6 村山家と民話

 翌日、イサムが目を覚ましたのは昼を過ぎてからだった。


 昨晩は随分と話し込むも、寝入ったのは日付の変わる前。睡眠時間は申し分なく取ったのだが、体の節々は悲鳴を上げている。疲労はいまだ抜けきらず、カヨコに叩き起こされるまでイサムの体は休息を求め続けていた。


「眠い。体が痛い……」

「あの子を連れてきたのは誰よ。ちゃんと責任取りなさい」

「責任って」

「本当は午前中に予定を済ませるつもりだったのに」

 イサムが愚痴を言っても、カヨコはすぐさま文句を被せてくる。


 そしてイサムは簡単な身支度だけさせられると、昨晩話題に上がった人物である村山ハルの家を目指し、カヨコに引っ張られながら外へ出た。


 村山ハルは祖母のチヨより前の、先代の村の語り部だ。

 村に残る村や山にまつわる民話、伝承の大半は村山家が代々伝えてきたものである。そもそも山は村山家の私有地で、それを好意で村に開放していた。山の歴史、出来事に一番詳しいのは間違いなく村山家、その最長老である村山ハルになるのだ。

 彼女は齢百歳を超えてもかくしゃくとしており、年寄り扱いを嫌って近所に住む息子らとは同居せず、一人で住居を構えて暮らしているらしい。


 昨晩の話を振り返りながら、イサムとカヨコは足を進める。


 歩いて数分。神社の道すがらにあるそれは、地主が住むにはこぢんまりとした平屋の日本家屋だった。

 その家の前に、一人の老婆の姿がある。ちょうど家に入ろうとしているところらしく、玄関戸に手を掛けていたが、イサム達に気が付くとその手を離して、寄ってきた。


「チヨさん! あなた最近全然顔見せないじゃない。久しぶりねぇ」

「お久しぶりです。ハルさん、私はカヨコです。いつも間違えますけど、母の葬式にも出てたじゃないですか」

「……冗談に決まってるでしょ。でもあなた、本当にチヨさんの若い頃にそっくりなのよ。声までそっくりなんて、親子なのねぇ」


 カヨコと話し始めた老婆。どうやら彼女が村山ハルらしい。真っ白な髪、顔には深いしわが刻まれているが、背筋をぴんと張ってすらりと立つ。その姿から百歳を超えているとは、イサムにはとても思えなかった。


「何か御用なんでしょ? ちょうど出先から戻ってきたところなのよ」

「すみません。忙しいところにお邪魔しちゃって……」

「気にしないで頂戴。この歳になると、一日ほとんど暇なんだから」


 ハルは話しながらカヨコを連れて、家の中へ入っていく。

 イサムもそれに続くと、通された居間でカヨコの脇に控えた。


 ハルが冷えた麦茶を人数分用意した後、カヨコとハルが腰を落ち着けて世間話を始めるとそれは延々と続いた。

 イサムは話が本題に入るのをじっと黙って待っていた。けれど、「ここのところ、天気がよくて……」だの、「村の雑貨店は相変わらずの品揃えで……」とか、「最近息子夫婦が顔を見せに来なくって……」といったどうでもいい話題に盛り上がり、世間話が終わる気配は見えてこない。邪魔をしないようにと気を使うも、一向に話の進まない二人を見ていると、わざとそうした振る舞いをしているのかとも思えてくる。そんな疑念が湧いてくれば、黙って見ていることがますます苦痛になった。


「すみません。そろそろいいですか」

 そして会話のわずかな間を見計らって、イサムは遂に声を掛けた。

「あら、挨拶も無しにせっかちなのね。それに顔に変なものまで入れて。一体どなたなのかしら」

「ハルさん、私の息子のイサムです。すみません、礼儀を知らなくて……」

 ハルの不快そうな声が響き、カヨコがすぐに謝罪の言葉を口にした。


 目の前の会話に、イサムはこの場に来たことを後悔した。疲労の抜けない体で何とか訪ねたのに、話を促して返される言葉がこれなのか。そう思うと気力が削がれ、何もかもが面倒になってさっさと帰りたくなった。


「まぁ、そろそろ何をしに来たのか伺おうかしらね」

 そんなイサムの気を知ってか知らでか、ハルはその一言で世間話を終わらせる。

「イサム」

 隣に座るカヨコがイサムを促して、二人の視線がイサムへと集まった。


 そうなるとイサムは腑に落ちない気持ちを抱えながらも、昨日の山での出来事、山から連れてきた女のことを語らざるを得なかった。


 いざ話し始めてみれば、説明は十分も掛からなかった。呆気なく話を終えると、あの時、あの場で感じた不安や恐れが全く伝わっていない気がして、イサムには何処か空しさだけが残った。

 その一方で二人は黙ったまま、じっとイサムの話を聞いていた。只、カヨコは昨日のことを詳しく説明していなかったからか、話の最中に物言いたげな視線をイサムに何度も向けてきていた。


「そう。鬼が出たのね」

 イサムの話を聞き終えたハルの第一声はそれだった。


 ハルの声色はしっかりとしていて、その言葉が決して聞き間違いではないことを意識させてくる。


「鬼……?」

「私、身支度手伝いましたけど、普通の子でしたよ。耳が少し変わってましたけど」


 ユーラと名乗った女の耳は普通の人と違い、かなりはっきりと尖っていた。他に特徴と挙げるべき特別なものがない中で、大きくはなく殊更目立つわけではないが、三角形の尖り耳は他と区別できるほどに特徴的だった。イサムはそのことを聴こえに問題がなさそうだったので意識から外し、カヨコが指摘するまで忘れていた。

 そして高が耳の形で鬼と呼ぶのかと思うと、イサムは何か苦々しいものを感じた。


「勘違いしないでね。昔から山から来た異人さんを鬼って呼ぶのよ」

 イサムのそんな思いを感じ取ったのか、ハルは諭すようにゆっくりと言葉を続けてくる。

「山の向こうには鬼が棲む。村に残る民話の多くで、そう語られてるの。

 その姿は話によって様々で、一番有名な真っ赤な体に角を持ったものから、まるで猪や熊みたいなもの、人とほとんど変わらないものもいるわ。

 そしてそのどれもに共通するのが、山に入った人や子供を攫って食べるのよ。そして村に下りてきては女を抱き、孕ませる。生まれる子は異形の子。育ち、時が来たら山へと帰っていく。

 子供の中には村に残って、その力で戦で武功を立てたなんて話もあるわ。その褒賞で山に神社を建てたことになってるの」


 今の神社を見る限り、やはり民話は民話でしかなかった。鬼の所業とやらも山で起こる自然災害など、それらの危険から人を遠ざけるためのものだったのだろう。

 民話で語られる鬼の存在を村人は皆知っていて、それは幼い頃から村に来ているイサムもだ。

 しかし鬼が外国人を指し、現実に存在していると言われても、イサムだけでなく村人すら首を傾げるだろう。誰がどうして、その話を信じられるのというのか。


「勘違いも何も異人って、どういうことですか? それにそもそも鬼がいるって前提が……、まぁそれはいいですけど」

「話はまだ途中よ。せっかちなのは、あなた達全然似てないわね」


 ハルが呆れた調子でイサムに言葉を返して、カヨコが苦笑しながら頭を下げた。


「最後に鬼が村に来たのは、大体今から百五十年前の話よ」


 唐突な話の展開に、イサムの頭は一瞬置いてきぼりになった。


「当然、当時の日本のこの村に、外国の人が暮らしてたなんてことはないわ。本当に突然、明らかに日本人とは違う子供、男の子ね。男の子があの神社で倒れているのが見つかって、地主である村山の家に運ばれたのよ」


 荒唐無稽だと思っていた昔話が、急に近代の具体的な出来事となる。

 聞きに来た手前、嘘だと断じることができず、イサムは何とかハルの話を消化しようとする。それはカヨコも同じようだった。


「そ、それで、運ばれたその子、鬼はどうなったんですか?」

「山に帰るように促したけど、本人が嫌がって村に居着いたらしいわ」

 カヨコの問いに、ハルは静かにそう返す。

「え、それじゃあ、あの、村には今も鬼が住み着いているんですか……?」

 イサムも思わず驚き、尋ねた。

「それが、もういないのよ」

「へ?」

「もう亡くなったの。亡くなった私の父が……、鬼だったの」

 そう言うと、ハルは遠い目をして庭に目をやる。


 縁側を挟んである庭は神社のある山を背景に、芝が綺麗な広々としたものだった。


「この家は元々、山へ帰らない父が村で暮らすための家だったそうよ。村山の家が用意して、時々様子を見に来ている内に気に入った母が押し掛けたらしいわ。父はそのまま村山の婿養子になって、それで私が生まれたの」

 全く縁のない人の馴れ初め話を聞かされて、イサムはどう反応していいのかわからない。

「父は綺麗な茶色の髪と瞳でね、顔立ちも日本人離れしてたわ。それに、口には犬みたいな牙があったの。鬼みたいでしょう?」

 喋りながら、父親の顔を思い浮かべたのだろう。ハルは、くすりと小さく笑った。

「父と母は仲が良くて、喧嘩なんかしなかったわ。父の方が母より一回りほど歳が上だったんだけど、若々しくて幼馴染みたいだった。それで六十年ほど前に母が亡くなると、数ヵ月後に追いかけるように亡くなったの」

「それはあの、ご愁傷様です……?」

「ばか!」

 イサムが場を取り繕おうと何とか言葉を返せば、途端にカヨコから叱責が飛ぶ。


 そんな二人の様子にハルはきょとんとした顔をした後、大きな声で笑った。

 ハルの笑い声が響くとカヨコからは睨み付けられ、イサムは肩を落とした。


「ごめんなさい。話が逸れたわね」

 笑い声を抑えてそう言うと、ハルは再び話を始める。


 その時には居間を包んでいたしんみりとした空気は、すっかりと払拭されていた


「昔の話を聞いても、父も母もあまり話したがらなかったわ」

 ハルは思い出すようにゆっくりと喋りながら、再び庭とその奥にある山を見る。

「山から来たものは山へ帰す。今は誰も覚えてないかもしれないけど、昔はそういった村の掟があったのよ。詳しいことは教えてもらえなかったけど、父を掟通り帰そうと村は大変だったらしいわ。でも父が折れず、鬼相手に報復されては怖いと結局村に置くことになった」


 強引に居座る少年と、頭を下げてお引取り願う村人達の姿。どこかちぐはぐな光景を想像して、イサムは思わず笑いをこぼす。

 するとハルとカヨコの顔がちらりと向いたが、今度は咎められることはなかった。


「最初は言葉もわからなかったって言ってたわ。当然肩身の狭い思いをしたみたいだけど、父が努力して言葉を覚えた後は、山村で人手不足もあって徐々に村に馴染んでいったって」

「なんでそこまでして山に帰りたくなかったんですか?」

「さぁ、わからないわ。小さい頃、祖父にこっそり聞いたら、村の皆がいくら頼んでも泣いて嫌がったって言ってたわね。年をとっても雨の日は絶対外には出ようとしなかったし」

「雨の日?」

「なんでも父が神社で見つかった日は雨が降ってたらしいわ」

 いくつかカヨコの疑問に答えると、ハルの話はようやく終わった。


 山奥に集落やその痕跡が見つかったことはない。

 それでいて山から人がやってくるというのは、つまり山が山ではない何処かに繋がっているということだ。

 民話やハルの父、ユーラと名乗る女。それぞれの状況を勘案するに、雨が降る時に神社が何処かに繋がる。

 女を山に帰すなら、その時を待つしかない。


 導かれる結論がオカルトじみたものとなったが、イサムはそれ以上考えることを止めた。

 結局、鬼、異人とは何なのか。ここではない人が住む場所とは何処か。いくら考えても、イサムにわかるわけがなかった。

 常識に照らし合わせても理解の及ばないものについては、状況証拠のみから積み上がった不確かなものでも、それに縋らざるを得ないのだ。


 ついこの間まで当然だった日常が、段々と遠のいていく気がする。イサムの耳にはいまだ昨晩の、女の最後の呟きがこびり付いて離れなかった。

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