7 不安の播種

 話を聞き終えて、イサムとカヨコは帰りの途に就いた。

 ハルの話は衝撃的で現実感が薄い。それを大真面目に語られた二人は、少し呆けながら帰り道を歩いている。

 祖父は女が何処から来たのか、見当が付いていたのだろう。祖父はハルの話を信じているのだろうか。イサムはそんなことを考えながら、足を進めていた。


 ゲンゾウの家が見えてくる。

 朝から疲労で重い体は今も同じで、イサムはようやく休めると思ったものの、家が近付くとその様子の変化に気付いた。

 家の中から騒がしい声が聞こえてきているのだ。


「そういえばじいちゃんとあの人は?」

「家で留守番してるはずなんだけど……」


 近付くにつれて、喧騒は次第に大きくなる。

 どうやら宴会をしているようで、玄関を開けると土間には何足もの靴が広がっていた。二人が帰宅の声を上げようとしても、声は喧騒にかき消されていく。

 居間を覗くと、濃い酒の臭いと大勢の人の熱気があった。そこは食べる人や飲む人、大きな声で喋る人、酒が回って船を漕ぐ人が入り乱れる惨状だった。


「おう、お帰り!」

 顔を赤くしたゲンゾウが声を上げ、数人の視線がイサムに集まる。


 床には空の一升瓶が転がり、座卓の上にはつまみとして用意したのだろう、肉料理が食い散らかしてあった。


「あらー、冷蔵庫のお肉、全部食べちゃったのね」

 居間の状況を確認して、一先ず台所に入ったカヨコの声が聞こえてくる。

「いやー、外国のえらい別嬪さんが来てるって。皆で持ち寄って来たんだけど足りなくなってねー」

 近所の人だろう、すっかり出来上がって喋る声はとても大きい。


 廊下から居間を窺っていたイサムは話に耳を傾けながらも、中に入ろうとはしなかった。酔っ払いに絡まれるのは好きではない。立ったまま、部屋へ下がる機会を静かに待った。


 そんなイサムへ寄ってくる者がいた。

 ゲンゾウの傍から器用に人を避けると、イサムに向かってくるそれはこの宴会の主役、その人だ。


『何処に行ってたのよ!』

「お、痴話喧嘩か!」

 言葉の意味はわからずともその剣幕に、周りが笑い声と共に囃し立ててくる。


 傍に来て異国語で捲し立てる女は酔いもあるが怒りのせいだろう、顔が赤い。こんなところに一人置かれれば機嫌も悪くなるだろうなと、イサムは他人事のように思った。


『あなた、私の契約者だって自覚ないの!?』


 言葉を続ける女を尻目に、イサムはハルの話を思い返した。

 これが鬼かと改めて女を見るが、イサムには偶然ここへ来た外国人の旅行者という方がしっくりくる。


『わかってるくせに! 無視して!』


 感情的になった女がイサムの左肩を強く押してきた。

 おー、と周りからは声が上がる。


 続けざまに投げ掛けられる女の言葉に、イサムはここに至って思い込みではなく、その言葉を理解できることを自分の中で遂に認めた。しかしそれでもわからない振りは続けた。困った風を装い、曖昧な笑顔で女や周りを見る。

 そんなイサムの態度に、女の顔はこれ以上ないほどに赤く染まった。そして親の仇かと言わんばかりにイサムを睨み付けると、大きく床を踏み鳴らし、居間を出て客間へ下がっていく。


 女の怒気の嵐から解放されると途端に腹が空き、イサムは朝から何も口にしていないことに気付いた。「甲斐性ねぇな」と囃し立ててくる周りの声に苦笑いを返しながら、居間へ入って適当な席に着き、つまみに手を伸ばす。


 つまみを食べていても先ほどの女の様子が頭に浮かんでくるが、イサムは意識して深く考えることを避けた。女の言葉が気にならないと言ったら嘘になる。けれどこれ以上、余計なことに巻き込まれたくはなかった。イサムにとって今考えるべきは、どうやって女を山に帰すか、その一点のみだった。



 夜になればうだるような暑さは鳴りを潜め、心地よい風がイサムの頬を撫でてくる。


 宴会はあの後もしばらく続いた。一旦席に着いてしまうと途中で抜けることはできず、イサムは後から参加してきた同世代の村の友人と近況を話して過ごした。

 高校を卒業すると親の仕事を引き継ぎ、農業や林業に就いた彼らの苦労話。それを聞くと、学業とアルバイトに励んだ自分の大学生活が薄っぺらく、意義に欠けるものだった気がした。一歩も二歩も先を行かれているような不安。それを押し隠しながら談笑を続けていると、イサムの心の内には空しさが募った。

 その後は主役が去ったことで男達の意気が消沈していて、盛り上がりを欠くと一人去り、二人去り、やがて宴会は自然解散となった。


 居間の後片付けが終わる頃には日は沈み、空には低く月が浮かんでいる。宴会の片付けを終えて、外の空気を吸いに出たイサムはそれをぼんやりと眺めていた。


 大学の友人は多くが既に内定を貰っている。イサムは自分もきちんと社会へ出る道を進みたいと思った。それ以上に、このまま就職が決まらず足踏みをすることで、社会のレールから外れることを非常に怖れた。何もない荒野を進めるほど自分は強くない。

 そのためにもまず目の前の問題、女のことから片付けなければならない。最悪ハルの話を考慮せず、警察に任せれば一区切りはつくはずだった。


 月の下には神社のある山がそびえている。


 あの山が鬼だか外国人だか、わけのわからない者が棲む場所に繋がっている。聞いた話の限りではそうとしか思えないが、イサムはいまだ信じ切れていなかった。まだ、現代まで隠されていた謎の外国人の集落がある、と言われた方が信じることができる。むしろその可能性を頭の何処かで捨てきれずにいた。


 止め処ない思考が夜風と一緒に流れていく。ここ数日の疲労と酒が眠気を誘い、夜空に浮かぶ雲がかった月のように、イサムの思考は段々と霞がかる。


 そうして両手を上げて、大きく伸びながら欠伸を一つ。そろそろ家の中に戻ろうとイサムが思った矢先、それは起こった。

 大きく伸ばした体、その背中に何かが押し当てられてた。


『動くな』

 背後からの声に、イサムの心臓が弾んだ。


 押し当てられるそれは鋭く尖っているようで、背中にちくりと痛みを与えてくる。


『そのまま地面に膝をつけろ』


 考える猶予はなかった。一瞬のことに戸惑っていると、背中に当てられたものがぐっと体に近くなる気配がして、イサムは慌てて膝立ちの姿勢となる。


 辺りは夜の静寂が濃く、遠くに蝉の声が聞こえた。


 耳には自分の浅い呼吸と激しい心音が騒がしい。緊張で喉がひりつく。意識は背後にあって、次の指示を聞き逃すまいとしていた。

 しかし気を張るイサムに反して、背後からは何の動きもない。

 そして数瞬の間を置くと背後に張り付いていた気配がふっと離れ、それに合わせてイサムの緊張もわずかに緩んだ。


 その瞬間を狙っていたのだろう、イサムの背中を衝撃が襲った。


「うおっ!?」

 思わず声を上げ、そのまま無様に地面へ倒れ込む。


 顔面をしたたかに打ち、イサムの目に涙がにじむ。

 そんな倒れ伏せるイサムに、上から声が降ってきた。


『やっぱりわかってるじゃない』


 痛む顔を抑えながら、イサムは後ろを振り返った。

 そこには宴会の料理で使われた長い鉄串を片手に、イサムを見下ろす女の姿があった。


『ここでしらを切ったら、どうなるかわかってるでしょうね?』

 問い掛ける女の口角がにぃと上がり、その手にある鉄串を強く握り込む。


 張り付いたような女の笑みに、背筋が凍る。女の圧力から少しでも逃れようと、イサムはその視線から目を背けながら立ち上がった。そして一つ深い呼吸をすると、睨むように女の視線を受け止めて対峙する。


「……失礼な奴だな」


 背中の衝撃は女の蹴りだったのだろう、軽いもので痛みはない。相手がわかってイサムはわずかながらほっとした。思い返せば、掛けられた言葉は全て例の未知の言語だ。まんまとやられたという思いがイサムの態度を頑ななものにし、悪態を口にさせる。


 そんなイサムの言葉に、女は笑みを消した。


『今まで失礼な態度を取ってきたのは、どっちかしら』

「知らない言葉が突然わかるようになるなんて思わないだろ。勘違いだったら恥ずかしいし」

『私に確認すればいいだけじゃない』


 日本語と未知の言語が交差する奇妙な会話が辺りに響く。

 女の言葉はイサムからしても正論で、その圧力にたじろぎそうになる。


「それこそ、勘違いだったら馬鹿みたいじゃないか」

『馬鹿みたいって……、それで話が進まなかったらそれこそ馬鹿みたいじゃない』


 女はイサムに言い訳することを許さなかった。またイサム自身も言い訳の言葉を重ねるごとに誤魔化してきたことが負い目となって、苦しみが増す一方だった。

 だがそれでも、イサムに態度を改める気は起きなかった。

 そもそもこの女とは、山から拾ってきた、助けただけの関係だ。長い付き合いになるわけではなく、例え負い目を感じても真摯に向き合う必要性は低かった。ならばこの場が収まれば、今はそれで十分だ。

 そうして口を閉ざすと、イサムはこの女をどうやり過ごすかを考え始めた。


 イサムが黙ると会話は止まり、沈黙が流れる。

 その間もイサムと女は無言のまま、お互いの視線をぶつけ合う。そんな状況に再び緊張は高まっていく。

 けれどイサムが間を置こうと視線をずらせば、それと同時に沈黙は破られた。


『あなた、その顔どうするつもりなの?』


 一瞬、顔の作りのことを言われたと思い、あまりの無神経さにイサムは怒りを覚えた。しかし女の視線が顔のある一点、顔に残る腫れ痕を見ていることに気付くと、勘違いだとわかって顔が少し赤くなる。


「どういう意味……?」

『それ、消えないわよ』


 イサムの腫れ痕をなぞっていた手が止まり、顔が強張る。

 女はイサムのその反応に満足したのか、にやりと笑うと踵を返した。


「ちょっ、ちょっとお前!」

『ユーラよ。ユーラ・ベイロン』


 イサムの呼び掛けに立ち止まると、女は改めて自身の名前を告げてきた。そしてそれだけ言うと、イサムの言葉を待つことなく家の中へ戻っていった。



 宴会によっていつもより遅くなった夕食時。その時間はここまでのイサムの人生の中で一番の、苦痛の時間となっていた。


 夕食に用意されたのは冷凍の海老を市販のソースで炒めた、海老のチリソース炒め。冷凍庫に残されていた余り物でまとめて調理されたそれは、外食に慣れたイサムには特別なものではなかったが、ユーラにとっては違ったようだった。


「オイシイです!」


 昨晩より緊張が抜けたのか、ユーラはもりもりと食事を進めている。


 ユーラの姿を作り手のカヨコは笑顔で、地元のものよりもおいしそうに食べる姿にゲンゾウは複雑な顔で、それぞれ見守っていた。


「こんなオイシイモノはハジメテです!」


 一方のイサムはちびりちびりとしか食事が進まなかった。


 先ほどのユーラの言葉が気になって仕方がない。もし顔に黒々しい腫れ痕がずっと消えずに残ったら、就職活動は非常に厳しいものとなるだろう。だがあの言葉はイサムの態度に気分を害した、ユーラのはったりである可能性もあった。それでもあの知ったような口振りは不安を煽ってきて、もしものことを考えさせてはイサムの頭を悩ませてくる。


「ユーラさん、そんなに喜んでくれるならこっちも食べていいわよ」

「イイんですか?」


 カヨコは手を付けていない自身の皿をユーラの前に置くと、その代わりとばかりにイサムの皿を自分の前へ移す。


「イサム、いいわよね?」


 食欲の湧かないイサムはカヨコの問いに頷いて、そのまま箸を置くと食事を終えた。苦しむ自分へ当て付けるかのように、殊更楽しそうに食事をするユーラの姿を見ていられなかった。

 カヨコとユーラが歓談を続けるのを尻目に、イサムは食器を下げると逃げるように居間を後にする。背中にはユーラの視線を感じたが、お互いに声を掛けることはなかった。


 居間を出て自分に用意された部屋へ入ると、イサムは床に寝そべり脱力した。


 体はここ数日の出来事で疲労しているのは勿論のこと、その心中も次から次に問題が降って湧くようで鬱々としたものだった。

 しかし幸か不幸か、そんな気持ちはこれまで散々味わってきた。

 就職活動で手応えがあったのに選考落ちとなった時、呆けて何も手を付けたくなる。それでも時間は無情に過ぎた。結局何をすべきかといえば、次こそはと信じて履歴書を書き、説明会に申し込むしかなかった。


 体の重さを億劫に感じつつ、イサムは手探りに携帯電話を取り出し、着信履歴を確認する。

 就職活動の選考の連絡を待つそれはこちらに来てからも空振りが続き、今日の結果もまたそうだった。


 依然として進まない就職活動。イサムの帰省の目的の一つ、こちらの求人情報を確認する必要は消えていない。

 しかしイサムの今一番の懸念事項は、顔の腫れが一向に引かないことだった。ユーラの言葉通り、顔にこの腫れ痕が残ったら当然面接に影響が出る。また現在は症状に出てきていないが、今後体に悪い影響がある可能性も考えられた。


「やっぱり、一回病院に行かんとなぁ…」


 口をついて出る独り言は、ユーラによって意識させられた腫れへの不安によるものだ。その不安を背に、一度実家のある都心部へ出て行こうとイサムは予定を決めていく。

 ユーラの言葉によるところも大きいが、腫れが消えないならば一度は病院で専門医に診てもらう必要があった。そこで治る見通しがつけば、訪れたついでに都心部で求人の確認をしてもいい。

 また折角帰省したのにもかかわらず、山村にいるばかりで地元に顔を出せていないのも、イサムは気に掛かっていた。


 やるべきことが定まってくると、幾分イサムの気持ちは楽になる。実際にはまだ何も進んでいないのだが、今ここでそれ以上悩んでも仕方がなかった。


 今後の方向性がまとまれば、早速とばかりにイサムは起き上がる。そして準備や日程を決めるのにテレビで天気予報を確認しようと、部屋を出て居間へ戻るのだった。

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