5 下山

 小屋の窓から日光が差し込む。

 外はけたたましい蝉の声が響いている。


 イサムは座敷に腰掛けて、女の様子を見ながらうつらうつらとしていた。耳に届いた蝉の声に漫然と窓から外を眺めてみれば、すっかりと外が晴れていることに気付き、はっと我に返る。

 足をもつれさせながら外に出ると、そこには昨日からの見慣れた光景が広がっていた。

 霧は晴れ、雲は薄く、切れ間からは青空が見える。こぼれる日差しの強さが、先ほどまでの寒さを嘘のように思わせた。

 そのまま石段があった場所へイサムが駆けると、霧の中での光景は冗談とばかりに、それは麓まで伸びていた。


 混乱はさらに深まった。だがそれ以上に安堵が大きい。

 イサムはすぐさま取って返し、女を引き摺って小屋を出た。


 傍にいて鼻が慣れてきたとはいえ、抱えると漂う悪臭に気が滅入る。しかしそんなことで躊躇してはいられない。女を運ぶために先に下山して、人を呼ぶことや道具を用意することも考えた。けれど用意を終えて戻ってきた後、再び石段を見失った時のことを想像して、イサムは一刻も早くここから立ち去りたかった。


 やはり女は重く、抱え上げることはできずにいる。石段に差し掛かると先を急ぎたいイサムも一旦立ち止まり、視線を石段と女の間で往復させた。けれどその行為に得るものはなく、意を決して女を引き摺り、石段を下り始める。

 足を取られないように、慎重に石段を進んだ。だが運ぶ女の重量が非力なイサムの負担となって、危うく女と一緒に転がり落ちそうになったのが五回、女だけを途中の踊り場まで転げ落としたのが二回あった。

 時折聞こえる女のうめき声に、イサムは照り付ける日差しでにじんだ汗が冷や汗に変わっていくのを感じながら、必死に石段を下り続けた。


 イサムが石段を下り終えたのは日がまだ高く、時刻は午後四時を過ぎたところだった。


 なだらかとなった道を進んでいけば、ちらほらと民家が見えてくる。村まで来れば誰かの手を借りられるはず。景色が変わってくると、イサムはその思いを強くして休憩を入れずに進み続けた。

 しかし雨上がりだからか、人の姿はいくら進んでも見当たらない。

 結局ゲンゾウの家に着くまでに誰にも会うことはなく、イサムは疲労困憊になりながら一人で女を抱えて帰宅した。


「ただいまー……」

 TVの音が聞こえる家の中に、イサムのくたびれ果てて弱々しい声が響いていく。

「あら、遅かったわねー。って、くっさい! 一体何してきたのよ」

「取り敢えず風呂入りたいわ……」

「おう、おかえり。……ひどい臭いだな」

 玄関に漂う臭いにカヨコはそう言うなり鼻をつまみ、ゲンゾウは顔をしかめた。


 イサムは疲れ切った顔をしながらも、無言で二人を玄関から外へ連れ出した。


 どうしたのよ、と問うカヨコの声を無視して連れ出した先には、たった今運んできた女の姿がある。いまだ眠っているのだろう、女は目を閉じたまま家の壁にもたれて座っていた。


「神社で倒れてた。介抱したいんだけど」

 そう言ってイサムが振り返れば、そこにはあまりの悪臭に目を背けてむせ返る二人がいた。


 女をそのまま家に上げることは普段大らかなゲンゾウでさえ拒否をして、一先ず土間で同性のカヨコが体を拭くことになった。

 イサム自身もまた運ぶ過程で女の発する悪臭が体に移っており、その場をカヨコに任せるとすぐさま風呂場へ直行した。


 風呂場で湯を浴びれば、その温もりに疲労がにじみ出た。汗と臭いを落としたイサムは風呂を上がると、すぐに部屋で横になる。

 ぼんやりと部屋の天井を目に映しながら、思考は山での出来事を振り返っていく。

 本当にあの光景は現実だったのだろうか。昨日の蛇のことなど、最近立て続けにそういったことが起きている気がする。

 山村に来てからのここ数日を改めて思い出そうとするが、火照った体からにじみ出る疲労と眠気がそれを邪魔して、頭が上手く働かない。

 まとまらないままに思考を続けていたイサムだが、しばらくするといつの間にか眠りに落ちていた。






 夢を見ている。

 山中を駆けながら、ユーラはそれに気付いた。


 何度も繰り返し駆けるこの場所は、炎上する馬車から離れて飛び込んだ森の中だ。

 夢の中だと気付いても、ユーラの足はあの時と同じように必死に動いた。後方から迫る足音に走りながら魔術を行使して、地表に凹凸を作ってはその邪魔をする。


 その甲斐あってか、追手の数は次第に減った。

 だがそれでもユーラが距離を離すことのできない、ずっと追ってくる者がいる。


 夢の中のユーラは次第に焦りを募らせた。

 荒く呼吸をする口の中では、いつの間にか切れた血と飛び込んできた土くれが混ざり合い、不快な泥を作っている。

 それを吐き出そうと気を取られた瞬間、追手の魔術で前方の木が音を立てて倒れ始めた。

 ユーラは速度を落とさず、慌てながらも進路の舵を横へ切る。その際、今まで前だけを向いていた視界が一瞬、自身の後方を映した。


 上ってきたなだらかな斜面、木々の生い茂るそこにユーラを追って駆ける者の姿がある。

 遠く、木々の間に見える姿は正体を隠すように暗色の外套を羽織っていた。けれど走る速度と風に煽られてか、顔を隠すフードは度々揺れる。

 ユーラが進路に顔を戻そうとしたちょうどその時、揺れるフードは遂に捲れた。


 露わになった追手の顔を見ようと、ユーラは顔を戻しながらもその目を追手の顔に残していく。

 そしてユーラが横目に追手の顔を捉えるや否や、いつものように夢は覚めた。



 うんざりした気持ちで、ユーラは寝ていた体の上体を起こした。


 もう何度目かになる同じ夢。逃走の、あの状況を迎えてから、見始めた夢の終わりはいつも同じだった。

 あの逃走の時、ユーラは確かに一瞬、追手の顔を見たはずだった。しかしそれも繰り返される夢のせいで、どんどんと不確かなものになっていく。


「痛っ……」


 あの時のことを思い出そうとした途端、後頭部に走った痛みにユーラは呻いた。


 痛みの走った箇所に手をやれば、瘤ができている。

 その瘤を触っていれば、ぼんやりと見覚えのない男の顔が浮かんだ。そういえば、誰かに会った気がする。森へ逃げ込んでからの誰かとの出会い、あれも夢だったのだろうか。


 直近の出来事に思いが至ると、そこで初めてユーラはここが森の中ではないことに気付いた。


「どこよ、ここ」

 何処かの室内だろう、見たことのない光景に思わず呟く。


 その呟き声に反応したかのように、突然ユーラの頭に鈍痛が浮かび上がった。


 耳の穴から水を流し込まれるような不快感を伴う痛みは、大量の知識が魔力によって運ばれてくる副作用だ。

 頭に焼き付けられる知識にそれを理解しながらも、ユーラは痛みから頭を抱え込む。だがその痛みも不快感も、深呼吸を数回する間に消えていった。


 そうして自身を襲う痛みの波が過ぎ去った後、ユーラは只々呆然となった。

 その頭の中にはここがどこか、先ほど呟いた問いの答えが浮かんでいた。


『目が覚めた?』


 飲み込めない状況に戸惑う、そんなユーラに部屋の障子戸が開くと掛かる声があった。






 頬に濡れた感触がして、イサムはゆっくりと目を覚ました。


 辺りはすっかり暗くなっており、窓から外を見れば日は落ちている。夕食のものか、食欲を誘う匂いが部屋まで届き、体は空腹を訴えた。

 すっかり寝入っていたようで、イサムに夢を見た記憶はなかった。だが濡れたと思った頬を拭っても何もなく、それでも確かに残る感触に覚えていないだけかもしれないとも思った。また一瞬うずいた気がして顔の腫れにも触れてみるが、そこに変化はなかった。


 空腹に促されて、イサムは匂いを辿るように居間へ向かう。寝起きのぼんやりとしたままに居間の中を進み、しばらくしてそこで初めて状況に気付いた。


 居間にはカヨコとゲンゾウ、そして倒れていた女の姿もあって、三人で食卓を囲んでいた。カヨコとゲンゾウは食事を進めているが、誰のものかポロシャツとジーンズに着替えた女は食事に手を付けず、静かに座っていた。

 会話のない、緊張感の漂う光景だった。

 只、抱いた緊張感を他所に、イサムは女の無事を確認して一先ず胸を撫で下ろした。石段から転げ落としたことが心の隅に引っ掛かり、目を覚まさなかったらと一抹の不安を感じていたのだ。


「あら、起きたの?」

 イサムに気が付いたカヨコはそう言うと席を立ち、イサムの分の食事を用意し始める。

「なんかぎすぎすしてるね」

「……なんも喋ってくれなくてなぁ」

 緊張感に堪えかねてイサムがそう口にすれば、ゲンゾウが困ったように言葉を返してきた。


 会話を続けようにも他に言うこともなく、イサムはそのまま黙って腰を下ろした。カヨコがイサムの前に料理を並べ終えると、早速それに手を付けようと箸を伸ばす。

 その時、不意に視線を感じて、イサムは手を止めた。視線を感じた方向に目をやれば、じっと静かに座る女と目が合った。

 女は縋るような眼差しでイサムを見据えてくる。端整な外国人の女性と真正面から向き合い、イサムは先ほどまでとは違う別種の緊張を覚えた。

 そしてしばし二人は見詰め合うと、女が口を開いた。


「――――」


 聞いたことがない言葉の響きに、イサムだけでなくカヨコらの動きも止まった。

 イサムは語学に明るくない。だがそれでも女が話す言葉が英語や大学で齧ったフランス語など、世界の主要言語ではなさそうだと予想がついた。


「――――――――」


 どう見ても外国人なのだから、喋る言葉が日本語でないのは当然なのかもしれない。最初はそれを耳にして、何処の言葉で話しているのか、何について語っているのだろうか、という疑問を持った。しかし長々喋りを続けられると、外国人とはいえ少し厚かましいのではないかと、そんな思いが沸々と湧いてくる。

 ここは日本で、自分達は日本人、それなのによく抵抗を覚えずに自身の母国語をべらべらと喋れるものだ。イサムは話し掛けてくる女を見ながら、そんなことを思ってしまった。


 だがその思考も実のところ逃避でしかなかった。平静を装って女の観察を続けながらも、イサムの心中は穏やかでいられなかった。

 女の言葉は確実にイサムにとって未知の言語だ。そのはずなのに、なぜかその意味するところをイサムの頭は理解できていたのだ。

 イサムは自身の正気を疑った。

 他の二人の様子を確かめれば、不明な言語を喚く女に圧倒されている。それがますます自分がおかしいという思いを強くしてくる。


 そんな心中を隠しながら、イサムは涼しい顔を続けた。


 今日という一日に様々なことが重なり過ぎて、最早起こる問題にしっかりと向き合うことができなかった。イサムが思考を横道へ逸らすのは、精神の均衡を維持するための必死な抵抗だった。


「に、日本語は喋れないのかしらね?」

 カヨコが困惑気味にそう言うと、女は黙った。


 何かしらの期待の表れか、黙る女の視線はイサムへ向けられたままだった。それに合わせて、カヨコとゲンゾウの視線もイサムへと集まる。

 イサムは無言の圧力を感じながらも、女の言葉が理解できるのは自身の思い込みだということにした。実際、理解よりも驚きが優って、女が何を言ったのか覚えていない。三人の視線を受け止めるも求めるところは無視をして、素知らぬ顔をし続ける。


 居間に静寂が訪れた。


 一向に口を開かないイサムの様子に、女は怪訝そうな表情をする。

 けれどイサムが沈黙が続ければ、結局は女が再び口を開いた。


「ワタシのナマエはユーラです」

 発音にわずかな違和感はあるも、それは流暢な日本語だった。


 途端に場の空気から不安の色が消えていく。


「ユーラさんとおっしゃるの。どちらから来たのかしら? お一人? ご友人やご家族は?」

「カヨコ、あんまり矢継ぎ早に聞くもんじゃない。さっきまで寝とったんだぞ」


 日本語が通じるとわかるや否や、質問を始めたカヨコをゲンゾウが諌める。だがゲンゾウ自身も興味があるのだろう、その視線は促すように女を見やる。

 ユーラと名乗った女はそんな視線を受けても、少しも不快そうではなかった。


「……トオク、トオクからキました」

「トオク? 東北かしら。出身はイタリアとかフランス? それともアメリカ?」


 続けざまに飛ぶ質問に、女は曖昧な笑顔でもって応えている。

 その後もカヨコはどんどんと質問を重ね、それを見かねたゲンゾウが止めに掛かった。


 会話が始まったことで三人の視線と緊張から解放されて、イサムはようやく食事を再開した。


 カヨコとゲンゾウの関心はすっかり女へと向けられて、山で大変な思いをしたイサムを気遣う様子は欠片も見えない。それが心の何処かで面白くなかったのか、イサムには三人のやり取りが茶番に見えて仕方がなかった。

 日本語ができるのならば最初から日本語で話せばいいだろうに、なぜそうしなかったのか。三人に冷めた目を向けつつ、イサムは熱い味噌汁を啜った。


 三人はしばらく会話を続けていた。しかし女の体調はまだ万全ではないのだろう、その顔にはじわじわと疲労が浮かぶ。

 それを目敏く察したゲンゾウはすぐに会話を打ち切って休息を促し、女は遠慮せずに客間へ下がっていった。


「――――」

 去り際に誰に向けてか、女は再び異国語で呟いた。


 その呟きに対する反応を確かめることなく、女は居間を出ていく。そんな去っていく女を目に、静かに食事をしていたイサムは背中にかく嫌な汗を止めることはできなかった。


『本当は意味、わかってるんでしょう?』

 女の呟きが、イサムにはそう聞こえた。


 夢であって欲しいと思うも、汗で濡れたシャツが背中にぺたりと張り付き、その感触がこれは現実だと教えてくる。

 イサムは胸につかえを感じながら、それすら飲み込むように黙々と食事を続けた。


 女が去り、三人だけとなった居間には何処か弛緩した空気が流れた。


「あの子のおかげで、タオルが三枚駄目になっちゃった」

 空になった食器を台所へ下げ終えると、カヨコが戻ってきて軽口を言う。

「村の誰かの知り合いかしら。駐在さん呼んだ方がいいのかしらね」

「いや、呼ばんでいいだろう。……イサム、明日は村山の婆さんのとこ行ってこい」

「村山さんって……誰だっけ。そもそも何しに行くの」

 突然話を振られ、イサムは慌ててゲンゾウに言葉を返した。

「カヨコ、連れてってやれ。山での話をして、どうすればいいか聞いてこい」

「村山のお婆ちゃんって……ハルさん、まだ生きてたの!?」

 居間に響いたカヨコの声に、ゲンゾウが不謹慎だと咎めるように視線を飛ばす。


 カヨコの驚きに、ハルとはどんな人かとイサムが問えば、この辺の大地主の婆さんだと答えたのはゲンゾウだった。

 その言葉を補足するようにカヨコはイサムに、自身とハル、そしてチヨの思い出を話し始める。


 夜が更けていく中、まだまだ居間の会話は途切れそうもなかった。

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