第6話「外堀から埋められる恐怖」

 瀬名家は少し……、嫌かなり変わった家庭環境だった。

 両親自体が放任主義で育った為、基本子供達の学業には一切関与しない主義だ。

 それ自体はさして何の変哲も無い事ではあったが、その両親がまぁとんでも無い人達だった。


 どう説明すれば良いのか……。兎に角容姿が到底40を越えた夫婦には見えなかった。

 高校生の息子が居るようには見えない処か、夫婦だと云われても俄には信じられない容姿をしていた。


 容姿……、と云うか全ての元凶は父の服装にあった。

 父本人はジーンズにTシャツを着る程度のラフな格好を好んでいるのだが。智夏達の母がそれを許してはくれないのだ。

 到底40を越えた男に着せるとは思えないような服を選んで着させていた。


 その服装を簡潔に述べるなら可愛い系とでも云えば良いのか……。

 正直親子並んで歩きたくないと思ってしまう程奇抜なファッションセンスをしていた。


 それが似合わないならば智夏も秋兜もやめろと注意出来るのだが。如何せん似合ってしまうのだ……。

 身長が低いと云う事もある。今年43才を向かえる父の身長は151センチだ。智夏と1センチしか違わない。

 おまけに華奢で童顔、夜街を歩けば未だに職務質問を掛けられてしまう程だった。

 その血は色濃く智夏に継がれている訳で。容姿もそっくり、二人並んで歩くと兄弟と間違われてしまう事も屡々だった。


 片や母はと云えば身長が180を優に越える長身。そこは秋兜に遺伝している訳だが。

 その母が兎に角酷い……。

 父を必要以上に甘やかしてしまうのだ。父の云う事には基本的に首を縦にしか振らない。


 まぁ、もし首を横にでも振ろうものなら父が叫び散らして癇癪を起こすからなのだが……。

 そんな父の横柄さを差し引いても母は父に甘すぎた。


 甘すぎた結果、休日ともなれば子供達をほっぽって二人だけで出掛けてしまう。

 父の行きたい場所に行って、父の食べたい物を食べて、夫婦水入らずを決め込んでしまう。


 何か祝い事があれば家族での外出もする事はあったが、それも希な話。

 結婚20年を向かえようとしている現在ですら未だ付き合いたての恋人同士のように仲睦まじかった。

 仲睦まじ過ぎて目の毒、とは秋兜の弁である。


 そんな勝手気儘極まりない両親と今日は久し振りに外食をする約束をしている。

 外ではあの人達と関わりたくない――。そう何時も二人の容姿や行動に不満を持ち、距離を置こうとしている秋兜ですら参加してくれる。

 何と言っても智夏の入学祝いなのだ。日頃の鬱積した思いは忘れ、今日だけは家族水入らずで過ごせる貴重な日だった。


 だから智夏は胸を踊らせていた。久し振りに家族で外食出来るのだ。そんなに嬉しい事は無かった。

 街に来て若干の揉め事を起こしてしまったが、そんな事気にはしていられない。


 不良に絡まれ、総治朗や三奈輪と会話をしてから30分後。智夏は麻九良の中心街にある、この街でも有名な美味しいスイーツを食べさせてくれる喫茶店の前に辿り着いていた。

 彼が必死にお願いしたのだ、待ち合わせの場所は此処が良いと。

 この喫茶店でスイーツを食べた後に食事に出掛けようと必死に懇願してこの店を待ち合わせの場所にして貰った。


 趣味らしい趣味も無い智夏ではあったが、スイーツなだけは目が無かった。

 本来なら休日にスイーツ巡りをしたかったが、一緒に行ってくれる友達も居ない。一人で行こうにも暴君と云う悪評が一人歩きして街を歩くのも憚られる。

 だからこそ、今日こそがスイーツを食べられる千載一遇の日だったのだ。

 この店に来る事が待ち遠しくて今日は殆ど眠れなかった程だった。


 喫茶店の前まで来ると智夏のテンションは最高潮に達した。

 雑誌で見るだけで、今まで来る事が出来なかったこの店に漸く来られた事に胸を高鳴らせながら。

 智夏は瞳を輝かせ店内へと足を踏み入れた。



――カランカラン――



 喫茶店の戸を開けると、そんなTHE喫茶店と思える音が鳴り。「いらっしゃいませ」と店員が出迎えてくれた。



「何名様ですか?」


「あ、あの……、もう連れの人間が居る筈なんですけど……」



 智夏が入店すると同時に店員は彼に歩み寄り、そんなお決まりな口上を述べる。

 それに智夏は緊張しながら歯切れ悪く答えていると。



「あぁ、智夏漸く来た! こっちこっち!」



 そんな智夏を逸早く発見した人物がそう叫び、智夏に呼び掛けた。

 その声に反応し、智夏が視線を移すとそこには遠目からでも分かる大柄の女性が智夏に向かって手を振っていた。

 店の一番奥、壁際の席に座っているのに他の客より頭一つ分は優に越え、一見して際立っているのが分かるその高身長の女性こそ彼の母、瀬名冬華せなとうかだった。


 その声に促されるまま、智夏は店員にペコリと一礼して母の元へと駆け寄った。

 黒く長い髪を後ろで束ねるポニーテール。薄手の黒色のジャケットを羽織り、その下はTシャツを着込んでいた。

 ボトムスはと云えばジーンズを履き、靴はスニーカー。至ってカジュアルな格好だ。実に母らしい。



「ハグハグハグッ!」



 そして、その隣を見ればピンク色のヒラヒラとしたレースやフリルが施された一見するとドレスのような服を着ている小さな人物が居る。

 ゴスロリ……、甘ロリ……?

 そう言った服装に疎い智夏であった為、それが何と呼ばれる服なのかは分からなかったが。

 そんな目立つ事この上ない服を着た小柄な人物が幾つものケーキを一心不乱に頬張っているのが視界に入った。


 これが父だ……、瀬名小春せなこはる、容姿と名前から到底中年には見えない為少女と未だに勘違いされる事が多いが。

 おっさんなのだ、歴とした今年43を向かえる初老なのだ……。

 そんな初老のおっさん、しかも自分と瓜二つの人間が女子の、しかも特殊過ぎると言える服を当然のように着こなしているのだ。

 息子であり、全く同じ顔の智夏からすれば複雑極まり無かった。



「小春ちゃん……、今日も凄い格好だね……」


「ふぁー、ふぃなす! いふまへまっへほほないはらはきひたへてうよ!」



 そんな父小春の姿を見て若干の嫌味を込めながら智夏がそう呟くと、智夏に気付いた小春は口の中一杯にケーキを詰め込んだまま、興奮した様子でそう告げた。

 全く何を言っているのか分からない上に、口の回りにベッタリ生クリームを付けている。子供かと突っ込みたくなるようなそんな父の姿に智夏は呆れにも似た溜め息を溢したが。



「あぁー、小春ちゃんお口の回りクリームでベトベトじゃない。今キレイにしてあげるからね」



 そんな情けない中年の姿に母冬華は優しい笑みを浮かべながらそう言い、鞄からハンカチを取り出すと小春の口回りを拭ってやった。



「んん~……、ありがとう冬華ちゃん」



 口を拭って貰った小春は満面の笑みを浮かべながら冬華に感謝し。彼女を仰ぎ見た。

 そして、それから二人はうっとりとした面持ちをしながら暫し見つめ合った。


 完全に二人だけの世界に入ったな……。

 何時もこうだ、周りに人が居てもお構い無しだ。

 こうなったら何を言っても無駄だ。相手をしないにこした事はない。


 何時もと同じ光景を見せ付けられて、呆れながら無視を決め込み座席に座ろうとした智夏だったが。

 ふと見ると、隣同士に座る両親の向かい側、智夏が座ろうとした場所に飲み掛けのコーヒーと、ケーキか何かが乗っていたであろう空の皿が置かれていた。



「あれ? もうお兄ちゃん来てるの?」



 所用を済ませてから来ると言っていた。少しいざこざに巻き込まれたとは云え、正か自分よりも早く着いていたなどとは思ってもいなかった為智夏は驚きながら両親に問い掛けた。



「秋兜……? あー、それ秋兜のじゃないわよ。さっき偶然友達に会ってね、折角だから一緒にお茶しようって誘ったのよ」



 そんな智夏の問い掛けに冬華はそう答えた訳だが、冬華のその言葉に智夏は驚愕とも云える感情を抱いた。

 あの二人きりになると周りが一切見えなくなるバカ夫婦が。

 子供達よりも二人でデートする事を優先するような薄情な両親が。

 その大切な二人きりの時間に他者を介在させるなど信じられ無かった。



「嘘……、デート中に他の人誘ったの……?」



 思わず千夏はそう漏らし言葉を失った。

 互いさえ居れば他は誰も要らない。そう言って憚らないような両親だ。親しい友人の類いには正直今まで会った事が無い。

 二人きりの時間を邪魔する輩は例え子と云えど敵としか見てない酷い人間なのである。


 そんな二人が当然のように迎え入れた相手……。

 どんな人間なのか、どんな関係なのか智夏には全く想像もつかなかった。



「それね、ミユリちゃんの分だよ。今ねお手洗い行ってるの。ミユリちゃんはボクの親友だから特別に招待したんだよ。何時か智夏と秋兜にも紹介したかったから丁度良いと思って誘ったんだよ」



 そして、困惑する智夏に対し小春は更に驚愕の事実を告げる。

 小春の親友……、しかも名前を聞くに女の人なのが分かった。


 良く母が許したな……。

 例え子供であっても異性となれば目くじらを立てて母は父から異性を遠ざけようとする。

 智夏達の幼馴染みの明子は別として、今まで女性が父の周りに近寄る事を頑に拒絶してきた。


 それを親友と呼ぶ事を許し、一緒にお茶をする事を許容するだなどと俄には信じられない事だった。



「そうねー、小春ちゃんとミユリちゃんは親友だものね。知り合ってまだ二年くらいだけど、ホント二人は仲が良いのよ。仲が良いって云うか、思考回路がそっくりって云うか……。端から見てると兄妹にしか見えないくらい馬が合う子なのよ」



 そんな母は、小春の言葉を聞くと染々とその人物とおっととの関係を述べた。

 小春と思考回路がそっくり……、それはそうとうイッてる人間と云う事だ。

 こんな人間がもう一人居る……。息子ながら考えただけでゾッとしてしまった。


 と……、そこまで考えて智夏は違和感に気付いた。

 ミユリ……、はて、その名は何処かで聞いたような気がする。



「遅くなってごめーん小春ちゃん、冬華さん。流石に話題のスイーツ喫茶だけあるわね、お手洗いが混んでて中々出て来れなかったわ」



 小春と冬華が口にした名前に聞き覚えがあり、それが誰だったか智夏が思考を巡らせて必死に考えていると。

 件の人物が智夏の背後から現れ、両親にそう謝罪の言葉を述べた。



「あれ、息子さんもう来てたんだ?」



 名前だけじゃない、背後からしたその声に智夏は凄まじい既視感を覚えた。

 この数日嫌と云う程彼の平穏な暮らしを阻んできたあいつと全く同じ声にしか聞こえなかった。


 嘘でしょ?

 そんな正か……。

 これが運命なのだとしたら劇的な皮肉でしか無いと息を飲み。

 あいつな訳が無い、あいつだけはやめてくれ。



 そう思いながら恐る恐る智夏が背後に視線を向けると。

 そこには、大柄な母と遜色無い程高身長の。平たく言ってしまえば魔王冴岸美羽莉が立っていた。


 智夏が背後を振り返った事で必然のように合う二人の視線。智夏は硬直した、神は何と残酷な運命を自分に与えたのかと絶望し。激しい目眩を起こさせた。

 言葉が出ない程の驚愕を覚え倒れてしまいそうだった。



「智夏くん……」



 暫し呆けたように見つめ合った二人。智夏の場合は余りにも驚きすぎて、絶望し過ぎて言葉を失い硬直していた訳だったが。

 美羽莉は違った。智夏と同様に驚愕はしていたが、彼女の場合はこの奇跡とも云える再開に運命の糸を感じてしまった。


 そして、驚愕した面持ちのまま美羽莉は智夏の名前を口にした。

 その瞬間智夏の背筋には悪寒が走った。父の友人がこいつだった事に激しい怒りと失望を感じた。



「これはきっと運命よ智夏くん! 正か貴方が小春ちゃんの息子さんだなんて思いもよらなかったわ! こうしちゃいられない、神様が与えてくれたこんな絶好の機会を無駄にしちゃダメだわ!」



 そんな残酷な運命に打ちのめされた智夏とは打って変わり。この出会いに迷惑この上ない運命を感じた変態は瞳を輝かせたかと思えば。

 そう云うや否や、智夏の手を掴み突然店外へと彼を連れ出そうとした。


 一瞬、余りにも唐突過ぎた変態との再開に呆然とし、為すがままになりそうになってしまったが。

 手前勝手な妄想を膨らませ、強引に何処かへ連れて行こうとする変態に先日と同じ怒りを抱き抵抗した。



「は、離して下さい! 貴方は何で何処かへ連れて行こうとするんですか! 一体僕を何処へ連れて行くつもりなんですか!」


「何処って、ラブホに決まってるじゃない」



 抵抗し、絶叫した智夏の言葉に返された美羽莉の言葉は最低極まり無かった。

 いや、そうだとは思ったけれども……。

 それを恥ずかしげも無くこんな大勢の前で平然と言ってのける辺り、美羽莉をクソ外道だと思えた。


 こんな奴の手、先日と同じように振りほどく事など雑作も無かったが。

 今日は幸いな事に両親が居てくらた。

 美羽莉の暴挙を見せ付けられた今、こんな奴を親友だ何て思っていた事をさぞ後悔しているだろう。


 可愛い息子の為だ、智夏が心の底から嫌がっていると知れば怒りを抱き助けてくれるだろう。

 こんな奴とは即座に縁を切ってくれるだろう。



「お、お父さんお母さん助けてッ!」



 そう信じ、そう願い智夏は両親に助けを求めた。



「ふ……、若いって良いわね。小春ちゃんとの出会いを思い出すわ……」


「恋する乙女は止められないからね。智夏、頑張って来なよ!」



 その結果彼は両親から見捨てられてしまった……。


 何故助けてくれない!

 あんたらの出会いに何があった!

 異常な夫婦だとは思ってはいたが、そこまで異常者だったのかあんた達は!


 最大の味方だと思っていた両親の裏切り。絶望に次ぐ絶望、智夏の視界は真っ暗な闇に覆われてしまった。

 両親が当てにならない今自分の身は自分で守らなければならない。

 だと云うのに四肢に全く力が入らなかった。それほど実の両親の裏切りは智夏の精神に甚大なダメージを与えた。



「漸く……、漸く夢にまで見た智夏くんと水入らずで二人きりになれるのね……。今日は朝まで寝かせないわ、一生忘れられない一日にしてあげる!」



 そんな大ダメージに打ちのめされる智夏が抵抗しない事を良い事に、変態腐れ外道は勝手な妄想を膨らませ、鼻息荒く智夏にそう告げる。


 あぁ……、このままだと僕の貞操はこんな腐れ外道に奪われてしまうのか……。

 両親にも、神にすらも見捨てられてしまった今、それも仕方ないのかも知れない……。

 幾ら抗ってもこいつの呪縛から逃れられないのなら、もう逸そ堕ちる所まで堕ちてしまおう……。


 そう諦念を抱き、智夏は自暴自棄になってしまった。

 無理もない、この数日は奇跡的に他者の助力によってこの変態を撃退する事が出来たが。今は頼りになるはずの両親が全くの戦力外なのだ。

 何度も何度も抵抗しても、こいつは執拗に智夏に付きまとい彼の生活をメチャクチャにしてしまう。


 ならば逸そ抗う事をやめた方が良いと思えた。

 抗っても事態は好転せず、どんどんド坪にハマってしまうのだが。

 それならばこいつの望み通りに、為すがままにされる事が一番の解決策だと思えてしまう。


 全てに見捨てられたような気がした。

 だから、これ以上信じる何かに裏切られてしまう前に。この残酷な運命に終止符を打とうと智夏は考えたのだが。

 ただ一点失念している事があった。



「さぁ、私達の輝かしい未来の扉が今開かれるわよ!」



 そう中々に上手い形容を交えながら喫茶店の扉を開き、卑猥な世界へ美羽莉が旅立とうと店外へ躍り出ると。

 喫茶店の扉の前には見計らったかのように、たった今家族との待ち合わせの場所に訪れた秋兜が立っていた。


 それまで淫靡な妄想で紅潮していた美羽莉の表情は秋兜の姿を視界に収めるや否や、驚愕の面持ちに変貌した。

 そんな美羽莉と同様に、正か家族との待ち合わせの場所にこの変態が居るとは思ってもいなかった秋兜も又驚きの表情を浮かべる。


 そんな突然現れた秋兜の姿を見ると、それまで自分の人生に悲観し瞳を濁らせていた智夏の目に光が戻った。

 正に光明が差したように感じた。

 そう、まだ一人味方が残っていた。実の兄の秋兜だ。



「お兄ちゃん……」



 何時も何時も智夏が困った時は助けてくれる本当に頼りになる兄だ。

 両親も神も敵に回ったとしても、兄だけは智夏の味方で居てくれる。智夏を助けてくれる。

 今の智夏の目には秋兜の姿は救世主のように写り、涙を浮かべながら兄を呼んだ。


 美羽莉の必要異常に大柄な体格のせいで、小柄な智夏が初めは見えていなかった秋兜だったが。

 自分を呼ぶ声が美羽莉の脇から聞こえ、更に驚いたように声のした方に視線を移すと。そこには、美羽莉にがっしりと腕を掴まれ、涙目で自分を見上げる智夏の姿があった。


 色々と腑に落ちない事はあった。先述のように何故こいつが居るのか、何故こいつは智夏の腕を掴み連れているのか。

 両親はこんな危険な変態を放置して一体何をやっているのか。

 聞きたい事も、言いたい事も山のようにあったが。最低限の話の流れを智夏の表情から読み取った秋兜は即座に懐に手を差し込むと、上着の内側に携帯していたスリッパを取り出し。



――スパーン!――



 と、力一杯その手に持ったスリッパで驚愕でフリーズした美羽莉の頭を叩いた。

 たかがスリッパ、されどスリッパ。良くお笑い等で小道具として使用されているが、一定以上の力を込めれば十分な凶器となるのだ。

 その余りの衝撃に、痛みに悶絶した美羽莉は智夏を掴んでいた手を即座に離し頭を抱えその場に踞った。


 それと同時に必然的に変態の手から解放された智夏。

 解放されたと同時に智夏は秋兜の背後に避難した。



「大丈夫か智夏? 父さんと母さんは何してんだよ?」


「うん、僕は大丈夫。あの二人は全く助けてくれなかった、驚くくらい傍観されて見損なったよ!」



 スリッパによる激痛に美羽莉が悶絶する中、自分の後ろに逃げ込んで来た智夏に秋兜はその身を案じながら率直な疑問を投げ掛けた。

 それに対する返答を聞いて秋兜は察した。あの二人なら何の不思議もない。


 実の親ながら頭の線が数本ぶっ飛んでいるとしか思えない人達だ。

 お茶をすすりながら、息子の窮地を微笑ましい光景かのように見ていたのだろう。

 仔細を聞かずともその光景が浮かんでしまった。



「どうして……、どうして何時も……」



 そんな薄情な両親の事より今はこいつだ。

 今まで散々忠告して、幾度も説教して来たと云うのに行いを改めない処かどんどん酷くなっている。

 これ以上放置すれば智夏に何をするか分からない。下手をすれば本当に法に触れる事をするかも知れない。

 だからこそ、今日こそは智夏を守る為に行いを改めさせなければならない。



「折角……、折角智夏くんと結ばれる絶好のチャンスだったのに……、又あんたがでしゃばって邪魔をする!」



 改めさせなければならなかったのだが、美羽莉の様子があからさまに何時もと違った。

 何時もなら頭を叩かれた怒りを口にし秋兜に食って掛かって来たのだが、そんな冗談めかした雰囲気は感じられなかった。

 それどころか、不気味にボソボソと呟きながらゆっくりと立ち上がり。端から見ても分かる程どす黒いオーラを纏っていた。



「あんたさえ居なきゃ私達は結ばれるのよ! あんたさえ居なきゃ!」



 不味い、キレやがった――。

 美羽莉の態度の急変から頭の線が飛んでしまった事を秋兜は察した。


 それも無理ないだろう。

 想い焦がれて、想い焦がれて、様々な障害に智夏との仲を阻まれてきたのだ。

 両親の許しを得、漸く結ばれると思った矢先又しても秋兜が立ちはだかり彼女の恋の成就を阻んだのだ。

 理性を失う程怒り狂っても仕方が無かった。


 ただ一点、その肝心要の想い人である智夏が美羽莉をそもそも拒絶しているのが哀れでしかなかった……。


 そんな怒りで理性を失った美羽莉は、まるで親の仇とでも対峙しているかのような激しい憎悪を表出させ。

 そう叫ぶや否や、秋兜に向かって襲い掛かって来た。


 腕力で秋兜が美羽莉に勝てる訳が無い。身長こそ美羽莉よりも高いが、秋兜は事喧嘩になるとポンコツだ。本当に智夏の兄なのかと問い掛けたくなるくらい弱かった。

 今までは先輩であり、入学当初から世話をしてきたと云う恩から秋兜の方が立場が上だったが。完全に理性を失った今そんな立場など何の意味も持ちはしない。


 このバカ冷静になれ!

 と諭したかったが、美羽莉は恐ろしい速度で秋兜に駆け寄り。彼に掴み掛かろうとした。


 その刹那、フッと秋兜の前に人影が割って入った。

 誰だ――、と秋兜が自分よりも圧倒的に小さかったその人物に視線を落とせば。そこには今まで見た事が無い程怒りに顔を歪ませた智夏が立っていた。



「お兄ちゃんに酷い事するな変態!」



 美羽莉が眼前に迫る中、腹の底から沸き上がって来る怒りをぶちまけ。智夏は自分の持てる全ての力を込め。

 ドンッ――、と美羽莉を思いっきり突き飛ばした。


 流石に小柄とは云え暴君と呼ばれる少年。余りのその押し出しの強さに美羽莉もバランスを保つ事も堪える事も出来ず。

 ドサッ――、と3メートル程後方まで飛ばされた後尻餅をついた。


 智夏に突き飛ばされた事によって混乱はしていたが、怒りが鎮まり平静を取り戻し掛けていた美羽莉は智夏を仰ぎ見た。

 何故突き飛ばされたのか彼女には分からなかった、その力の強さに驚いたと云う事もあった。



「僕だけじゃ飽きたらず、僕の大切な人達を傷つけるな……! お前何て……、お前何て大嫌いだッッ!」



 そんな驚愕に言葉を失っている美羽莉に智夏は止めの言葉を放った。

 幾ら智夏に抵抗されても恥ずかしがってると曲解し、彼の嫌悪を都合の良いようにねじ曲げて来た美羽莉だったが。流石に面と向かって大嫌いと言われてしまっては目を背けずにはいられなかった。


 体に激しい電流が走ったかのような痛みを覚えた。

 胸に剣でも刺されたかのような激痛を覚えた。

 突然の智夏の拒絶の言葉に、数秒美羽莉はフリーズした後。大粒の涙をその瞳から溢れさせた。


 その瞬間智夏と秋兜はビクッと体を震わせ驚いた。

 犯罪紛いの事を行ってまで結ばれようとしていた相手に嫌いだと言われた、ショックなのは分かる。

 たが、その形からそんな乙女らしいリアクションをされるとは思わず驚愕してしまった。


 確かに美羽莉は普通の女子より体格が良い、腕力だって並外れている。

 だが、頑強に見える肉体の奥に潜む心の中はまだ少女なのだ。

 好きな人に大嫌い何て言われたら泣き出して当たり前だった。



「ふえーーん!」



 予想すらしていなかった美羽莉の反応にどうすれば良いのか、どう宥めれば良いのか分からず智夏と秋兜は慌てふためいた。

 だが、二人が的確な対処法を見つける前に美羽莉はそう泣き叫びながら二人の前から走り去ってしまった。


 必然的にその場に取り残される智夏と秋兜。

 先程まで智夏の貞操の危機が迫っていたとは思えない程その場には静寂だけが取り残された。


 一年、たった一年間程度の付き合いだが美羽莉のそんな姿を見た事が無かった秋兜は呆然とする事しか出来なかった。

 智夏にしてみればその衝撃は秋兜の比では無かった。

 何せ彼女を泣かせてしまったのだから……。


 この後暫しその場に立ち尽くした後二人は喫茶店の中へと入って行く事になるのだが。その心には暗い影が差していた。

 後味が悪すぎる幕切れに二人の心には罪の意識だけが残された。 

 折角の智夏の入学祝いだと云うのに、その後の食事がまともに喉を通らなかった。

 そんな二人を怪訝そうに両親に見られながら、智夏の入学祝は終わっていった。


 自分が悪いのだろうか……。

 元凶を作り出してしまった智夏の両親の呵責は秋兜の比では無かった。

 自分勝手で、傲慢で、ただの変態としか美羽莉の事を捉えて無かった。


 そんな自分の認識が誤りだったと今日の出来事で智夏は思い知らされた。

 良くも悪くも、この日がそれまで一切異性と捉えていなかった美羽莉を智夏が初めて異性と感じた日になった。

 一方的な好意にただ振り回されるしか無かった二人の関係がこの日から進展し始める事になる。


 ゆっくりと、だが確実に、独り善がりだった美羽莉の恋が。二人の恋に変わって行くのであった。

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