第8話 ヤスコという人
みどりが不思議な列車に乗っている間に、水溜りの地帯は遠ざかり、外の景色はどんどん流れていった。その景色もおかしなものだった。ありえないところを通過していく。りんご畑、草原、森林の奥、砂漠………
ある地点で列車は止まった。そこは海の上に見えた。でもちゃんと水の上に駅がある。田舎の秘境駅並みに小さいけれど。駅のホームには一人の女の人が立っていた。みどりはその人をこっそり車窓から観察した。青地に白の水玉のワンピース、腰には太いベルトをしていて、大きくて少し古そうな旅行鞄を手にしている。髪は黒髪で、顔の横に片方に太い三つ編みにしていた。みどりより年上のお姉さん、中学生か高校生くらいの年齢に見えた。みどりが見ていると、その人は列車に乗り込んできた。その人はみどりが乗っているのを見て、少し珍しそうに驚いたような顔をして、その後微笑んだ。みどりの席に近寄り、向かいに座ってもいいかと聞いてきた。おしとやかな感じがするがはっきりとした声だった。みどりはどうぞと了承した。
女の人は自己紹介をして、自分はヤスコというのだといった。みどりの名前を聞くと、どこへいくのかと訪ねてきた。
「今から魔界に行くらしいです。」
「そう、で、どこの魔界?」
みどりは言葉を失った。
魔界に種類があるのか?自分の住んでいる世界以外に魔界があるとわかっただけで驚きなのに、この上さらに世界があるというのか?
「……ひょっとして、この列車初めてだったりだったりする?」
ヤスコさんは何かを見透かしたように聞いた。その声を聞いて、みどりは、自分の中の緊張の糸が一気にほぐれた気がした。
「はい、そうです。」
「そっか。それじゃ魔界のことがわからなくても仕方がないわね。日本の教育者は何してるのかしら。この列車はね、異世界間を繋ぐ乗り物なの。今、列車が走っている空間は、境界とかボーダーと呼ばれているわ。世界のはざまといったところね。
私たちが生まれた人間界は、宇宙の中のありとあらゆる世界の中でもかなり閉鎖されたところなのよ。よその世界のものたちは、ありとあらゆる他の生き物と共存して生きてるし、異世界どうしでの交流も盛んにしているわ。それなのに人間界に住む人間たちは、自分達の住む人間界が宇宙唯一で、自分達人間が一番偉いと思っている。それを皮肉って、そこの世界を人間界と呼んでいるんだけど。本当は他の世界にも人間はいるんだけどね。
魔界は人間界の外にある世界の中で、複数存在しているの。あなた、知ってた?」
みどりは唖然としていた。意味はなんとかわかるけど。目の前でこういうことを現実として釈然と喋る人がいることが衝撃的だった。
「私は人間界と異界をしょっちゅう行き来しているの。だから、領事館の人たちともけっこう仲がいいのよ。あなた、どこの領事館から来たの?」
領事館?ひょっとして、あのさっきの変な建物のことを言っているのだろうか。
「私、夕顔町の建物に入ったんです。すると、なんか変なことになって、とにかく、ここに来ることになったんです。」
みどりは話しながら自分の言葉足らずさに気づいた。なんて説明だろう。何も語れていないではないか。でも本当に「変なこと」になったのだ。
それでもヤスコさんは何か納得したみたいだった。ぱっと顔を輝かせて、
「夕顔町!…ってことは、ジェム王国に行くのね!あなた、レオンとドゼに送り出されたんでしょ!あの二人、長いことあそこに缶詰になって待ち続けていたから………。」
と言った。
ジェム王国?それが今から行く魔界の国の名前なのか?なんかジャムみたいだ。それより……
「二人が缶詰になって待ってたって、どういうことですか?」
みどりは聞いた。ヤスコさんは少しもったいぶった顔をして、
「あなたは、あの二人にとって選ばれし勇者であり、束縛から開放してくれた救世主なの。」
と語り始めた。
「あの二人は、人間界と異界をつなぐ手続きのできる数少ない人物なの。特にドゼは逸材ね。時空を操る仕事なんて誰にでもできるもんじゃないわ。
二人はジェムの王宮から領事の仕事を任されて生計を成り立たせていた。それと同時に新しい戦力を集めて来るように言われていたの。それも随分前から。でもあの二人、あんまり真面目じゃないから、よく探しもしないで、人間界に戦えるようなやつはいないって報告したわ。……実際いなかったでしょうけど。だってその間一度も、領事館に気づいた人すらいなかったのよ?
二人は魔力のかけらもない人間達をむやみに犠牲にしたくなくて、長い間王宮に適当な報告をし続けたわ。
でもそうしているうちにとうとう魔界でも戦わなければいけない局面が間近に迫ってきたわ。あなたならもう知っているでしょう?
あの二人は本気で戦力を探して来るように強いられた。『逸材を見つけて来るまで魔界に戻って来るな、人間界に絶対にいるはずだから』とジェムの女王は仰せだった。状況も深刻だったから彼らも本気で探し始めた。日本中の空を文字通り飛び回って探したんじゃないかしら。
それでもなかなか見つからなかったのに、あなたはあの領事館にやってきた。魔力があるものにしか入れないあの場所に。あなたが来たおかげで、二人はやっと魔界に帰って来られる。そういう意味であなたはすごいことをしたのよ。」
ヤスコさんは終始興奮しながらしゃべり、最後にはみどりを尊敬の念でもこもったかのような目で見つめた。
みどりはまごついた。自分はまだ何もしていないのに。あの建物のドアを開けただけでそんなに意味のあることだったとは。あれだけで自分に特別な力があると選定されてしまうだなんて迷惑な話だ。これからだって責任重大じゃないか。
「そんな理由で魔界に行かなくちゃならないなんて………、何かの間違いじゃないんですか?私、不安です。家にも帰らなくちゃならないし………」
ここまで言った時、みどりはハッとした。そうだ、なんで今まで家のことを考えなかったんだろう。あっちはもう夕飯時だ。お父さんとお母さんが心配してる……。
「あの二人に限って間違いはないわ。家に帰るときはドゼが時間を戻してくれるし。あっちでは1分も経っていないはずよ。」
みどりはそれを聞いて頭から血の気が引いた。
なんだそれ。めちゃくちゃな話じゃないか。そもそも自分がこっちで生きた時間はどうなるんだ?体に流れた時間は?負荷は?自分だけあっちの世界でみんなより老けるということなのか?
みどりはぞっとしてきた。浦島太郎よりなお悪い。それに、ドゼがやっていることは、人間のやっていい領域を超えている……。だって、ドゼが時空を操ることができるなら、やろうと思えばタイムスリップだってできるはずだ……。
みどりの頭の中はもう限界だった。とりあえず、今差し迫っていること、現実らしい、まともそうな話をしようと思った。
「そもそもいったい誰と戦わなきゃならないんですか?」
「知らないの?あの二人、説明もしていないのね。まあ、あの二人らしいけれど。できれば教えてあげたいけど、私が知ってることもあまり確かじゃない。私に説明できることは、今のジェムには悪い呪いが拡散しているということ、その呪いを利用して貴族の公爵が力をつけているということよ。そいつの名前が、テンガセキって言うんだけど……」
「テンガセキ?」
みどりは思わず口を挟んだ。変な名前だ。
ヤスコさんはみどりの怪訝そうな顔を見て、ふいた。
「天河石、またの名をアマゾナイト。おかしな名前よね、でも、笑ってはいられないわ。あなたもそのうち新しい名前をつけられるわよ。あなたの行く魔界では石や鉱物の名前を人名に使うのが主流だから。それでジェム(宝石)王国と呼ばれているのよ。『レオン』と『ドゼ』も領事としての名にすぎないの。ジェムでは石の名前で通っているわ。」
「…へえ、変なの。私、名前変えられるの嫌だな。」
みどりは自分が石の名前で呼ばれるとわかって何か気持ちの悪い感じがした。漫画の世界にはよくルビーとかサファイアという名前の人が出て来るし、かっこいい名前だと思っていたけれど、いざ実際に自分がそういうふうに呼ばれるとすると、恥ずかしすぎる。
「仲のいい人には本名で呼んでもらうように頼めば大丈夫よ。自分の名前を失わないように気を付けなさい。失えば、人格も失うようなものだから。」
何か含みのあるヤスコさんの言い方に、みどりは気がついた。
「ヤスコさんは、名前を失ったことがあるんですか?」
ヤスコさんは何気なさそうに答えた。
「あるといえば、あるわ。あだ名だけどね。もうあのあだ名で私を呼ぶ人は身近にいないわ。なんだか自分の中からそのあだ名で呼ばれていた頃の性格がすっぽり抜けちゃったみたい。まあ、本名を失っていないだけマシだけどね。こういうこともあるから、やっぱり名前なんてむやみに増やすもんじゃないわ。」
少し失礼かもしれないと思いながら、みどりは聞いて見た。
「……ヤスコさんは、何個名前を持っているのですか?ジェムでの名前はあるんですか?」
ヤスコさんは颯爽と答えた。
「言わないわ。言う必要が無いし、私は今ジェムへ行かないもの。……別の異界へ行くの。私もジェムで戦えたらいいんだけど、あいにく私みたいな凡人の力では戦力とはいえないみたい。あっちでは魔力がものを言うから。」
言いながら、ヤスコさんは下の方へ目をそらし、恥じ入ったような顔をした。本当に残念そうに、自分の力の無さを嘆いているようだった。
「でも、別方向から協力するわ。」
そう言って、ヤスコさんは目を輝かせ、にっと笑った。
みどりはそんなヤスコさんを見て、静かに胸打たれていた。
——こんな人が、この世にいるのだ。ヤスコさんは心から、自分の力を外の世界に捧げたいと思っている。自分に力がないとわかってもなお別の手段で世に影響を与えようとしている。……それに、レオンとドゼだって、命令とはいえ、魔界のために全力で自分を探していたのだ。
みどりはさっき、レオンとドゼの前で、自分なんかが戦えるはずはない、行きたくないと駄々をこねた。そして、レオンに卑怯な自分の性格を見透かされて、それを認めたくなくて自分を正当化するために魔界へ行くと決めた。それもあの惨状を見た後で。
どうしてみんなこんなに良い人なんだ。それに比べて自分は一体なんだろうか?彼らに比べて、全然いいところがない。
ヤスコさんは、おもむろに鞄を開いて中から何かを取り出し始めた。
「食べる?」
手にとって見せたのは、生のリンゴだった。
「今ここで、ですか?」
「そうよ。旅に出るときはなぜか、おばあちゃんが持たせてくれるの。」
そう言ってヤスコさんはナイフを取り出して、下にいらないチラシらしきものを敷いてリンゴを剥き始めた。なんでも入っているなあ、このカバン。これら全て常備しているのかなぁ。
みどりはもらったリンゴをかじりながら、残りのリンゴを剥き続けるヤスコさんを見ていた。
「りんご、美味しい?」
ヤスコさんが聞いてきた。
「はい、すごく」
「よかった」
ヤスコさんは笑った。
みどりはこの時、こう思っていた。自分に力があるのかどうかはわからないが、本気でやってみよう。もしかしたら自分に人を助けられるチャンスがあるかもしれないのだったら、それをドブに捨てるような真似はしたくない。何より、ヤスコさんのような人に恥ずかしく無いように生きたい、と。
みどりは決意を新たにしていた。
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