第17話 芳香

 そのまじないはみどりも常々やっているものだった。手のひらに3回「人」という漢字を書いてそれを飲み込むというものだ。

 領事であるレオンは人間界、日本のことにも詳しいらしい。

 みどりはごくんとその文字を飲み込んだ。

「よし、これでいけるな」

とレオン。

「はい」

「じゃあ、ケルピーにさらに近寄るぞ」

海王石がそう言って、海流を動かした。


「いいか、さっき教えた呪文だぞ、まだ覚えてるな」

とレオン。

「大丈夫です」

「きっとうまくやれるさ」

と海王石。

「頑張って、みどりちゃん」

とすみれは言った。


 一行はケルピーに近づいた。ケルピーは今なお悶え苦しみ、目をむいている。急いでやらないとまた襲いかかってくるかもしれない。

「よし、やってみろ、みどり」

というレオンの声で、みどりは腰のベルトの杖ホルダーから杖を取り出し、構えた。そして、ケルピーの方を見つめながら、好きなものたちのことを思い浮かべ、歌のような呪文を唱えようとした。しかし・・・


恐い


急にみどりの心の中にこんな感情が生まれた。

それは、目の前にいる悶え苦しむケルピーの姿と、自分が失敗することの両方への恐怖心だった。


みどりの恐怖心に気づいたかのように、ケルピーはこちらに駆け寄ってきた。


防壁シールド!!」

海王石が勢いよく呪文を唱えてケルピーの前に魔法の盾を張った。

ケルピーは勢いよくそれにぶつかり、気絶した。


「頑張れ、みどり」

海王石が、片方の美しい目で、みどりを見て言った。

「はい」


 みどりは覚悟を決めた。

 今自分が恐怖心を抱いたのは、ケルピーの凶暴さより、苦しむ姿に対してだった。それはあまりにひどいことだ。ケルピーにひどすぎる。

 次で決めよう。このケルピーは私が助けるんだ。


 みどりは少し目を閉じた。そして、あの歌を思い浮かべた。小さな頃から好きだった歌を、いつか行きたいと思って眺めた町の景色を、そして、今ここにいるみんなの笑顔を・・・


「〜〜〜〜」


 みどりが歌うような呪文を発した。

すると、その場の空気に、芳しい香りが漂い始めた。


 しばらくの間、誰も何も言わなかった。

 

みどりの使う魔法が、こんなにもいい香りだとは思わなかったからだ。

 みんなそれぞれ、昔あった嬉しかったことや、大好きなものを思い浮かべてしまった。


 魔法は海水にも溶けて、ケルピーの元まで届いたようだ。ケルピーは、ゆっくりと瞬きしてその瞳を開けた。それは大きな黒目がちで、もう怒っていなかった。ケルピーは大人しくなった。ただ、弱っているようだった。


「よし、みどり、このまま近づいて馬具を取り付けるぞ。」

レオンが言った。

 海王石はゆっくりとケルピーの手の届くところまでまたたびボールを近づけていった。

「みどり、お前が付けろ」

とレオンがみどりの背中を押した。

「でも、馬具の付け方、知らないです」

みどりは言った。

「仕方ないな、一緒に来い、俺が付けるが、お前も来た方がいいだろう」


 レオンは、付け方を知っているのだ。みどりはすごいなと感心した。そして、自分にも人間界で馬具の使い方を学ぶ機会があったら良かったのにと思った。


 レオンはゆっくり、またたびボールの枝の隙間から海中へ手を突っ込み、ケルピーの方へ手を伸ばした。みどりもレオンとケルピーのそばへ近寄り、見守っていた。ケルピーは、恐れたり怒ったりする様子は見られなかった。

 レオンは海中の中で手を動かし、確実に古い馬具を外し自分たちの馬具をケルピーに装着させていった。その手つきは慣れたものだった。みどりを含め女3人は感心しながら、しかし緊張もしながらその様子を見守っていた。


「これでよし」

そう言ってレオンはケルピーの頭を撫でた。

「魔界生物保護施設に連絡して来てもらおう。ただ、彼らが来るまでの間、しばらくここに置いていく必要があるな・・・。俺たちも急いでいるし」

レオンはそう言って、海王石の方をちらりと見た。

「海王石、ここに水槽を用意できるか?」

「お安い御用よ」

 海王石は、ケルピーの周りに防壁シールドで丸い水槽を作った。水槽の水だけ塩分を取り除き、ケルピーにちょうどいい水にしてあげるというすごい魔法をして見せた。


「これで大丈夫」

海王石が手をパンパンと叩いて言った。


「すごいです」

みどりがはあっと息をついてそう言った。


「すごいのは、みどりだよ」

 海王石がつぶやくようにそう言った。

「え?」


「うん、みどりちゃん、すごかった」

 すみれは頷きながら、みどりの方を見て言った。

みどりは

「何言ってるの、私なんて全然ダメ・・・せっかくみんなで練習までしたのに、私、一回しくじった」

とすみれに言った。

海王石が

「いや、よくやったよ、みどりは。レオンもそう思うよなあ」

とレオンの方を見て言った。

 レオンはただ、みどりの方を見ないで

「ああ」

と言った。


「なんだよ、レオン。素っ気ないな。自分が教えた魔法をみどりが成功させて本当はすごく嬉しかったんだろ?」

と海王石が言った。

「まあな・・ちょっと・・・感動した」

 レオンは少しうつむき加減になって言った。

 そしてレオンは突然、

「あんな魔法、誰にでもできるもんじゃない、すげーよ、アハハ」

と言ってみどりの頭をくしゃくしゃにして撫でた。

 みどりはなんと言っていいかわからず、ただこの感情を外に漏らすまいとして必死で心の中で踏ん張っていた。



「作戦を考え、魔法を教え、馬具を取り付けたレオンさんがすごいんですよ。それから、私たちのことを守りながら移動して、水槽まで作った海王石さんも。それから、このボール内の酸素濃度を濃くしてくれたすみれちゃんも。結局、みんながすごいです」

「言われなくてもわかってる。俺すごかった。」

「私もだ」

「みどりちゃんがいうなら、わたしも」

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