4 出会い

「なんだこれ」

 イサムは呟きながら、指で黒い線をなぞってみた。


 皮膚に対して若干の盛り上がりがある。何度かこすりながら洗ってみるも、指に色が移ることもなければ、薄くなることもない。


「おはよう。どうしたの、それ?」

「おはよう。昨日どっかでぶつけたみたい。この辺に皮膚科ってあったっけ」

 カヨコと挨拶を交わしつつ、イサムは鏡を通して黒い線の観察を続けた。


 腫れているようだが、熱や痛みはない。原因に思い当たるものはなく、敢えて挙げるならば昨日の山での出来事だ。一番に思い浮かんだのは蛇だったが、痛みが走ったのは右手で傷口もなく、関係ないように思える。他には小屋での片付けの際、置いてあった草や葉っぱに触れたこと。それらを触れた手でイサムは顔の汗を拭った。もしかしたら触れたものの中に、肌をかぶれさせるものがあったのかもしれない。


 そう結論付けても、蛇の姿が頭から消えないのはその印象が強かったからか。右手を再度確かめても当然何もなく、イサムは忘れようと軽く首を振る。

 そしてかぶれならばその内消えるだろうと観察を切り上げ、数日様子を見ることを決めて朝食の席へ向かった。


 朝食の席には毎度の如く山菜料理が並んでいる。

 それに手を付けながら、イサムは昨日の自身の不甲斐なさを思った。労働力になるために、この山村を訪れたわけではそもそもない。けれど頼まれごともろくにできないと思われるのは癪だった。

 だからこそ昨日は請われてのことだったが、今日は自主的に山菜採りをしようと再び神社へ行く予定を立てていく。


「イサム、今日はどうすんだ?」

「今日も山に行って、今度は山菜採ってくるつもり」

 ゲンゾウの声に若干陰りを感じるのは、昨日のことがあったからか。イサムは気にしてないことを示すように軽く答えた。

「おー、そうか。今日は天気が悪くなるそうだから気を付けろ」

「了解。母さん、後でちょっと山菜並べといてくれない?」

 手本を欲して、イサムは台所の母に呼び掛けた。


 さすがに手本があれば、失敗を重ねることはないはずだ。加えておぼろげな昔の山菜採りの記憶も、手本を呼び水として明瞭になる期待がイサムにはあった。


 台所からすぐにカヨコの了承の返事が聞こえてくる。

 その声に朝食を終えて準備をすると、イサムは今日も山へ向かって出発した。


「無理はすんな。こっちは長雨にはならんから、雨が降ったら山小屋で待ってろ。無理すると帰ってこれんからな」

 家を出る際に声を掛けてきたゲンゾウには、「わかった」と簡単に言葉を返した。


 夜に雨が降ったのか、外の地面は少し湿っていた。

 イサムが空を見上げれば、綺麗な青空に太陽が高い。今日も一日、暑くなりそうだった。



 炎天下に石段を上り続ける。

 二日続けてのきつい運動にイサムの体は悲鳴を上げると思いきや、むしろ体調はすこぶる快調。軽い足をすいすいと動かしていると、神社に辿り着くのはすぐだった。

 小屋を目指して歩みを進めれば、石段を上っていた時には強かった日差しが段々と陰り始めた。

 やはり天気は悪くなるのだろうか。祖父の言葉を思い出しながら、イサムは予定を早くこなそうと足を速めた。


 小屋の前まで来ると、まずは捕獲器の状況を確かめるために裏手へ回った。

 もしかしたら昨日逃がした蛇が掛かっているかもしれない。小屋を目にして思い返される昨日の出来事の挽回に、淡い期待だと理解しつつもイサムは茂み近くへ歩いていく。

 だが目に入ってくる捕獲器には蛇がいないどころか、昨日と同じく獲物は何一つ掛かっていなかった。近くの他の罠も確認するも、そのどれにも獲物の掛かった様子はない。


 まだ確認していない罠を探して、イサムは辺りを見回した。するとその目が違和感を、昨日はなかったものを見つけて、動きを止めた。


 視線の先には一つの捕獲器があった。

 他のものと変わらない大きな箱型の捕獲器からは獣の鳴き声も、揺れれば響くだろう金属音も聞こえない。

 そんなそれ自体は何の変哲もない捕獲器の上に、何か厚みのある大きなものが覆い被さっていた。


 最初、イサムはそれを昨晩降っただろう雨を避けるための布だと思った。けれど屋外に設置された罠にそんなものが必要だろうかと、疑問にも思った。

 一体何なのかと目を凝らしてみれば、それに気付く。

 布の固まりに思えたそこからは、すらりとした白い腕が伸びていた。さらにその腕の先は捕獲器の中へ、そこに餌として入っている生肉へと突き出されていた。


 人が倒れている事実に気付き、イサムの心臓がどきりと跳ねた。


「ぐっ……」

 すぐに安否を確認しようと近寄ろうとして、漂ってくる悪臭に思わず呻く。


 鼻を刺すような強烈なアンモニア臭。近付けば強まる臭いは発臭源が何かと考えることを必要としない。

 あまりの悪臭に吐き気を覚えた。それを無視して進んでも、二、三メートルまで近付くと生命の危機を感じて、イサムの足は前に進まなくなる。


 動かない足に接近するのを諦めて、イサムはその場からそれを見た。


 焦げ茶色の布を被ったそれは、どう見てもやはり人だった。大きさは日本の成人男性平均ほど。イサムと同じか少し大きく、子どもではないことだけはわかる。呼吸に合わせてだろう、規則的に布全体が微動していた。


 呼吸する様子に生きていることがわかり、イサムは一先ず安堵した。けれども足が動かないのは変わらない。またイサム自身、伏して動かないその者に、無理をしてでも近付こうとはどうしても思えなかった。


 しばらくその場で眺め続けていても、倒れている者の様子に変化は起きなかった。それを確かめると音を立てないように後退し、イサムは小屋へと引き返すことにした。小屋の中に入ると引き戸を閉めて、薄暗い小屋の土間にじっと佇む。


 外と分けられた空間に身を置けば、先ほどの光景が薄くなっていく。そのままあの者を見なかったことにしようとする自分を、薄情だとは思えなかった。請われれば人に手を貸す程度のことは当然する。しかし悪臭を漂わせながら生肉へ手を伸ばす人間に、自分から積極的に関わろうとする者がいるだろうか。

 単に寝ているだけかもしれない。朝からこの神社にいるのが、まさか全くの部外者ということもないだろう。山村も広く、自分が知らない事情もいろいろとある。時間を置けば一人で起きて、下山して何処かへ行くはずだ。


 自身を正当化する理由が次から次と頭に浮かび、イサムの罪悪感に蓋をしていく。それでもわずかに残る気まずい思いに、一瞬引き返そうかと視線は小屋の入口へ向けられる。だが面倒を避けようとする思いと鼻にこびり付いた悪臭が、イサムを再びあの場へ向かわせようとはしなかった。

 そうして小屋に留まることを決めると、イサムは伏した誰かが去るのを待つ間、昨日に引き続いて小屋の整理を始めた。




 時間潰しも始めると夢中になって、イサムが小屋の整理を一区切りつける頃には、時刻は一時間ほど経過していた。


 寒気を感じて、イサムはポロシャツから伸びる腕を抱えた。小屋の窓から外を眺めると、いつの間にか雨が降っている。雨粒は小さく霧雨のようで、遠くが白んで見えた。


 外の様子に、山菜採りは難しそうだとイサムは思った。そのまま窓から様子を窺っていれば、ふと小屋に入る前のことが思い浮かび、それが嫌な予感となって胸をよぎった。あの者はどうなったのだろうか。まさかもういないだろうと思いつつも、一度気になり出すとあの光景が頭をちらついて離れない。


 目に映る景色に、雨の止む気配はいまだなかった。

 けれどいないことを確かめるだけだと思うと、イサムは傘を持たずに外へ出た。


 雨の中、小屋を出ると裏手へ回る。体を濡らして進みながらも、その労力が無駄になることを期待する。そんな自身の行動のちぐはぐさに呆れるのも束の間、イサムは見えてきた光景に愕然となった。


 周りの景色から浮くように、そこには人の姿があった。一時間前には捕獲器の上にいた者だろう。その者が雨の降る中で捕獲器の脇、地面の上に仰向けに倒れていた。


「おい!」

 イサムが声を掛けながら駆け寄るも反応はない。


 顔色を窺おうと覆っていた布を除ければ、青白い顔が現れる。わずかに口元を動かしてするその呼吸は浅く、頼りなかった。

 このまま雨中に野晒しにすればどうなるか。想像の難くない結果に、イサムは小屋へ運ぼうと抱え上げようとした。


「くそ、重いっ……」

 自分の腕力では持ち上がらず、イサムは一人愚痴る。


 有事に瀕して急に普段以上の力が出るなんて、現実にそんな都合よく事が運ぶわけがない。それでもどうにかしようと、悪臭に耐えて試行錯誤を重ねること数度。

 倒れた体の背中から両脇に腕を差し入れて、イサムは倒れていた者の上半身を持ち上げる。そして下半身を引き摺ったままに後退すれば、ようやくその者を小屋へ運び込むことができた。


 小屋へ戻ってきた時には、イサムの髪と服はすっかり湿り切っていた。

 倒れていた者は土間から座敷に運び上げて、今は横になっている。


 このまま放って置いても体が冷える。イサムは自分のことを後回しに、運び込んだ者から雨と泥で汚れた外套を剥ぎ取った。


 初めて露わになったその下の服装は、まるで演劇の村人役が着ていそうでいて粗末な服装だった。藍色に白の映えた服装であるが、ズボンの裾や白い布地の部分は外套と同じく泥で汚れてしまっている。

 この辺りで映画の撮影でもしているのか。その場面が全く想像できず、イサムは自分で考えながら無理を感じた。只、もし山村にこんな奇抜な恰好をした者が住んでいれば、自分だって知っているはずだ。ならばこの者は村の外の、部外者である可能性が高かった。

 また外套を外したことで、服装の胸元が薄く膨らんでいることに気が付いた。青みの強い紺色の髪と瞳に、白い肌。髪は首半ばまで不揃いに伸び、目鼻立ちのはっきりとした外国人のような顔が露わになって確信する。焦りと体格で気付かなかったが、倒れていた者は同世代らしい女性だった。


 出血は見当たらない。イサムは頭部に外傷がないか確認しようと女の頭を支え、持ち上げる。すると女の目蓋が薄らと開いた。


「おい」

「……」

 女と目が合って声を掛けると、女はか細い声で何事か呟いて手を伸ばしてきた。


 弱々しいその手を取って、イサムは言葉の続きを促した。

 だがイサムが女の手を取った途端、女の手からは力が抜けた。そしてその意識はすぐにまた失われてしまう。


 イサムに医療の専門知識はない。しかしこのまま寝かせておいたら、取り返しがつかなくなりそうなことだけは想像できた。

 そう思いはしても小屋へ運び込むことすら苦労したのに、イサム一人で女を担ぎ、病院目指して下山するなんてことをできるわけがない。また逆に医者を連れて来ようにも、村にいる引退間際の老医師にあの石段を上らせることは不可能だ。

 とにかく女を村へ運ばなければならなかったが、そのためには人手が必要だった。


 意識のない女の顔を見れば、青白さが増した気がする。

 その姿にイサムは突き動かされ、村を目指して白んでいる外へ飛び出した。


 濃霧の中を駆け走る。


 白む視界に焦りもあってか、イサムは自分が何処にいるのかわからなくなりつつあった。石段は小屋からこんなに離れていただろうか。いくら進んでも見当たらず、どこかで見落としたのかと思うと、走る速度を落としていく。開けたこの場所を囲う茂みに沿って、今度は見落としのないように小走りに一巡りする。けれどそれでも石段は、いつまで経っても見えてこない。


 イサムは混乱した。


 蝉の声が途絶えた静寂の中で自分を疑い、二周、三周と周回を重ねる。時計回り、反時計回りと周り方も変えた。

 しかし結果は変わらない。

 石段は何処に消えたのか。次第に走る速度が上がっていく。息が切れるまで足を動かして、イサムはがむしゃらに探し回った。


 そうしてどれくらいの時間が経ったのだろうか。


 疲れで自然に足が止まる頃、イサムは自身がずぶ濡れになっていることに気が付いた。

 雨が体の熱を奪って、夏だというのに指先がかじかむ。冷える体に気を回したことで、混乱していた頭が少し冷静さを取り戻す。

 このまま走り回っても埒が明かない。気持ちを落ち着けて辺りを見回せば、霧の中に変わらずに佇む小屋が見えた。

 あれから時間が経ち、中で休む女の様子が気になった。改めて辺りや空を見渡しても、霧は当分晴れそうにない。

 いまだ困惑はあるものの、この状況に至ってイサムの取るべき道は小屋に引き返すことだけだった。


 小屋へ戻ると、気になっていた女の容態を確認する。

 青白かった顔には赤みが差し、呼吸は深くゆっくりとしたものとなっていた。どういうわけだか回復傾向にあるらしい。


 最悪の事態を回避しての安心と後悔が、イサムの心の中で混じり合う。

 なぜ見つけた時に助けなかったのか。面倒ごとを避けようとした結果、厄介ごとに巻き込まれている現状には頭を抱える他なかった。

 そして石段が見つからないことが、さらにそこへ影を落とす。

 疲労で見落としたのだろうという思いと、あれだけ探して見落とすわけがないという自信が心の内でぶつかり続ける。自分を疑わなければ安心できないという状況に、イサムは自嘲を禁じ得なかった。


 下山できないことを考えると、先の見えない不安が首をもたげて、イサムの冷えた体がぶるりと震えた。


『帰れなくなる』

 思い浮かぶのは祖父母の言葉だ。


 窓から覗く灰色の空を眺めながら、イサムは只ひたすら天候の回復を祈った。

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