13 準備

 寝起きの気分は最悪に近いものだった。

 久々見た夢は、森で追手から逃げるあの出来事。まるで誰かに忘れるなと念押しされているようで、ユーラはげんなりとした。


「忘れるわけないじゃない……」


 もしかしたら帰れると知って心の何処かが安心して、またそれを同時に引き締めようともしているのかもしれない。

 昨晩の相談で唯一得られたのは、あの山から自分の住んでいた世界に帰れるかもしれないという情報だけだった。それでも一時はこの世界で生きていくことを覚悟し、不安を感じていたユーラにとって、それは救いだった。


 掛けていた布団を除けて、ユーラは体を起こして部屋を見回した。


 食堂で眠るイサムはここにいない。テレビが目に入って興味を惹かれる。だがベランダへ通じるガラス戸からカーテン越しに日が差し込むのを見て、外の景色が気になった。


 そのまま立ち上がって、ベランダへ出る。

 そこから見える光景は圧巻だった。


 石造りとは違う、縦や横に長い建造物が至るところにある。魔力の供給と共に叩き込まれたこの世界の一般知識は、ビルやマンションと呼ばれるそれらの建物が珍しいものではないと告げてくる。地面に近いところでは戸建ての屋根がひしめき、遠くにやっと緑に包まれた山が見えた。

 そして何より地面が、土が全然見えないのだ。近場で土や緑があるのは公園や、建物や道に付随した植え込みぐらい。すっかり人によって自然が支配されていた。


 景色にユーラが見入っていると、ふいに後ろから物音がした。

 そしてすぐに、イサムがベランダに顔を見せてくる。


「すごいわね」

 自分の抱いた思いを共有したくて、ユーラはイサムに声を掛けた。


 声を掛けてからも景色を眺め続けていれば、イサムもユーラの横に並んだ。

 ちらりとその横顔を窺うと、景色を眺めるイサムの目は懐かしいものを見ているかのようだった。


「これを人が拓いたんでしょ?」

 何か言葉を期待したわけではなかったが、イサムはそう聞いても黙ったままだった。


 正直、ユーラのイサムに対する印象はよくない。最初は言葉がわからない振りをして誤魔化され、その後もなかなか事態と向き合おうとしなかった。昨日になって、ようやくイサムは話し合いに応じたのだ。

 悪い人間だとは思わないが、とにかく頼りない。けれどその男から魔力を供給されて、ユーラは命を保っていた。

 この街には人や物が信じられないほどに溢れている。しかしそれ以上にユーラが驚かされたのは、そのどれにも魔力を感じることができないことだった。山村ではわずかにでも感じられた魔力が、この街では微塵も感じられない。どうやらこの世界には魔術の存在がないだけでなく、魔力もほとんどないらしい。

 そんな常識の異なる全くの別世界で、頼りない男に縋って生きている。イサムに当然感謝はしている。けれど屈辱でもあった。そして今日はあの夢を久々見たせいか、心の内にこんな状況へ追い込んだ者達に対しての怒りが、沸々と湧き上がるのを感じていた。


 頭をよぎる思考に、ユーラは次第に景色を眺めている気分ではなくなってくる。

 その時、ユーラの気分を量ったかのように、携帯電話の着信音がイサムのポケットから鳴り響いた。





 イサムとユーラの前に、一人の女が立っている。


 二人の目線を少しばかり下げた位置にある女の顔は興味深そうに、肩まである黒髪を揺らしながら、二人の間を行ったり来たりしていた。


「本当に外国人の彼女作ったんだ」

「だから彼女じゃないって……」


 否定するイサムを見て笑うその女は、昨晩行った中華料理屋の店主の孫でイサムの幼馴染、野地ツカサだ。


 イサムがユーラの反応を窺うように横を見れば、ユーラは特にこれといった感情を浮かべず、ツカサへ視線を向けていた。


「初めまして。今日はよろしくね」

「ヨロシクおネガイします」

 ツカサが挨拶をすると、ユーラは軽く頭を下げて挨拶を返した。


 今朝の携帯電話への連絡はツカサによるものだった。

 最初、イサムは着信を企業からの面接結果の連絡かと緊張するも、画面の表示に違うとわかってがっかりしながら電話に出た。すると開口一番のツカサの言葉は「彼女作ったって本当?」と、ユーラの存在を確かめるものだった。どうやら祖母である店主の奥さんに何かを吹き込まれたようで、ツカサはからかいの言葉を電話の向こうからイサムへいくつも飛ばしてきて、イサムはそれに辟易させられる羽目となった。

 ツカサの用件はそれだけだったようで、一通りイサムをからかい終えると電話を切ろうとした。だがそれにイサムは待ったを掛けると、昼頃に会う約束を取り付けたのだ。


 そうして時刻は正午の少し前。

 イサムとユーラは待ち合わせ場所のホームセンターの前で、ツカサと対面していた。


 昨晩の相談の結果、今日の予定は神社から山の向こうへ、異界のプレダを目指す準備をすることになっていた。


『その顔のままで生活するのは、いつだって始められるんだから。プレダに行くのが嫌になったら、すぐ止めればいいのよ』


 決め手になったのはユーラのそんな言葉だ。確かにその通りだと、イサムも昨晩は納得していた。けれど今となっては上手いこと乗せられた気がしないでもない。

 しかしその時には何ら疑問に思うことなく、そのまま実際行くとなったらどんな道を行くのか、どれくらいの日数が掛かるのかを確認した。そして必要な道具を洗い出す頃には夜も更けて、明日の朝にホームセンターへ必要な物を揃えにいく予定を立てると、二人とも床に就いた。

 そんな二人の予定にツカサを急遽加わえることになったのは、ツカサの趣味が関係していた。

 イサムの遠い昔の記憶の中に、ツカサの趣味は登山など活動的なものが多く、山歩きも慣れたものだと聞いた覚えがあった。今朝の電話で確認すればそれは現在も継続中とのことで、ならば道具の選定など準備の手伝いを頼んだのだ。


「必要な物を考えると、やっぱり結構掛かるなぁ」

 イサムは一人呟くと、手に取ったリュックサックを陳列棚に戻した。


 三人は挨拶もそこそこに早速ホームセンターの中に入ると、アウトドア用品の並ぶコーナーへ向かった。

 ユーラとツカサは息が合うようで、話しながら二人でどんどんと店内を先に進んでいく。イサムは二人を追いかけるように後ろから大きなカートを押していた。


『面白い物多いわね』


 イサムが陳列棚から視線を外して声のした方を向けば、そこにはユーラが一人、トレッキングポールを片手に立っていた。


「……そんなのいらないだろ。木の棒と何が違うんだよ」

『……』

「全然違うわよ。丈夫な、体重を預けられる枝なんてまず落ちてないんだから」


 イサムの言葉にユーラが不満そうな顔をしていると、その後ろからツカサが姿を見せた。

 ツカサは女性用の登山靴や雨具を抱えており、イサムの傍まで寄るとカートの中にそれらを次々と放り込む。


「お、おい」

 イサムの口からは思わず非難めいた声が漏れた。


 ツカサの持ってきたものはユーラのためのものだろう。それを買うためにここへ来たのだから、ツカサの行動に非難される謂れはない。

 しかしそれらを購入する代金を出すのは当然イサムだ。ツカサがカートに入れた商品は相当量で、イサムに確認することなく購入が決定されていくそれらに、文句の一つでも言いたくなるのもまた当然だった。


「イサムは自分の分買わないの? 最近のは全然違うわよ」

 イサムの声が聞こえていないのか、ツカサはカートから顔を上げるとそう口にする。


 店頭に並ぶ新商品は、昔に比べて見た目からして機能性が高い。実物を見て、手に取れば、自分だって欲しくなる。けれどいくらイサムの購買意欲が高まっても、財布がなかなかそれを許そうとしない。アルバイトで稼ぎ、貯め込んだ金はある。だがそれは貯めるのに苦労した分、使うことに慎重にならざるを得なかった。


「お金は使わないと意味ないわよ」

 ツカサはそれだけ言うと、悩むイサムを置いて次の商品を取りに再び陳列棚の向こうへ消えていく。


 イサムはちらりと陳列棚を見て、次にその視線をカートへ戻した。そして溜息をつくと、カートを押してツカサの後を追おうとした。


 だが動き出そうとするカートの上に、ずいと差し出されるものがある。

 イサムが黙ってそれを目で辿れば、そこには先ほどから変わらずに、トレッキングポールを手に持つユーラが立っていた。


 ツカサに触発されたのか、ユーラはトレッキングポールを諦めようとはせず、カートの中へポールを入れる機会を窺っているようだった。


 イサムはユーラを咎めるように見詰めるも、ユーラは一向に引く様子を見せない。

 しばし無言で牽制し合う二人だったが。結局は抵抗することに疲れたイサムがユーラの手からポールを奪うと、それをカートの中へ放って決着がついた。

 ユーラはイサムの行動に満面の笑みを浮かべると、そのまま足取り軽く、ツカサの後を追って陳列棚の向こうへ消えていった。


 ユーラの背中を目で追いつつ、その笑みを思い返して、イサムは現金な奴だと呆れた。だがそうしながらも、折れた自身の行動についてはあまり後悔していなかった。

 自分が美人に弱いのか、はたまたユーラに負い目があるからか。

 今後は美人局に気を付けようと思いつつ、イサムは先ほどのリュックサックを陳列棚から再び手に取った。

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