誰が為ノ英雄か
兎二本 角煮
第0章『プロローグ』
一雨降りそうな曇天の下、暴力団員の男が走っていた。
男はフードを深く被り、口元にはマスクをつけていた。息を吸うたびにマスクが口へと吸いこまれて息苦しそうであった。
そんな男が民家の細い路地を縫うように走って行く。
道の隅に置いていた花壇に足が当たり、枯れきった花と土をぶちまけた。しかしそんな些細なことに男は構っている暇は無かった。
ーーどうしてこうなった?
男はこの現状に陥った原因を探る。
男は組長の頼みで、同じ区を拠点にしている山岡組と交渉をするためにとある廃工場赴いていた。
元々はガムテープを製造する工場であったが、経営破綻の後に工場は閉鎖されてしまった。使えると思われる機械は全て借金のカタとして持っていかれ、古びた機械だけが未だに工場の片隅に残されている。
不景気や立地の悪さが相まって買い手がつがず、不動産屋が困っている所に男の組が定期的に金を払うことを条件として、使用する同意を半ば強引に取らせた。その後、工場は組の取引場の一つとして使われるようになっていた。
そんな廃工場は山岡組との取引でも何度も使っている場所にもかからず、約束の時間になっても一向に現れない交渉相手に男は不信感を抱いていた。そんな時に見張りをしていた部下から、警察が廃工場へと向かっているとの電話が入った。
男は警察がこのまま突入してきたら正体がバレてしまうと焦り、急いでその場から立ち去ろうと車に乗るが、ドライバーを任せていた部下がエンジンが掛からないと言い始めた。
いつまでも動かない状況に痺れを切らした男が部下に罵声を上げた瞬間、車に強い衝撃が走る。
正面を見ると凹んだボンネットの上に天窓の破片と共に、両手と片膝を着いた状態で人がうずくまっていた。
突然現れた男はゆっくりと頭を上げた。そしてその者と目が合った途端、男は戦慄が走った。
そこにいたのは男を殺す存在だった……。
その後、男は部下を置いていつの間にか逃げ出していた。
ーー俺は任された仕事をこなしてきただけだ!
こんな体になって一度は絶望したが、それでも俺なりに頑張ってきたんだぞ?
「クソッ!」
不幸な事ばかり起きる人生に男は苛立ちを覚える。
暴力団員として働いていた男はある時、絶望のどん底へと落ちた。行き先の見えない恐怖に怯えていたが、男の変化を知った組長は今まで通り面倒を見ると言ってくらた。
男はその時拾ってくれただけでは無く、絶望から救ってくれた組長に恩を返すことを心の底から誓った。
それから男はどんな汚れ仕事でも買って出るようになった。
恐喝、暴力、窃盗、拉致、死体遺棄、殺人……。
犯していない罪の方が少ないのではと思われる程の罪の数々。しかし、男は好き好んでそれを行ってきたわけではない。
人を殺す時は常に吐き気に襲われながらも全ては組の為、自分の存在価値を見せつけるためと、自身に言い聞かせていた。
男が必死になって働いた結果、組長に盃を交わす約束まで取り次いだのだった。代わり人を殺す躊躇いを失ったが……。
ーーオヤジと盃を交わせば幹部になれる! そしたらもっと組の為に働ける!
返しきれない恩を少しでも返すためにも、男は必死に走っていた。
汗だくになった男は走りながら背後を確認した。後ろには誰一人と付いてきている者はいなかった。
安堵した男は一度足を止めようとしたとき、何かに躓いた。
「ーーなっ!?」
男は咄嗟に手を出すも間に合わず、顎から転倒した。
「ーーッ!?」
男は痛みに悶絶し、強打した顎を押さえる。
今ので顎が取れてしまったのではないかと不安になる痛みだったが、触ってあることを確認して少し安心する。
「大丈夫か……?」
突如背後から声を掛けられた男は咄嗟に振り返る。しかし、振り返った直後、男は胸倉を捕まれて投げ飛ばされた。
背中から地面に叩きつけられた男は、息が上手く出来ずに喘いだ。
男は痛みや苦しみで何が起きているのか分からなかった。
困惑している中、再び男は胸倉を捕まれて無理やり起こされる。
「何処へ行くつもりだ……?」
視界に映った人物を見て、恐怖する。
目の前にいたのは、廃工場で突然現れた者だった。
「ーーな、なんでお前が!?」
驚きの声を上げた直後、男は投げ飛ばされた。
投げ飛ばされた先に待っていたのは、トタンで覆われている平屋の大きな窓だった。
男は窓の枠ごと突き破り、机や椅子などを巻き込みながら台所へと叩きつけられる。
部屋は一面がガラスの破片に覆われた。また、男が飛ばされた際に巻き込んだ机や椅子の脚は折れてしまった。
部屋は狭く、物は必要最低限な物しか置かれていなかったが、机に置かれていたであろう小物があちこちに散らばっていた。
荒唐無稽な行為に男は度肝を抜かされる。一切の躊躇の無さはヤクザ顔負けか、それ以上だった。
「……やはりお前が怪人だったか」
男を投げ飛ばした者は、そう言って底板が厚いブーツを履いたまま部屋へと乗り込んできた。
怪人という言葉を耳にして男は自身がマスクとフードを被っていないことに気が付き、焦り出す。歯は肉食獣のように鋭くなり、顎から耳先に掛けて毛が生え揃っていた。
咄嗟に口元を手で押さえながら叫ぶ。
「お、俺は怪人なんかじゃねぇ!」
男は必死になって自分の存在を否定する。
男自身それを認めたくない。そして何よりも目の前にいる者には決して認められたくなかった。
全身黒と赤の迷彩柄の軍服の上に、防弾ベストにブーツを身に纏い、腰や太腿にはナイフが数多く装備されていた。そして、フードを被った頭には黒い髑髏の仮面を被っていた。
そんな不気味な格好をした者の正体を男は知っていた。
髑髏の仮面を被った者は平和のために悪を倒す正義のヒーロー。その名は『エンダー(終わらせる者)』
エンダーには様々な噂が流れる中、皆が必ず口を揃えてーーエンダーに出会ったら怪人は死ぬと言う。
男は暑かった体が急激に冷え込み、吐き気に襲われる。
写真でしか見た事がなく、まず会うことは無いだろうと思っていた人物が自分を殺すために、すぐそこにいる。そんな今にでも発狂してしまいそうな状況で彼を保たせているのは、恩を返さなければという使命感だった。また、それは無意識にも彼に生きる希望を与えていたのだ。
目の前にいるエンダーから目を離すことが出来ない中、男は助かる方法を必死に探る。
ーーこいつからどうすれば逃げ切れる!?
このボロ屋から逃げ出してもまた追いつかれるんじゃないか!?
どうやったか分からないが、エンダーは男の進む方に先回りをして躓かせた。そうなると、男がこの場を抜けてどれだけ走った所ですぐに追いつかれるのが関の山だった。
逃げることが不可能に近い状況に男は張り詰めた糸が切れそうになる。それでも男は生きる方法が無いか考えていると、自分の指先が目に映る。
ゴツゴツしい指の先に鋭利な爪が生えていた。それを目にした男は一つの打開策を打ち出す。
ーーいや、それともこいつを殺せばいいのか……?
男はそう思いついた途端、徐々に生きる望みが沸いてきた。
そもそも目の前にいる者が弱くないという証拠はどこにも無い。噂自体、エンダーが絶対的強者と思わせるために蒔いた嘘だったのかもしれない。
そう結論が出た途端、男は口元が緩む。所詮噂にしか過ぎないのに、何故信じていたのかおかしくたまらなかった。今まで人を殺してこられたのに、目の前にいる者を殺せない道理などないと。
長い時間だったように思えたが、その答えにたどり着くまでに一分とかからなかった。
男の思考を読み取ったかのようにエンダーは鼻で笑う。
「その姿で何を言い出すと思ったら……。第一お前が怪人だという証言があるのだ」
「し、証言だと……?」
予想外の言葉に男は驚く。
言葉を聞いて男はどうして自分が怪人だということが、バレたのか疑問になった。
エンダーがあの廃工場に来て追いかけてきたということは、十中八九男を狙ってやって来たのは間違いないであろう。つまり、男を怪人と知っている誰かがエンダーに男を売ったことになる。
一体誰がそんなことをするのか考えると、ある名前が浮かんだ。
「まさか山岡組が俺をうりやがったのか……!?」
山岡組とは組長同士が盃を交わした兄弟仲だった。しかし、そんな関係なのにかかわらず、組の衝突が多々あった。
組長達の顔を立てることによって、激しい抗争になる前にこと済まされてきたが、互いに常に睨みを利かせていた状態だった。
ーー今思えば、いちゃもんをつけてくるのはいつも山岡組からだった……!
山岡組が何らかの方法で男が怪人という情報を得て、ヒーローに怪人を飼いならしている組があるなどの情報を流した。そして、ヒーローが怪人を倒すことにより、男が属している組は怪人を匿っていた組として世間や警察に知られ、まともに仕事が出来なくするのが目的なのだと男は考えた。
廃工場に取引相手の山岡組が一向に来なかったのも納得が行く。
真相にたどり着いた男が殺意を芽生えて歯ぎしりをしていると、エンダーが口を開いた。
「売ったのはお前のボスだ」
「…………は?」
間抜けな声を出した男は、膨れ上がった殺意が一気に萎むどころか、命の危機だということすら忘れてしまう。
「オ、オヤジが俺を……?」
そこから先を言おうとしたが言葉が詰まった。嘘だと分かっていても、その先の言葉を口にすることで本当そうなってしまうのでは無いかと思ってしまった。
今度は嘘を吐くエンダーに対し、男は怒りを覚えた。
「う、嘘を吐くなぁ!?」
男は自分が想像してしまったことを振り払うかのように、壊れた机の天板に手を振り下ろす。すると、机は四本の傷跡を作り出していた。
怒りに満ちた男の片腕は一回り以上大きくなり、腕からは獣のような毛が引きちぎれた袖から露わになる。そして爪はそれに伴ってより長く大きくになっていた。
体に変化した事に気にも留めず、もう一方の手で男は口元を押える。
男はもはや自分の正体などどうでも良くなっていた。
口元を押えていたのは湧き上がる怒りと別に、もしものことを考えて吐き気に襲われていた。
組長が裏切るはずがないと男は自身に言い聞かせていた。だが、もしもエンダーの話が本当であったら、廃工場からここまでの話が全て合点いく。
山岡組との取引などは実際存在しなかった。
部下の一人がエンジンが掛からないと言ったのも、男を車に乗せない為の嘘だった。
エンダーが男の正体を知って廃工場に現れたのも、全ては自分を葬り去る為の仕掛けだった。
組長が裏切ったとすればこれらの全て噛み合うが、男はそれでも嘘だと自身に言い聞かせた。
「オヤジがそんなことするはずないだろ!? 怪人になった俺を救ってくれたんだぞ!」
男の張り裂けそうな叫びにエンダーは淡々と答えた。
「どう救ったかは知らないが、それは全ては怪人のお前を利用するためにだろ」
冷たく言い放たれた言葉を耳にして、組長が男にさせてきた仕事を思い返す。
恐喝、暴力、窃盗、拉致、死体遺棄、殺人などと、男あらゆる汚れ仕事をこなしてきた。
全ては組、そして、組長のためを思ってのことだった。見事仕事をこなせば、組長は笑みを浮かべて賞賛してくれた。
男は組長の役に立てられれば他のことなど気にならなかった。自分が怪人だということでさえ。けれど、組長はその思いを利用していただけだったという。
エンダーの言う通りならば、男が築き上げてきた信頼や功績など、怪人となって端から存在しないことになる。
「嘘だ……、嘘だ……」
どれだけ言葉にしても心は既にエンダーの言葉に傾きつつある。そして、次の瞬間、男はとどめを刺される。
「そうだ、お前のボスから言付けを預かっていた。組のために怪人として役目を果たして欲しいとのことだそうだ」
それを聞いた瞬間、張り詰めていた糸が音を立てて切れた。
「ふ、ふざけるなあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫びと共に前身は膨れ上がり、男は服が耐えきれずに破れてしまう。
全身が獣ののような毛で覆われ、上半身が大きくなるにつれて、頭が胸部にのめりこまれていく。巨大化が終えた頃には天井にぶつかりそうなぐらいの大きさになっていた。
全身長い毛に覆われ、手先は鋭い爪が備わっていた。胸元に沈んだ顔は毛で隠れてしまっていたが、その隙間から瞳だけは光らせていた。
男の本来姿は見る形も失い、まさに怪人の姿へと成り代わっている。
「死ネェェェ!」
首をなくした男は周囲の物を薙ぎ倒しながら、エンダー目掛けて腕を横に振り払った。
長い腕は壁にまで届き、けたたましい音を立てながら破壊していく。
男が腕を振り切ると壁には四本の爪痕が外壁にまで達し、外の様子が見られるようになっている。
「――ッ?!」
「どうした? おしまいか?」
男はこの一撃で多くの人間を細切れにしてきた。こうすることで、死体を別々の場所に処理するのが楽だった。刃物と何ら変わらない爪は鉄であろうと傷跡を残す事ぐらいは安易に出来た。なのにもかかわらず、エンダーは動じる様子すら無かった。
今回も同じ光景を想像していた男は唖然とする。
エンダーは何事も無かったかのように同じ場所に立っていたのだ。
「く、くそがぁ!」
脳は理解不能な事態に警告を鳴らすが、躍起になっている男はなりふり構わずに今度は爪を突き刺すように繰り出した。
今度こそエンダーの体を切り裂くことが出来ると思われた瞬間、男が突き出した腕が押し潰された。
何が起きたのか理解できなかったが、毛に覆われた腕から血肉が溢れ、否応なしに激痛が走り、男は叫ぶ。
「ギャアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!?」
腕はゴム手袋のように、力なくしてぶら下がる。
男が痛みに悶えている所にエンダーは近づいた。
「どうした、腕が痛むのか?」
腕を潰された男は謎の力と痛みによって闘争心を失い、近づいてくるエンダーから必死に逃れようとするも、狭い民家には逃げ場など無かった
それでも逃げようとする男だったが、それを見越していたように投擲された四本のナイフが潰れた腕ごと壊れた机に突き刺した。
原型を留めない腕なのに痛みの中により鋭い痛みが湧き上がる。男は胸部から鋭い牙を見せながら叫ぶ。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
机に突き刺さったナイフのせいで、逃げるのが一層難しくなった男は目の前にいる者を殺すなどと、甘い考えをした自分を呪った。
これが出会ったら怪人が死ぬとうたわれるヒーローの強さだった。
男に唯一残された選択は慈悲を乞うことだけだった。
「タ、頼ム! 見逃シテ……」
男が膝をつき、許しを請おうとした瞬間だった。
「死ね」
エンダーがそう言い放つと同時に、男の顔がある胸部にナイフが深々と刺さる。
男は力を失って倒れこみ、動かなくなった。
動かなくなった男に興味を失ったエンダーは壊れた窓から外に出ようとすると、近所の住民が騒音で様子を見に来ていた者達が民家の周辺を取り囲んでいた。
野次馬達は民家の有様をみて息を飲む。
外壁まで達した爪痕、散乱した家具に飛び散った血液、息絶えた怪人、そして血を浴びたエンダーの姿。
悲惨な光景に立っている髑髏の仮面をつけたエンダーはまるで死神のようであった。
不安な表情を浮かべていた野次馬達だったが、その光景を見た途端表情が明るくなり、賞賛の声を上げる。
「すげぇ!!」
「あんなデカい怪人も倒すなんて!」
「エンダー! 町を救ってくれてありがとう!」
心の底から皆感謝の言葉をエンダーへと送る。
「……」
エンダーはそれらの賞賛の声に答えることなく、その場を後にしようと足を動かすと、足元に落ちていたテレビのリモコンを踏む。すると、部屋の片隅で争いから難を逃れたテレビの画面が付き、スーツ姿の男性キャスターの姿が映る。
『……った今入った情報です。先ほど18時頃に渋丘区で怪人が出現したとの情報です。近辺にお住まいの方は警察の指示に従い、速やかに避難してください。繰り返します……』
怪人という言葉に引かれたエンダーがニュースを見ていると、曇天からついに雨が降り出した。次第に強くなる雨に傘を持っていない野次馬達は慌ただしくその場を離れる。
遠くからサイレンの音が響き渡る中、情報を得たエンダーは新たな標的を倒すべく雨の中を歩き出した。
誰もいなくなった平屋では、冷たくなった男だけが一人取り残された。
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