一章
1 逃走
荷台で荷物が揺れて、がたがたと大きな音を立てている。いつものことだと思うもその音に耳が慣れることはなく、さりとてうるさいと感じていても改善することはできずにいる。
一台の幌馬車が道を進んでいた。
隠れるように森を進むその馬車の荷台で、頭からすっぽりと外套を被ったユーラは荷物と共に揺られていた。
馬車はある程度、悪路での走行を想定した造りとなっている。しかしそれ以上に道が悪く、また速度を緩めることもしないため、馬車を巧みに操る御者でも夜になると死んだように眠りに就いていた。
そんな環境下で、荷台に同乗するユーラが無事に済むわけはない。出発した当初は吐き気を催して何度も馬車を停め、道中を急ぐ御者に白い目を向けられた。その度に歩いて付いて行くと話すも拒否をされ、ユーラにはこの苦境を耐えるという道しか残されていなかった。
大半の時間を馬車の上で過ごすようになって早一ヶ月。
ユーラが覚悟を決めて我慢を続けた結果、多少の慣れとわずかだが楽な体勢を取れる経験を得て、今では揺られながら外の様子を窺う余裕も出てきていた。
けれど馬車が揺れることに変わりはない。そして揺れが体を刺激すると吐き気でない方向で催してくるのを止めることはできず、ユーラは御者に頼んで休憩時以外にも日に一度は馬車を停めてもらっていた。
「すみません! 馬車を止めてください!」
ユーラは荷物が立てる音に負けじと、大きな声で御者台へ呼び掛ける。
声はきちんと聞こえたようで御者の男がユーラの方を一瞥すると、馬車はゆっくりと動きを止めた。
「ありがとう」
「……」
ユーラが一言礼を口にしても、御者台に背中を丸めて座った男はむっつりと黙っている。
予め決まっているのか、道中の村での補給の際に御者は交代し、現在の男で三人目となった。
深い森の中の道を行くため、地元の者を雇うのだろう。最後に立ち寄った村で御者が代わってから、既に五日ほど経っている。しかしユーラはいまだに出会い以降、彼の声を聞いたことがなかった。
男の態度を気にしないように努めながら、ユーラは纏った外套を気に掛けつつ馬車から降りた。そのまま落ち着いた足取りで道を外れると、森の茂みへ緩い上りを慎重に足を進めていく。
御者の男の愛想のなさには辟易する。休憩が道中急ぐ彼を苛立たせているとは思っても馬車を汚してしまった場合を考えれば、ユーラに耐えるという選択は存在しなかった。仕方なく御者の態度を我慢しているのだが、ずっと続けられるだんまりに、今では気疲れを癒す意味でも休憩は必要となっていた。
雑事に気を取られつつも、ユーラは馬車から見えない位置まで移動して小用を済ませた。その間にも遠くに馬の嘶きが聞こえた気がして、馬にすら急かされていると感じることに思わず苦笑が漏れてしまう。
それでも木の根に足を取られないように、戻りも焦らず慎重に歩いていく。馬車を視界に収めると、馬車を目印に道を進んだ。
「あれ?」
ユーラがそう呟いたのは、馬車に大分近付いてからだった。
馬車が視界の中で大きくなるにつれて、ユーラはその光景に何処か違和感を覚えた。
そして道に留まる馬車に辿り着くと、違和感の正体にようやく気付く。
御者の男がいない。
用を足しにいったのかと思うと、馬だけを残す不用心さにユーラは呆れてしまった。態度の悪さには目を瞑るが、仕事はきっちりとして欲しい。愛想がなくて仕事もできないのならば、あの男には何が残るのというのか。
休憩が欲しかったのか、馬はのんびりとした様子で佇んでいる。
ユーラは馬を傍らに、しばらくの間は御者を待った。だが一向に戻る気配がないと馬の落ち着きを確認して、私物を取りに馬車の荷台へ上った。
荷台の中はがらんとしている。旅の移動の負担を少なくするため、二人分の食料や水を必要最小限しか積まないためだ。
そんな荷台の隅にユーラの私物の入った袋は置いてあった。
袋の中身は替えの下着や手拭などで、特別なものは一切ない。しかしこの旅の道中、初めて独りとなったユーラはなんとなく落ち着かず、身近なものを側に引き寄せたくなった。
袋に誰かが触れた形跡はない。
自然とそれを確認する自分に、如何に御者に不信感を抱いているかを思い知らされる。自身の性根が歪んでいくのを感じ、ユーラはこの旅が早く終わることを改めて願った。
それはそんな思考に気を取られつつ、ユーラが袋を取ろうと屈んだ瞬間だった。
突然の破砕音が辺りに響き、馬車が大きく揺れた。姿勢を崩した背中に衝撃を受け、ユーラの息が一瞬詰まる。
急いで後ろを振り返れば、そこには外の景色が広がっていた。馬車の左後部がはじけ飛んだのだ。後輪を一つ失くし、大きな穴が空いた馬車はそれでも荷物を載せながら、器用に均衡を保っている。
一瞬のことに呆けるユーラを、事態は待ってくれなかった。
破砕音の響いた直後、続けざまの次の衝撃にユーラは馬車に開いた穴から外へと転がり落ちた。
衝撃に驚いた馬が暴走を始めていた。
無理に牽かれた馬車はユーラを置いて進んでいくが、すぐに平衡を崩して引き摺られる形になる。そして馬はそれとの繋がりをみしりと千切ると、勢いそのままに駆けていく。
遠くに去る馬を目にしながら戸惑うユーラも、すぐに行動を起こす羽目となる。
森に強い魔力を感じるや否や、道に残された馬車が突如炎上した。
炎を瞳に映し、またその熱を感じてユーラは我に返ると、魔力を感じた逆方向へ走り出した。
背中に感じる魔力の高まりと攻撃されているという事実に、命を繋ぐため行動はすぐさま最適化されていく。
相手の数は不明。地の利どころか、ここが何処かもわからない。周りに広がる森の中には罠が待っているのだろう。しかしこのまま留まった際の結末は、いまだ燃え続ける馬車が示していた。
「ふざけんじゃないわっ」
森へ飛び込みながら、ユーラは悪態をつく。
何のために連れ出されたのか。目的地は何処なのか。全てが不明なまま、名も知らぬ相手の手に掛かって命を散らす。このようなことを受け入れられるわけがない。諦めの悪いユーラはまだ自身の将来に希望を見ている妙齢の女性だった。
後方では再びの破砕音。続いて木の倒れる音。複数人の駆ける足音が聞こえてくる。
生への執着、そして大きな理不尽への怒りがその音を耳にユーラの速度を上げていく。
旅の始まりは突然だった。
前線である開拓地、プレダ郡から祖父に手紙によってユーラは伯爵領の首都まで呼び出された。けれど首都で待っていたのは祖父ではなく、その使用人。その者に手渡された次の手紙によって、件の馬車に揺られることになったのだ。
幼い頃に別れてから祖父とは言葉を交わす機会はなかった。
しかし父から聞く祖父の話や思い出の中の祖父の姿は、一族から距離を置かれた父と自分にも暖かく、それが同情だとしても尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
だからこそ手紙の指示に従ったユーラだったが、それがこのような事態に見舞われる結果になった。
どうして、誰に襲われているのか。なんで今、こんなところで。
答えの出ない思いを抱えながら、ユーラは只々ひた走る。
我こそはプレダ一の魔術師であるという自負が、敵に屈することを許さない。
まだ見えぬ勝機と未来を信じて、今は鬱蒼としてくる森の奥へと進むより他なかった。
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