8 相対する二人

 アスファルトが溶けて、靴裏が粘つく。

 既に太陽は高く、夏の日差しは容赦なく体を焼き、イサムはたった今出てきた病院へ引き返したくなった。


『いやー、やっぱり暑いわね』


 横から聞こえるのん気な声に苛立ちを覚え、不快感から逃れるように実家の方へと歩き始めた。


 病院での診察結果はイサムが望んでいたものとは違った。痛むようならと薬を処方されたが、今は様子を見る他ないとのことだった。

 医者が頼りにならないとなると、ユーラに腫れ痕について話を聞く必要性が高まった。それに比例して、イサムの気はどんどんと重くなる。


『ちょっとっ、待ちなさいよ!』


 イサムの歩みはいつの間にか早足となっていた。

 遠くから聞こえるユーラの声に、イサムは渋々立ち止まる。


 昨晩、天気予報を確認したイサムはカヨコに出掛ける予定を告げた。そして迎えた今朝、準備を終えて玄関に向かえば、そこには出掛ける準備を整えたユーラが既に待っていた。

 明らかにその存在は邪魔にしかならないだろう。だがイサムは後ろめたさから、強く拒否することができなかった。

 昨晩のあれから、ユーラが話を持ちかけてくることはない。

 只、イサムの様子は窺っているようで、イサムと頻繁にその目が合う。その度にあの意地の悪い笑みを向けてきて、イサムの腹の中には苦々しい思いが溜まる一方だった。


 振り返って見やりながら、イサムはユーラが追いつくのを待った。

 だが人を待たせていてもユーラに焦る様子はなく、のんびりと開いた距離を詰めてくる。

 そしてようやくユーラが横に並ぶと、イサムは歩くのを再開した。


 都心部に来てから全てが珍しいようで、ユーラはきょろきょろと視線を動かして落ち着きがない。忙しく目を動かしながら歩くその様子はちゃんと前を向いて歩いているのか、見ていて危なっかしいことこの上なかった。


 興味深そうに様々なものを見ては笑みを浮かべるユーラと違い、イサムはその顔に疲れと焦りを浮かべている。

 病院に来たことは徒労だった。経過観察を続けても治る保証は何処にもない。ならばと思いながら、イサムは横に視線をやる。


 イサムとユーラの間の距離は絶妙だった。傍から見て二人組であることはわかる。けれど親しさは感じさせない。二人の間に会話はなく、ぎくしゃくとした空気が漂っている。


 ユーラとの間にある壁は、イサムが一人で作り上げたものだった。その壁は日常を、今の自分を守るための壁だった。

 ユーラは異端だ。ハルの話の全てを信じたわけではないが、それだけは確かだ。そして異端であるユーラの存在は、日常を生きるイサムにとって手に余るものだった。

 しかしその前提であるはずの日常は、既に侵食されているのかもしれない。それを確かめるためにも、イサムは自身で築いた壁を壊さなければならなかった。


「ユーラさん」

『ユーラでいいわ』


 イサムが足を止め、意を決して話し掛ければ、ユーラも足を止めて応えてくる。


「話がしたい、というかいろいろ聞きたいんですが」

『……何処か人気がなくて、落ち着ける場所はないかしら』


 距離感を測りかねてぎこちないイサムを、ユーラが気に留めた様子はない。只、すぐに言葉を返してきたのは、イサムのその言葉を待ち侘びていたかのようだった。


 イサムの案内で、二人は帰路の途中にある公園にやって来た。


 遊具の類いは置いていない、一面が芝生の広々とした空間が売りの公園。今は日差しと熱気のせいで、そこに人の姿は少なかった。

 二人は公園に入ると、入口正面に見えた木陰のベンチに腰を落ち着けた。それぞれ手には、イサムが自動販売機で購入した缶飲料がある。

 イサムは缶を開けず、ひんやりとしたその温度を手で味わっていた。


『まずは、助けてくれてありがとう。感謝してる』

 イサムの横で、ユーラが最初に口を開いた。


 突然の感謝の言葉に、イサムは真意を探ろうとユーラの顔を見た。


『命を救われたんだもの。あなたの意向にできる限り沿うつもりよ』

 ユーラはそんなイサムの態度など意に介さず、そう言葉を続けてきた。


 言葉が重い。命という響きが、イサムを動揺させてくる。助けたというのは山でのことだろう。しかしあれは一回見捨てたのを、罪悪感に背中を押されてのことだった。体調が悪そうではあったが、命を救ったまでの覚えなどイサムにはなかった。


「……よくわからないんですが」


 イサムは率直な気持ちを口にして、ユーラの反応を待つ。

 するとユーラは何がわからないんだと言いたげに、怪訝そうな表情を浮かべた。


 言葉が通じていないのかと一瞬思ったが、ユーラの様子は言葉自体よりもその意味を図りかねているようだった。

 話を続けようにも、何処か噛み合っていなかった。


「取り敢えず、顔のこれについて教えてもらえれば」


 黙っていても話が進むわけではない。イサムは一先ず昨夜の中途半端な会話から、胸に燻り続ける不安をぶつけることにした。


「消えないっていうのは、どういう意味なんですかね?」


 ユーラはイサムの言葉に軽く頷くと目を細め、イサムの顔にある腫れ痕をじっと見詰めてくる。そして腫れ痕に向かって、すっと右手を伸ばしてきた。

 顔にその手が触れそうになると、イサムは反射的に目を瞑った。

 ユーラの指先が顔に触れる。その指先は腫れ痕をゆっくりとなぞりあげ、目蓋の上から左目に触れて止まった。

 軽く目を押されているような圧迫感に、イサムは右目だけを開いて様子を確かめた。

 そこには腫れ痕に触れたまま真剣な表情をして、何かを読み取ろうとしているユーラの姿があった。


『やっぱり。強い力を感じる』

「は、はぁ」


 ユーラは何かを感じ得たのか、納得した様子で手を戻す。

 イサムは要領を得ず、ぼんやりとした言葉しか返せなかった。


 まるで変な占いか宗教勧誘のようだという思いが、イサムの頭をよぎった。

 最近、就職試験の帰りの駅前で、若者の意識調査と称したアンケートによく捕まる。最初は就職関連の設問を答えていくのだが、後半にかけて段々とそれが怪しくなり、最終的には精神世界や正義、悪についての設問となって前半の内容と大きく様相が変わるのだ。答え終えると待ってましたと宗教系のセミナー案内を突き出され、それなら初めからそっちで誘えと思ったことが何度もあった。

 それらにそれ以上思うところはない。しかし本題を隠しての接触と本題に入ってからのしつこさ、そして何度も引っ掛かる自身の警戒心の無さを知ったことで、イサムには心霊や神秘といった類への苦手意識が形成されていた。

 結果、現実感のない方向に話がいくと、イサムは途端に思考を放棄しがちになる。これはイサムの悪い癖となりつつあった。


『多分、これだと蛇に噛まれたんじゃないかしら』


 続けられたユーラの言葉にどきりとした。放棄しそうになっていたイサムの思考が大きく引き戻されてくる。


「……なんでそう思うんです?」

『身に覚えないの? 蛇の形に見えるんだけど、違うのかしら』

「いや、合ってるんだけど……」

 首を傾げたユーラに返す言葉が、思わず固い口調から素に戻った。


 心当たりは当然ある。あるだけでなく、敢えて可能性の中から排除していたものを原因と指摘され、イサムは苦い顔をした。

 医学的根拠のない、現実味のない話は受け入れ難い。蛇に手を噛まれて顔に腫れができるなど、何処にそんな話があるのだろうか。けれどありえないと思う一方で、心の何処かにはやはりそうだったのかという思いもある。

 しかしよくよく考えてみれば、腫れ痕が蛇の形をしている指摘は何の説明にもなっていなかった。ユーラをここに来て信用しないわけではないが、説明不足が著しい。

 ユーラ本人はそうは思っていないようで、今も説明は終わったとばかりにイサムの次の言葉を待っている。

 わざととぼけているのではないかと疑ってみるが、ユーラの顔を見れば悪意は感じられなく、逆に毒気を抜かれてしまう。


 一旦息を抜こうと、イサムは手の中にある缶飲料を持ち直した。開けようとプルタブに指を掛けながら何気なくユーラを見れば、ユーラは缶を開けずに手の中で転がすばかりだった。


「それ、飲まないの?」

『開け方がわからないのよ』


 噛み合わない会話に気を張るのが馬鹿らしくなり、イサムが砕けた口調のままに問い掛けると、ユーラは困ったような顔で笑みを作りながら、イサムの手元を覗いてきた。そしてイサムが開けるのを見て『なるほど』と呟き、同じように缶を開けて飲み始めた。

 自身も缶飲料を飲みながら、イサムはユーラを横目に彼女のことを考えた。


 今日、都心部に出てくるのにはバスを使った。昨晩、イサムは考えがまとまると、居間でカヨコに街へ行くために車を出せるかを尋ねたが、「私、やることあるから動けないわよ。バス使いなさい、バス」という素気無い返答で一蹴された。あまり食い下がると、自分で運転しろと言われかねない。来た時の山道を思うと、車の運転に慣れないイサムはさっさと引き下がり、天気予報と共にバスの運行表を確認したのだ。

 そうして今朝、イサムはユーラを連れてバスに乗り、街へ、病院へと動き回った。

 その道中、容姿からユーラが注目されることはあるも奇抜な行動はなく、日本の一般常識、知識には通じているように見えた。だが思い返せば何処かしら付け焼刃のようで、バスに乗車した際には乗るまでは平然としていたが、動き出すと驚きを顔に出さないように強張らせていた。自らでバスの乗車賃を支払い下車した後は街中の往来する自動車、自転車、人の数に唖然としているようでもあった。


 ユーラの日本に精通した様子は、只の外国人とは一線を画す。けれどそれでいて、現代知識には穴があるようにも思えた。

 箸が使え、日本語を喋り、日本の金銭の価値も知っている。だが街中の様々なものに驚き、先ほどのように缶飲料を開けられないなど、どうにもちぐはぐとした印象を拭えない。

 ともすれば自分達の間には、会話の前提となる知識に齟齬があるのではないだろうか。そう考えれば、会話が噛み合わないのも当然だった。意思疎通ができるので、イサムはその可能性を深く考えてこなかった。それはユーラも恐らく同様だろう。

 そもそも教えられて知ったユーラの名前以外、イサムはユーラのことについて何も知らないままなのだ。

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