の自信によるものなのかもしれないし、単純に本当に若さで何とかなると思っているのかもしれない。一様に言えるのは、イサムと違ってツカサは社会のレールから外れることを恐れていないということだった。


 ツカサのそれに気付いてから、イサムは就職活動を始めてから強く意識し始めた社会のレールというものが、そもそも一体何なのかと考えさせられていた。

 進学に就職、そして結婚、子育て。自分の親がしてきたように、自分もそれらをやることが決まっていて、川が流れるように自然とそうしていくのだと思っていた。

 そのためにすべきことは既に最適化されていて、さながらレールのように決まった道筋を多くの者が進んでいる。そして多くの者がそのレールの上を進むことが、そこから外れると目的地まで辿り着けないことの証左になっている。


 バスが出発し、ツカサはイサムとユーラに向かって軽く手を振ってきた。


 ツカサはイサムにとって唯一の幼い頃から付き合いのある異性で、ツカサにとってのイサムもまた同様のはずだった。長い付き合いの中、イサムがツカサに対して特別な感情を抱く理由は、イサムにはそれだけで十分だった。

 それは中学の卒業近く。もうすぐ同じ中学から別々の高校へ進学して、出会う機会も減るだろうという時期だった。

 イサムは他に親しい異性もおらず、それこそ自然の流れでツカサと付き合うことになるのではないかと思っていた。家族のみならず、他の同級生もイサムとツカサの家族ぐるみの付き合いを知っており、当時二人の関係を見守る空気があったのを覚えている。

 中学生最後の冬のある日、偶然帰宅が重なったツカサに対してイサムは告白を試みようとした。しかしツカサはそんなイサムの雰囲気を感じ取ったのか、機先を制して口を開くと、そのつもりはないとはっきりイサムに告げてきた。

 そうして高校に進学、予想通り疎遠となって月日が経ち、それは二年生に進級してしばらく経った頃だった。風の噂で、ツカサが高校の後輩と付き合いだしたという話を耳にした。


 自分が一体何処で間違えたのか、イサムは今になってもよくわからない。

 そして今一度、社会のレールという見えないものを考えた時、それを自分の将来への道筋とするならば、あの時点でイサムは自分自身の敷いたレールの先の未来から、既に逸脱しているのかもしれなかった。


 バスが交差点を曲がる際、小さくなったバス停が再び窓に映った。

 しかしいくらイサムが目を凝らしても、もうそこにツカサの姿を見つけることはできなかった。



 バスの窓を流れる景色は駅前を離れると、どんどんと緑が濃くなっていく。

 山村が近付いてくるにつれて、乗客の数は減っていた。


 運転手を除けばユーラと二人だけになった車内で、イサムはこれから先のことを考えて、高まる緊張感と不安に胃が痛くなるのを感じていた。


 イサムが胸苦しさに普段は起こさない車酔いを引き起こし、その不快感にこの先の不安を忘れかけた頃、バスは山村へ到着した。


「ただいま」

「タダイマモドリました」


 バスから降車後、少し歩いて体調を何とか戻したイサムは、ゲンゾウ宅に着くと中からの返事を待たず、二人してずかずかと上がり込んだ。そのまま居間に荷物を降ろして一息ついていると、玄関から誰かの帰宅する音が聞こえた。


「あら、おかえりなさい」

 家に入るとすぐに二人の帰宅に気付いて、カヨコが声を掛けてきた。

「ただいま。どっか行ってたの?」

「ハルさんにお母さんの話聞きに行ってたの」


 ヨシヒサから電話があったことをイサムが伝えると、カヨコは笑顔で「そう」と一言だけ言い、手荷物を置いて庭へ洗濯物を取り込みに行く。

 ユーラは『世話になってばかりだから』と居間に落ち着けていた腰を上げ、それを手伝いに庭へ出た。

 イサムは荷物の整理をしながら、居間から見える庭の二人をぼんやりと眺めていた。


 ゲンゾウが帰宅すると、すぐに夕食が用意された。

 そしてそれを和やかに終えた今、台所からはカヨコが洗い物をする音が聞こえてくる。

 和室にはイサムとゲンゾウが座卓に差し向いで座っていた。そこにユーラの姿はない。


「明日、ユーラを連れて山の向こうへ行こうと思う」


 イサムは端的に話を切り出した。

 山の向こうが何処を指すのか、ゲンゾウの様子はそれを知っていることを物語っていた。


「帰ってこれるのか?」

「様子見するにも、明日がちょうど都合がいいみたいだから……。それに向こうなら顔のこれを消せるって、ユーラが。どっちみちまず行けるかどうか確かめないと」

 ゲンゾウの心配そうな声に、イサムはユーラと決めた話を説明する。


 付けっ放しのテレビから流れてくる天気予報の音声が、明日の天気は午後から雨模様だと告げていた。


「顔のそれで就職ができないなら、お父さんと一緒に生活すればいいじゃない」

「儂は構わんぞ」

 洗い物を終え、部屋に戻ってきたカヨコがそう言って、ゲンゾウはその言葉に頷いた。

「正直頼る感じになっちゃうけど、それも考えてる。それに就職できないって決まったわけじゃないし。前に行って戻ってこれたし、今回様子見て無理そうなら諦める」

「お前がそこまで考えてるなら儂は止めんがな」


 イサムの行動が追い立てられてのものではないとわかったのか、ゲンゾウは多くを言わなかった。

 だが母であるカヨコはイサムの言葉にも、依然心配そうな態度を崩さなかった。


 話し合いを終えてイサムが外に出ると、玄関先にはユーラが家に背を向け、立っていた。

 イサムは歩いてユーラに近付き、静かにその横に並んだ。

 二人の視線の先には件の山がある。


『どうしたの?』

「……不安なんだ」


 顔を山へ向けていたユーラが、その視線をイサムへと向けた。


 知らないことを始めるのはいつだって怖い。

 イサムは「まるで面接の前みたいだ」と呟くも、よりによって頭に浮かぶ例えがそれなのかと自身に呆れた。


『私もよ』

 ユーラの言葉はイサムにとって意外だった。

『私は追われてここに来たのよ』

 イサムの困惑に気付いたのか、ユーラはそう言葉を続けると苦笑しながら視線を山へ戻す。


 ユーラの事情をすっかり忘れていた。イサムは自分のことばかりを考えていて、ここで初めてユーラが今後どうしたいのか、それすら聞いていなかったことに気付かされた。


『ここは暑いわ。家の中に戻りましょう』

 それだけ言うと、ユーラは一人踵を返して家の中に戻っていく。


 迷いのない足取りで歩いていくユーラの背中に、イサムは今更何て尋ねればいいのかわからなかった。



 次の日の朝はどんよりとした空模様だった。

 朝の天気予報は昨晩と変わらず、正午近くには雨が降りそうだと告げていた。


 カヨコとゲンゾウに見送られながら、イサムとユーラは家を出発した。神社の山小屋を目指して、ぱんぱんに膨らんだリュックサックを背負いながら石段を上る。

 それぞれの右手にはユーラの希望で購入したトレッキングポールがあった。渋々買ったものではあったが、背にある荷物の重量感と雨の降る前に辿り着こうと急ぐ中では、早速その存在感を示していた。


 曇り空で日差しは柔らかだが、季節は夏。気温に慎みはなく、二人の額には止め処なく汗がにじむ。

 無駄に体力を使うまいと口を開かない二人の耳には、蝉の鳴き声ばかりが響いた。


 そうして神社の山小屋に到着する頃には、既に二人の体力は限界に近かった。

 少しでもこれからのために体力を回復させようと、二人は小屋の座敷に荷物を降ろして休憩する。


 空は変わらず雲が厚く、青空を隠しているが、雨はまだ降ってきていない。


 イサムは小屋の窓から空を見ながら、すぐにでも雨が降って欲しいという気持ちと、このままずっと降らずにいて欲しいという気持ちが、心の中でせめぎ合うのを感じていた。

 これから先は何が起こるかわからない。

 人知を超えた何かに対する恐れが、日常へ回帰させようとしてくる。ユーラの存在がなければ、イサムはもう自分は帰宅していたかもしれないと思った。


 疲れとこれからの緊張感にイサムが黙っていると、ユーラも積極的に口を開くことはなかった。

 静寂の満ちる小屋の中で、雨が降るその時を二人はじっと待ち続けていた。

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