第1章『日常』
未だに寒さが残る春の朝、倉庫の小窓から朝日が差し込んだ。灰色の作業着を着た土方空は壁に掛かっている時計に視線を向けると、短針は七を指そうとしていた。
「もうこんな時間か」
汗を掻いていた空はラストスパートをかける。
枕ほどの大きさがある膨れ上がった紙袋を両肩にそれぞれ乗せた空は、倉庫に接している工場へと運ぶ。
工場の入り口付近には空が運んだ紙袋や五リットル缶などの物が幾つも置かれていた。空はそこに運んできた荷物を置いた。
「よしっ、これで最後だな」
土方は首に巻いたタオルで汗を拭き取りながら、指定された材料を書いたメモを確認する。
「空、お疲れ様」
空が振り返ると、同じ作業着を着た中年の男性がやって来た。
中年の男性は中肉中背な体格で、白髪交じりの髪は短く揃えられていた。
「治郎おじさん、おはようございます」
「おう。おはよう」
治郎と呼ばれた男性は空の父親の弟であり、空の叔父に当たる人だった。
治郎は工場の経営者で、ここで化粧品の制作を行っていた。
空が運んでいたのは化粧品の元である原料で、それらを加熱や冷却、混ぜ合わせることによって化粧品を作り出していた。
「いつも朝早く悪いな」
「何言っているんですか、俺がお願いしていることなんだから気にしないで下さいよ」
空は治郎に頼み込んで早朝からアルバイトとして働かせて貰っていた。平日朝五時からの二時間、掃除や原料を運んだりと、仕事が始まる前に必要な物などの準備を行っていた。
「もうここは良いから朝ごはん食べて行きな」
「わかりました。確認終えたら行きます」
「空はしっかりしているなぁ」
治郎は微笑ましそうに言って戻って行った。
確認が終わった空は四畳ほどの狭い脱衣室で制服に着替え、荷物を持って工場の隣にある治郎の家へと赴いた。
空が出た一階建ての工場は全体が白色に統一された清潔感のある建物で、入り口の傍に付けられた小さな板には『土方製作所』と書かれていた。
治郎の工場は空の祖父に当たる人が『土方製作所』を起業し、今の大きさになるまで発展させていった。しかし、十年前に祖父は他界してしまい、ノウハウを受け継いでいた治郎がそのまま跡を継いだ。
空の父親は長男であったが学生の頃から、跡は継がないと言って弟の治郎に店の事を任せて、自身のやりたい道へと進んだ。
一度だけ空が跡を継ぐのは嫌だったのではと聞いてみたが、治郎はこの仕事が好きだったから全然嫌じゃなかったと言った。もし、自分の父親のせいで継ぎたくもない仕事を継がされたのではないのかと思っていたため、少し安堵した。
空が向かった家は古い日本屋敷で、歴史を感じさせる玄関の前には立派な松が植えられていた。玄関を通って奥にある和室の襖を開ける。
「あら、空くんおはよう」
「おはようございます。稔おばさん」
襖の先には朝食の準備をしている治郎の妻である稔がいた。
橙色のエプロンを身に着けている稔はややふっくらとした体形をしており、長い髪は団子にして結ばれていた。
隣には治郎は既に座って新聞を読んでいた。
テーブルには稔が作った味噌汁や佃煮、塩鮭の切り身などの和食が並べられていた。いつもながら量が多いと思いながら、空は自分の場所に座った。その後、ご飯をついできた稔が座って朝食を食べ始める。
空は湯気立つ味噌汁を息で冷ましてから口に含む。煮干し魚の出汁がしっかりと取れていて旨味が口に広がっていく。
用事が無い限り平日は、アルバイト終わりに叔父母夫婦の家で朝食をご馳走になっていた空は親しんだ味にほっと息をつく。
幼き頃から両親は仕事に追われて家にいないことが多かったこともあり、空は母親の手料理というものを余り口にした事が無かった。そのため、空にとっては稔の料理の方が親しみがあった。
逆に治郎と稔には子供がおらず、空のことを自分の子供のように可愛がった。
空が朝食を味わっていると、治郎が食べながら質問してきた。
「空学校で友達は出来たか?」
「ま、まぁ……」
空が高校を入学してから二週間、治郎は毎日必ず同じ質問をしてくる。空はその度歯切れの悪い返事をする。
治郎が心配して聞いてきてくれているのが分かっている空は、しっかりとした返事を出来ないことに心痛める。
「そうか」
治郎はそう言ってそれ以降追及して来なかった。
一瞬気まずさが漂うも、そこに稔が話題を振ってきた。
「空君、今日も自分でお弁当作ってきたの?」
「そうですよ」
「朝早いのに大変でしょ? 無理そうだったらいつでも叔母さん作るからね?」
「はい。ありがとうございます」
毎朝世話になっている空はこれ以上迷惑をかけまいと、昼と夜は自分で料理することにしていた。料理を始めて数年経つが未だに稔の味に遠く及ばず、空は日々研究に励んでいた。
大きい体格の割には胃が小さい空は苦しくなりつつも箸を動かしていると、先に食べ終えていた治郎がリモコンを持ってテレビの電源を点けた。
画面に映ったのは都内にあるコンビニの映像だった。
『ーーご覧頂いていますように、昨夜突如現れた怪人によって建物のガラスは割られ、店内の商品は散乱しています』
店内は商品が置かれた棚が幾つも倒され、菓子やインスタント食品などが踏みつぶされていた。また、ガラス張りの扉はひん曲がって外に向かって飛び出していた。
『当時現場にいた人からお話を伺った所、店は仕事終わりで訪れるお客さんが多く、列を作って会計するために並んでいると、その内の一人が突然店員に金を出せと男が脅し始めたとのことです。その後、店員が要求を拒否していると男性は姿を変え、全身紫色の巨漢となって店内で暴れた後、レジごと持って逃走したとのことでした。怪我人は四名で……』
事件となった場所は空が済んでいる市の隣だった。
「結構近いな……」
経営者としてか、治郎は落ち着かなさそうにテレビを見つめている。
「怖いわね……。空君も巻き込まれないように気を付けてね」
「うん……」
『警察によると現在警察とヒーローで捜索にあったっており、見つけ次第退治するとのことです。近所にお住いの方はなるべく外出を控え……』
「……」
空は食い入るようにしてテレビを見つめる。
「空君、時間大丈夫?」
「え? あぁ!」
時間のことを忘れていた空は残っていた朝食を胃に掻っ込む。
「うっ……。ご、ご馳走様です!」
苦しくなりながらも食べ終えた空は急いで食器を台所まで運び、鞄を手に取る。
玄関まで見送っていくと言う叔父母を座らせて、空は襖に手を掛ける。
「それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい。事件のこともあるから気を付けてね」
「明日も頼むな」
言葉を交わした後、空は駆け足で隅に停めていた自転車に跨って最寄りの駅に向かった。
治郎の工場の周りは住宅街となっており、小学生の団体や、保育園へと預けに行く親子の姿などが多く見られた。その後、住宅街を少し走ると公道へと出た。公道は住宅街と打って変わり、車が多く行き交っていた。歩道にサラリーマンや学生が多く歩いていた。
空は自転車専用道路を使って、急いで駅へと向かう。
自転車を漕いでいると幾人もの視線を感じたが、空は気にせずに漕ぎ続けた。
急いだお陰か、空は電車が来る前に駅に到着することが出来た。しかし、食べた直後の運動で若干の吐き気に襲われる。
「やっぱりあの量は多いよな……」
空は量を減らして貰おうかとしたが、料理を多く作っていると子供が出来たようだと嬉しそうに言っていたため、言えずじまいだった。ましてや、折角作ってくれたご飯を残すことは出来なかった。
胃を押えていると近くの踏切の警報が鳴り出した。スマホで時計を確認すると、乗る電車が来ている事を知って慌てて改札に向かう。
幸いにもスムーズに改札を抜けること出来て、電車が来る前に列に並べた。
安堵していると電車がホームに止まり、電車から多くの人が下車した。下車する人がいなくなると、列を成していた人々は次々と電車に乗り込んだ。
後列に並んでいた空も電車に乗り込みホーム側に振り返ると、一番後ろに並んでいた女性が大きなキャリーバックとその上に乗せた鞄を重そうに引っ張っていた。電車に乗り込もうにも重くて上手く持ち上げられずにいた。
それを見た空はすかさず声を掛けた。
「だ、大丈夫ですか? 手伝いましょうか?」
「ーーえ? ど、どうも……!」
空の顔を見た女性は一瞬目を見開いて、たじろいでいる様子だったが、空は気に留めることなく女性からキャリーバックを受け取る。
空は女性のキャリーバックを持ち上げるとかなりの重さに驚く。男性でも持ち上げるには一苦労するであろう重さだったのだ。しかし、空は普段からバイトで重い荷物を運んでいたこともあり、難なく電車に乗せることが出来た。
「あ、ありがとうございます……」
気まずそうに感謝を述べた後、女性は逃げるかのように隙間を縫って空から離れた。
残された空は周囲の乗客達に凝視される。
不快そうな表情をする者や、物珍しそうに見つめる者、様々な感情の視線を向けられる空だったが、気がついていないかのようにスマートフォンを操作し始めた。
空は視線が集まる左頬を軽く掻いた。その頬には赤く痣のような跡が首から伝わっていた。
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