2 帰省

 今夏の帰省は浅間イサムが、自分自身で決めたものではなかった。


「――。本日はありがとうございました。今回の結果につきましては、先ほどの日程通り、選考を進まれる方のみ私どもの方から追ってご連絡差し上げます。それでは御足元にお気を付けて――」

 その日の面接も、個性のない締めの言葉を面接官が口にして終了した。


 時刻が午後四時を回っても、日差しはまだまだ強い。


 イサムは目を細めながら、たった今出てきたビルを見上げた。夏を感じさせる外気に、じわりとネクタイを締めた首元に汗がにじむ。頭の中は簡単に切り替えられない。しかし体は切り替えようと、足を帰路へと向けさせた。


 帰路を歩きながら、イサムは先ほどの面接官とのやり取りを振り返った。面接の終わりにほっとしたのも束の間、その内容にこれまでの生活とこれからを思ってげんなりとする。

 面接の感触は悪かった。けれど落ちたという結果が明示されない限り、もしかしたらという一縷の希望を持ってしまう。それは自身の浅ましさを実感するには十分だった。

 大学を卒業し、新社会人として社会に出る。その前段階として用意された就職活動は難関だった。

 これまでの選考状況は連敗を重ね、一縷の希望も空振り続き。面接が終わった直後に落ちた時のことを考えるほど、気持ちは後ろを向いていた。


 年季の入ったプレハブ造りの一Kアパート。その二階の一室がイサムの住まいだった。都内の私立大学に通うイサムは、地方から上京してきて以来ずっとここに住んでいる。決め手は大学に近く、外観、内装共に綺麗だったから。だが防音設備は築年数相応で友人を部屋に呼ぶことは難しく、イサム自身も隣人に気を使うのが窮屈で、夜に寝に帰るだけの場所と化していた。


 イサムは帰宅すると、何よりもまずネクタイを外した。首元を楽にして上着をハンガーに吊り、ベッドに腰掛けると、そこでようやく人心地つく。


 座った正面の窓からは、太陽がビル街を赤く染めながら沈みつつあるのが見えた。


 夕日を眺めながら思い返すのは、今日の面接に加えてこれまで受けてきた就職活動の選考のことだ。

 就職活動を始めてもう八か月ほど経ち、場慣れはしてきた。しかし一向に手応えがわからない。選考結果も門前払いから最終面接落ちまで。様々な形で敗れ続けて、イサムは手応えどころか自分自身を見失いそうになっている。

 自己評価は決して甘くない。かといって特別厳しくもなく、客観的であろうと心掛けるそれは高過ぎず低過ぎず。自分の不足を自覚し謙虚に学ぶ姿勢に、精神を追い込まない程度のほどほどのやる気。これらが反映された自己アピールは客観評価と自己評価、共に差異がないものとなっていたが、相対的に見ると覇気、若さに欠けるものでもあった。


「はぁ……。どうしたもんかな……」

 独り言が増えたと思いながらも、溜息と共にこぼれる愚痴を止められない。


 長年の不景気で企業の求める人材のハードルは厳しい。買い手市場となっている就職事情。その中にわずかでも存在する需要を掴むことができないのは、巡り合せの問題だけでなく、イサム自身の心の弱さの表れなのかもしれない。

 内定を得た友人に、参考にしたいと話を聞けば、高く盛られた自己評価と実像からかけ離れた自己アピールが返ってきた。

「だって、俺達何もしてないだろ。一を五か、六ぐらい言わないと話すこと何もねえよ。要は意気込みだよ、意気込み」

 そんな方法で得た内定に意味があるのかと思ったが、結果を出せず真似することもできない自分に何か言う資格はなかった。

 選考を落ちる度に反骨心が刺激されて、自分を落とした企業に目に物見せられないかと夢想する。だが、社会に出るという大前提を強く拒否される現状にはより気を萎えさせられてしまう。


 このまま一人、管を巻いていてもどうしようもない。そろそろ着替えようと、イサムはベッドを軋ませて立ち上がる。

 そうして尻が浮いた直後、ベッドの上に放られていた携帯電話が部屋に着信音を響かせた。


「はい」

「もしもし、イサム? 夏休みは帰ってくるの?」

 心臓を高鳴らせ、慌てて電話に出ると、電話の声はイサムの声を待たずに喋り出した。


 聞き覚えのあるその声は母、カヨコのもので間違いなかった。


 去年、今年と帰省しない息子に対しての母の非難を耳にしながら、待ち人からの電話ではなかったことに若干の苛立ちを覚えてしまう。


「こっちも就活とかで忙しくてさ。遊んでるわけじゃないんだよ」

「就職なんてこっちで探せばいいじゃない。どうせお父さんみたいに日本中、転勤でぐるぐるするんだから、何処でしたって変わらないわよ。それより――」


 浅間家の家族仲、親戚仲は良好だ。それでいてイサムが帰省に足が向かないのは、移動時間が非常に掛かるというその一点だった。

 実家自体は地方の都心部にあり、半日掛からず辿り着く。しかしカヨコの言う帰省とは母方の祖父の家を指していた。


 浅間カヨコは地方のとある山村の出身だ。

 幼い頃からずっと地元の山村で生活してきたが、高校生の頃に人口減少で高校が廃校、都市部の高校へ転校した。遠距離通学を卒業まで続けたが、卒業後に進学せず就職したのを機に都市部で一人暮らしを始めた。

 後に父と出会い、結婚。生活拠点はそのまま都市部としたが、夏と正月の年二回はカヨコの実家に行くのが恒例となっていた。

 そんな山村にある母の実家は祖母が五年前に亡くなって、今は祖父が一人で暮らしている。


 長々と続けられる母の主張は、いろいろなことを無視した乱暴なものだった。けれどイサムはそこで初めて、自身が意識せず東京に残ろうとしていたことを気が付かされた。

 近場に何でもある都会の生活に慣れ切ったせいか、わざわざ利便性の下がる地元へ戻るという選択肢が浮かばなかった。地元へ戻っての就職を想像してみても、それはさほど悪いようには思えない。


「――じゃあ、今年は帰ってくるのね。電車のお金は振り込んどくから」

 考えながら母の言葉に曖昧な相槌を返していれば、いつの間にかイサムの今夏の帰省が勝手に決められていた。

「え? だから忙しいって……」

「偶には顔を見せなさい。おじいちゃんだって寂しがってるんだから」

 母のその一声で、久しく会っていない祖父の顔が頭に浮かぶ。

「……はぁ、わかりました」

 そうして多少不満げなイサムも、最後は腹を据えるしかなかったのだ。



 季節は流れ、夏はあっという間に訪れた。


 久々に帰ってきた故郷。駅を出てイサムの目に入る光景は、記憶の中では建設中であったビルが立ち並び、東京とほとんど遜色がなかった。違いといえば人の数だが、そこは首都の方が多いのは当たり前。むしろ人込みの苦手なイサムには好ましく感じられた。

 結局帰省までに就職を決めることはできず、イサムはUターン就職に望みをかける。その期待値が、街の様子に高まった。


 改札を出て、そのまま進むと広場がある。

 駅前の広場にはバスの停留所やタクシー乗り場が設置され、人がまばらながら列を作っていた。


「イサム!」


 よく知る声で名前を呼ばれて、景色を見ていたイサムの視線がそちらへ向く。

 そこには自動車を脇に、駅前で待ち合わせていたカヨコが一人で立っていた。


「母さん、あんまり大きい声で呼ばないで……」

 駅前に響いた母の声は周りの注目を集め、イサムは気恥ずかしさからそう口にした。


 小走りに母へ近付けば、久々目にする健康そうな様子に何処か安堵を覚えた。


「ただいま」

「ようやく帰ってきた。それじゃあ急ぐから、乗って乗って」


 帰ってきたという実感に身を包まれながら、再会の挨拶をそこそこに済ませると、早速祖父の家に向かう車へ乗り込んだ。


 カヨコの運転する車は燃費の悪い旧世代の軽自動車。イサムが小学生の頃、父が購入してからずっと浅間家の足として現役の代物だ。流れる景色に緑が増え、山道を進んでいるとわかる頃には速度が落ち、馬力不足を感じて冷や冷やするのは相変わらずだった。


「まだこの車使ってるの?」

「いいじゃない、使えるんだから。お金も勿体無いし、ヨシヒサさんも問題ないって言ってるし」

「そういえば、父さんは?」

「また出張よ。一週間後には帰ってくるって言ってたけど、本当かどうか――」


 車内での会話は世間話に終始して、それでも話題が尽きることはなかった。

 おかげで道中の時間は経つのが早く、辺りがすっかりと暗くなる頃、イサムとカヨコは山村に到着した。


 祖父の住む山村はここ数年、四十戸数程度で人口は横ばいを続けている。だがその世代構成は時代には逆らえず、高齢化の波が少しずつ押し寄せていた。イサムにも昔は同世代の村の友人が何人もいたのだが、それも今では片手で足りる数になっている。

 また村の敷地は広大で、人の溢れていた時代があったことを思わせる。けれど人が減って廃屋が生まれては潰れ、それでも村人が各々従来の場所に住み続けた結果、山村は閑散としたものになり、それは夜になると一層となる。

 暗くなった村に街路灯と点在する家の明かりがぽつんぽつんと灯る様は、何とも寂しげだった。


 祖父の家の駐車場に車が停車すると、イサムは下車するなり家の玄関の引き戸を開けた。


「ただいまー」

 中へ入ると、土間から奥に向かって声を掛ける。

「おーう」

 間を置かずに返事が聞こえると、家の奥から祖父の高沢ゲンゾウがゆっくりと顔を見せてきた。

「よう戻ってきたなぁ。ほら、さっさと上がれ」


 一年半振りの再会に元気な様子を見せ合うと、イサムとゲンゾウ、二人の顔は自然と笑顔になっていく。

 カヨコと共に家に上がれば、時刻は少し遅い夕食時。

 ゲンゾウは二人を待って食事をしておらず、この日の夕食は三人で食卓を囲むことになった。


 和室で座卓を囲み、座卓の上にはカヨコとゲンゾウが用意した料理や酒が並ぶ。


「イサムは明日から何か予定はあるんか?」

 食事を始めてしばらくすると、ほどよく酒のまわったゲンゾウが顔を赤く染めながら口を開いた。

「いや特に。こっちだと何もできないし、久々ゆっくりしようと思ってたけど」

 この山村の人らは肌の色が白く、酒が入るとよく映える。カヨコからその流れを汲むイサムも、ゲンゾウほどではないが顔を赤くしながら答えた。

「最近儂も歳のせいか、山に入るんがきつくてなぁ」

「山に入るったって、俺、何もできないんだけど」

「なに、今飲んでる酒を作るのに蛇が必要でな。山に置いてある罠を見てくるだけだ。簡単簡単」

「お父さんはほんと、お酒ばっかりなんだから」

 カヨコの呆れた声に、がはは、と笑うゲンゾウの声が重なった。


 ゲンゾウの脇にどんと置かれた一升瓶。酒で満たされた瓶の中でゆらゆらと蛇が漂う。

 山菜の天ぷらを摘みつつ、ゲンゾウの言葉にイサムはぼんやりとそれに視線をやっていた。すると不意に瓶の中の蛇と目が合い、ぎろりと睨みつけられた気がして背筋に冷たいものが走った。けれど瞬きを繰り返した次の瞬間には、蛇からの視線はもう何処にもなかった。


 程なくして食事を終えると、イサムはカヨコとゲンゾウに促されて一番風呂をもらった。そして風呂で汗を流して用意された部屋に入れば、既に寝床の準備がされている。


 一人暮らしでは考えられない至れり尽くせりのもてなしに、イサムは素直に感動した。これならばちゃんと帰省すればよかったという現金な思いが浮かび、布団の上で一人苦笑する。

 寝転んだイサムの耳には、カヨコが台所で洗い物をする音以外聞こえない。東京とは全く違う環境に、確かにこうだったと昔の記憶が思い起こされた。


 まだまだ眠るには早い時間帯だった。

 だがイサムは移動の疲れもあったのか、山村の思い出に浸りながらまどろんでいると、いつの間にか静かに眠りに就いていた。



 迎えた翌朝。


 目覚めはイサムにとって随分と早いものになっていた。早く眠りに就いたためであったが、十分に睡眠を取ったことで疲れはない。


 寝起きに昨日のゲンゾウの言葉を思い出し、これなら山に入ることも問題ないと、イサムは軽く朝食を済ませて家を出た。


「罠は神社の小屋の側に置いてある。なんだったら山菜取ってきてもいいからな」

 家を出る前、一日の準備に洗面台で顔を洗っている時には、ゲンゾウから念を押すように声を掛けられた。


 一年半ほどの間が空くくらいでは積もる話もないのが事実。けれどもゆっくりする間もなく労働に駆り出されるのは、何となく話が違う気がする。

 だからこその歓待だったのかな、などと思いつつ、それでも久々就職活動から離れた解放感から足取り軽く、イサムは山へと続く道を歩いていった。

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