3 山/神社へ
「暑い……」
夏の日差しはじりじりと皮膚を焼き、長い石段を上るイサムの全身からは止め処なく汗が流れ出る。
石段は山の中腹から山頂まで伸びていて、山頂は開けた土地となっている。山村の人らはその開けた土地を神社と呼ぶが、そこには鳥居もお社もない。山に入る際の道具が収められている小屋があるのみだ。
見上げればまだまだ道半ば。イサムは神社を目指して、ひたすら記憶の中よりもきつい石段を一段一段上っていた。
なぜ何もない土地を神社と呼ぶのか。昔、イサムは疑問に思って誰かに聞いた覚えがある。
村に伝わる民話は山や神社を舞台としたものが多く、山頂へ続く整った石段はその先に何かしらがあったことを見受けさせる。過去には神事が行われていた記録もあるらしい。しかし山頂の開けた土地に、神社があったことを示す痕跡は全く残されていなかった。
山村で現在行われている祭りにも当然関わってくることはなく、イサムは勿論、カヨコ、ゲンゾウ含め村の全住民、結局なぜそこを神社と呼ぶのかは歴史、習慣としか言いようがない有様だった。
信心深くないイサムがそれ以上の興味を抱くことはなく、取り敢えず神社は山頂の開けた土地を指す呼称として、イサムの中に収まっていた。
しかしイサムの祖母、高沢チヨにとっての神社の存在は、イサムの認識とは違っているようだった。
イサムの記憶の中には幼い頃、祖母に「子供だけで山へ、神社へ行ってはいけない」と幾度となく言われたものがある。
最初は単に危険だからだと思っていた。けれど中学生、高校生となっても口を酸っぱくして言うものだから、夏のある日、イサムは祖母の山菜採りを手伝いながら尋ねたのだ。
「なぁ、ばあちゃん。なんでそんな山に入ったら駄目なん?」
「駄目ってこたぁないがね……。子供だけで入ったら帰れんことがある。ほれ、それ食えんぞ。取ってこい」
「えー、これ雑草じゃないの」
たわいもない雑談の中の言葉だった。それからしばらくして祖母は病気で亡くなり、要領の得なかった答えを再度問う機会はなくなってしまった。
そして祖母が亡くなってから数年経ったある日、母との会話で祖母のことに話が及んだ。イサムが良い機会だと夏のあの日のことを話してみると、そこで初めて祖母が村の民話の語り部だったことを教えられた。
村の民話には神隠し、それも山に関連したものが多いらしい。
母からそれを聞いて、イサムは何年か越しの納得と共に祖母が随分と迷信深かったことを知ったのだった。
思い出に浸りながら足を運んでいれば、イサムはいつの間にか石段を上り終えていた。目の前には開けた土地が広がり、その端の方にぽつんと建つ小屋がある。それを視界に収めながら、すっかり上がってしまった息を整えると、もう一踏ん張りだと再度足を動かし始める。
まず手始めに、イサムはゲンゾウの言っていた罠を探して、小屋の周りをぐるりと回った。すると小屋の裏手の茂みに、膝ほどまでに高さのある箱型の捕獲器がすぐに見つかった。
捕獲器は距離を空けて複数設置されているようで、小屋の側にあるものに加えて、そこから五十メートルほど離れたところにも設置してあるのが見えた。
イサムは手近な一つに近寄ると、早速その中を確認してみる。
遠目にもわかっていたが、罠の中には何も掛かっていない。ついでとばかりに見える範囲で他の捕獲器も確認していくが、そのどれにも獲物は掛かっていなかった。
空振りなんてそう珍しいことではないのだろう。簡単に獲物が捕れれば、山から獣はいなくなる。そう考えて気落ちこそしないイサムだったが、このまま手ぶらで下山するのを良しとする気は毛頭なかった。無駄足を踏んで日頃の運度不足の解消ができたと喜ぶほどに、自分の頭は能天気ではない。そうして何ができるかと考えてすぐに頭を掠めたのは、先ほど思い浮かべていた祖母との思い出、山菜取りの記憶だった。
イサムは思い立つと早速捕獲器から離れて、小屋の入口に回って引き戸を開けた。
小屋の中は申し訳程度の小さな窓しかなく薄暗い。間取りは二畳ほどの土間に、奥が三畳の座敷になっている。土間には年季の入った鎌や、新しめの草刈り機と発電機、木で作った籠、ざるなど、大小様々なものが積んであった。
「山菜ったって、むかごぐらいしかわからんしなー」
ぶつぶつと独り言を呟きつつ、イサムは小屋の中に入って土間に並ぶ道具を漁り始める。
やる気になってはみたものの、山菜採りを手伝った記憶を掘り起こしても、雑草と見分けられなかった残念なものしか出てこなかった。万が一、毒草や毒きのこでも食べてしまったら、それこそ洒落では済まない大惨事だ。
取り置きなど何か参考になるものを探して、土間に積まれたざるや籠の中も覗いていく。
奥から順番に漁っていれば、やがてイサムの目は入口隅に置かれた蓋のされている籠を捉えた。籠の隙間から中を窺うも、何か入っていることは確認できるが薄暗く、それ以上はわからない。
イサムは戸を開け放して、日の光を小屋の中に引き入れると、近寄って蓋を取ってみた。
途端、蓋を持つ右手に鋭い痛みが走った。
「いっつっ!」
慌てて右手を引き寄せてみるも、その手に異常は見当たらない。不思議に思って右手から籠へ目を移してみれば、それはいた。
それは一匹の蛇だった。籠からすらりと頭をもたげたままに、イサムをじっと見据えて佇んでいる。外からイサムが引き入れた日の光が、ぬらりと緑色の鱗を照らしていた。籠から伸びた頭と体だけでは、大きさはわからない。けれどその姿は昨晩一升瓶の中で目の合った、あの蛇を思い起こさせてくる。
蛇を目にして、イサムは頭が真っ白になった。わずかばかりに働く理性が、蛇を刺激させまいと体の動きを止めている。
そのまま動かずに視線を外せずにいると、蛇はイサムに向かって首を伸ばしてきた。
「ひっ!」
思わず声を上げて後ろに退くと、その拍子に壁に並んでいた道具に背中がぶつかった。
道具の崩れる音が辺りに響き、小屋の中を埃が舞う。
充満するそれで視界は煙り、喉はむせる。イサムは混乱の中、小屋の外へ逃れようと光ある方向へ必死に飛び出した。
慌てたもののイサムの行動を止める者は当然おらず、小屋から出るのは簡単だった。
たった今出てきた小屋を振り返って、イサムは深呼吸を繰り返す。時間が経つにつれて小屋の中で煙る埃は収まり、それに合わせて落ち着きを取り戻していく。
どうして小屋に蛇がいたのかなど、考えるまでもない。捕獲器に獲物がいなかったのではなく、獲物だった蛇は既に捕らえられていたのだ。
イサムは浅はかな自分に辟易しつつ、痛みの走った右手をよくよく確かめた。手には傷も腫れもなく、痛みの残滓がなければ何かあったとは思えない。蛇毒の心配をしたのだが、逆に傷の無さから痛みが走ったのも気のせいに思えてくる。
自身の五体無事を確認して、視線を再び小屋へと向ける。
小屋を飛び出はしたが、このまま帰るわけにはいかなかった。蛇を放置していれば、小屋へ訪れる人が襲われるかもしれず、また捕まえた人のことを思えば何もせずにいることもできなかった。
義務感で背中を無理矢理押して、イサムは小屋へと恐る恐る戻った。よっぽど慌てていたのか、土間には数多くの道具や物が散乱している。その中から蛇を探して、慎重に一つ一つを片付けていく。
片付けをしている内に昼を過ぎ、時刻は午後二時を回っていた。
そうして小屋の片付けが終わる頃になっても、蛇はもう何処にも姿がなかった。探したという言い訳は立ったが、蛇を逃がしたことは確定してしまう。
時刻を確認して昼をとうに過ぎている事実に気付き、イサムは途端に内からにじむ疲労と空腹を感じていた。体は昼食を求めて、意識は帰宅へと向いていく。
だが蛇を逃がしたことを知られれば、ゲンゾウに何と言われるか。それを思うとイサムの気は重くなった。
本当に蛇はいないのかと、改めて小屋の至るところに視線を巡らしてみる。土間だけでなく座敷にも上がって探し回った。しかしそれでも蛇は見つからない。
しばらくそのまま座敷の上で、イサムは立ち尽くしていた。そしてその無意味な行動で何とか自分の中で折り合いをつけると、足取り重く小屋を出て、ゲンゾウの家に戻ることにした。
帰りに掛けた時間は山を上った時よりも大幅に増えていた。
帰宅したイサムが帰りを告げようと居間を覗けば、そこには誰の姿もなかった。
その代わりとばかりに存在感を示すのは、座卓の上に用意されたイサムの分の昼食だった。他の部屋にも声を掛けて誰もいないことを確認すると、イサムは風呂場で汗を流してからその食事に有り付いた。
食事の内容はご飯と味噌汁に、大分前から用意されていたのかすっかり冷めてしまった肉野菜炒め。昨晩の歓待との落差に少し残念な思いを抱きつつ、それでも用意してもらえるありがたさに感謝しながら箸を進めた。
冷えた肉の脂のせいか、それとも澱のように溜まった罪悪感のせいか、イサムの胸は重かった。けれど胸が重くても空腹が紛れることはなく、イサムはゲンゾウの帰宅を待ちつつ食事を続けた。
ゲンゾウが帰ってきたのは、イサムが食事を終えたちょうどその時だった。
「おう、戻ったのか」
廊下から居間を覗いたゲンゾウが、イサムに気が付いて軽く声を掛けてきた。
軽い調子のその声は機嫌の良さを察させて、自身の失敗がそれを翳らすのだと強く意識させてくる。
あまりの気の重さに、イサムは黙っていようかとも考えた。しかし蛇が逃げたことはいずれわかる。そうすれば当然山での事情を聞かれるだろう。そうなった時、祖父に嘘をつきたくはなかった。
「……じいちゃん、ごめん。小屋の籠にいた蛇、俺が逃がした」
ゲンゾウが傍に腰を下ろすと、イサムは意を決して謝罪の言葉を口にした。
蛇酒を楽しみにしていただろうゲンゾウの怒声が飛んでくることを覚悟して、それだけ言ってじっと顔を伏せる。
けれどもいつまで経っても、想像していた声が飛んでこない。
しばらくの沈黙の後にイサムが怖々と顔を上げれば、そこには申し訳なさそうな顔をしたゲンゾウの姿があった。
「あー、すまん。言うの忘れとったわ……」
ゲンゾウは青い顔をしながら、そう言った。
「大分前に捕まえて、糞が抜けるまで放っといたんだ。見慣れん蛇だけど、鈍いし、毒は持ってないと思うんだが……。どっか噛まれとったり、気分悪くなったりはしとらんよな?」
「う、うん。何も、大丈夫」
素直に話したことで気が軽くなったのも束の間、イサムは一歩間違えれば病院行きだったことに気付き、冷や汗をかいた。小屋での出来事を思い返してそれとなく右手を動かしてみるが、違和感はやはりない。
「本当に悪かった。何もなくてよかった」
安心した様子で話すゲンゾウに、イサムは無言で頷いた。
「東京からわざわざ来たんだ。今日はもう、ゆっくりしておけ」
そして最後にそう言うと、ゲンゾウは席を立って居間を出ていった。
半日で気力の大半を消費したイサムはそんなゲンゾウの言葉に従って、その日はそれから家を出ずにゆっくりと過ごした。
翌朝、イサムの目覚めは昨日と同様に早いものだった。
朝日が昇るのは早く、外は既に明るい。
部屋に差し込む日差しに起床を促され、渋々目覚めたイサムは眠気覚ましに顔を洗おうと洗面台へ向かった。
顔を洗い、鏡で汚れを確認する。いつもの作業を行えば、そこにはいつもの見慣れた顔があるはずだった。
色素が薄い白い肌。若干茶色がかっているのを黒く染め直し、清潔感を出そうと短く切った髪。そして主観的には整っていると思うが、異性からは好かれず、就職の面接官には苦労を知らないと言われた顔。
だが鏡に映った自分の顔には、見覚えのないものが存在していた。
鏡の中で怪訝そうに歪む顔。その額から左目を通って頬にかけて、にょろんと太筆で書いたような、波打つ一本線が黒々と描かれていた。
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