第3話「初めての友達」
――キーンコーンカーンコーン――
入学式翌日、まだレクリエーションを兼ねた授業を受け。春の微睡みに苛まれ、軽い睡魔を感じながら昼休みを告げるチャイムが響いた。
「起立、礼」
中学時代と何ら変わらない号令を午前一番の授業で仮に決まった学級代表が掛け、同級生達がそれに従い挨拶をして着席した。
少しだけ知らない人間ばかりでまだ堅苦しい空気に包まれながら、智夏は束の間の急速に小さな溜め息を溢した。
入学式だった昨日は本当に酷い目にあった。兄に悪い人間では無いと言われていた魔王に捕まり、想像すらしていなかっ最低な事を言われ、危うく貞操の危機に陥った。
まぁ、それだけで悪人と結び付ける事は出来ないが。あんな事を公衆の面前で堂々と叫ぶ人間が善人な訳も無い。
危惧していた暴力沙汰が起きるような事は無さそうだったのが唯一の救いだったが。触らぬ神に祟り無し、当初の計画通り近付かず関わらないようにしなければならない。
そんな事よりも今はお腹が空いた、折角の昼休みをあんな人間の事を考えて無駄に浪費したくない。
昼休み……、中学生時代なら周りの空気の重さに耐えかねて一人屋上に避難していたところだが、今はもうあの頃とは違う。
周りは智夏の事を暴君と知らぬ者ばかりだ。場を包む緊張感も、畏怖する視線も感じる事は無い。
「ねぇ、あの子って……」
「ああ、昨日の校門の……」
ただ一点、あの変態のせいで違う意味で有名になってしまったらしく。席を共にして昼食を取っている女子生徒が智夏にチラチラと視線を送りながら小声で噂話をしている。
それに釣られて昨日の一件を知る者が視線を向けてくる。
少し居心地が悪かった。
だけど、中学生時代を思えばむず痒い程度だった。微笑ましいとすら思えた。
教室に居る事すら許されなかったあの頃に比べればこんな視線可愛いものだ。
そんな事よりも今はお腹が空いている。胃は早く何かを食べろとグルグルと鳴り食事を催促している。
趣味らしい趣味も無く、やりたい事も肩書きによって制限されて来た智夏にとって食事は数少ない楽しみの一つだった。
幸運な事に初授業の今日は入学を祝うと云う名目で兄がお弁当を作ってくれた。
コンビニのおにぎりやサンドイッチで済ませようと考えていただけに、寝て起きたら兄がお弁当を用意してくれていて嬉しかった。
兄は喧嘩こそ弱いがその他の事は大概得意であり、特に料理は絶品だった。
そこは二人の母の血を色濃く受け継いだのだろう。母は何を作らせてもプロかと思う程料理が上手く、ことスイーツに関しては若い頃パティシエを目指していた経歴がある為下手な店で食べるよりも遥かに美味しかった。
そんな母が幼い頃から作ってくれるスイーツが大好きで、自然と智夏は甘党になった。
少し話が脱線してしまったが……。そんな料理上手な兄が作ってくれたお弁当を机の上に出し。一体どんな物を作り、詰め込んでくれたのかと胸を踊らせながらお弁当の蓋を開けようとした瞬間。彼の机に影が差した。
何だ――。不意に差した影に疑問を抱いた智夏は反射のように自分の机の前に視線を移した。
すると、そこには教室の明かりを遮るように立つ少年が居た。
身長は同年代の男子と比べると平均以上だろうか。智夏が特段低いと云う事もあったが、170センチを優に越える大柄な少年に見えた。
そんな大柄な少年はニコニコと満面の笑みを浮かべながら智夏の席の前に立ち、智夏を見下ろしていた。
「えっと……」
その表情を見て智夏は困惑した。
そんな表情向けられた事も無ければ、こんなにもジッと見つめられた事も無かったからだ。
少年が何を意図して自分の眼前に立っているのかその真意を図る事が出来ず、ただ少年を見上げる事しか出来なかった。
「ねぇ、君瀬名智夏くんだよね?」
そんな困惑する智夏に少年は思いもよらない言葉を発した。
何故自分の名前を知っているのか?
何処かで会った事があるのか?
そうだったとしたら非常に不味い……、不味すぎる。
少年の問い掛けで智夏の脳裏に様々な憶測が駆け巡った。
「何で名前知ってるって顔だね。昨日さ、うちの姉ちゃんが校門でとんでもない事したって聞いたから、代わりに謝ろうと思って先生に名前聞いておいたんだ」
だが、実際に少年が告げたその真意は智夏の予測を裏切るものだった。
何だ僕を暴君って知って声を掛けて来たんじゃないんだ――。そう思い一瞬安堵した智夏だったが、直ぐにその安堵が早計な事に気付いた。
今彼は何と言った?
代わりに謝る?
お姉さんが校門でとんでもない事をした?
「も、もしかして昨日の……」
そこから導き出される答えは勿論一つしか無い訳で、思わずその答えを口に出し問い掛けようとした。
「うん、冴岸美羽莉……って言っても分からないかも知れないけど、それが昨日のバカの名前で。俺その弟で冴岸尊士(さえぎし たかお)って言うんだ」
だが、そんな智夏の驚愕にも似た問い掛けを遮り少年は真実を告げた。
冴岸……、と云う姓は確かに初耳だったけが兄から美羽莉と云う名前は聞いていた。あの後家に帰ってから憤慨する兄が何度も名前を口にしていたから嫌でも覚えてしまった。
その弟……、しかも同級生……。
背筋に嫌な物が走るのを感じた。
今まで描いて来た明るい学生計画がボロボロと音を立てて崩れていくのが分かった。
「昨日は本当にごめん! 姉ちゃん悪い人間じゃ無いんだけど直情型で、思い立ったら周りが見えなくなっちゃうバカなんだ。何を言ったのか噂は聞いたから、昨日説教しておいたから。許してあげて!」
だが、そんな絶望も杞憂に終わった。
尊士と名乗った少年は深々と頭を下げると、昨日姉と云う名の変態が取った行動を謝罪した。
出会い頭、開口一番で公然の場で発言してはダメなような言葉を口にするような人間の弟だ。姉と同じように頭の線が2、3本ぶっ飛んでしまっていると覚悟した智夏は拍子抜けしてしまった。
ちゃんとしている弟では無いか……。
常軌を逸している姉を持つだけに今まで何れ程の気苦労を重ねて来た事か……。
ただ姉の非礼を詫びただけなのに、今まで彼が経験して来た苦労の日々がその姿から垣間見えたようで智夏は尊士に同情心を抱いてしまった。
「べ、別に少し驚かされただけで、お姉さんに何かされたって訳じゃないからさ……。そんなに謝らなくても大丈夫だよ」
本当は少しどころでは無かった。危うく操を奪われる所だった。
本来なら笑って許せる程昨日美羽莉から与えられた恐怖は軽くは無かったが。尊士の姿を見ていると許そう……、嫌許してやらなければ不憫で仕方が無かった。
だから智夏は極力明るく振る舞い、その心の奥底とは裏腹に全く気にしていないとアピールした。
「本当に……?」
智夏の言葉を聞くと尊士は深々と下げていた頭を少しだけ上げ、そう問い掛けた。
「うん、本当だよ」
その姿で更に心を締め付けられた智夏は尊士を気遣うように快活に笑いながら肯定した。
「良かったぁー、嫌ぁー昨日あのバカが又やらかしたって聞いてホント肝を冷やしたんだよ。あ、ここ座って良い?」
途端に態度を急変させ、それまでの沈痛とも形容出来た姿勢が嘘のようにまるで友達でも相手にするかのような柔和な物腰へと変貌した。
その挙げ句、智夏の席の向かいに座っても良いか確認する始末で。智夏は余りの態度の変わり様に顔を引きつらせ、戸惑いながらも小さく頷いた。
「嫌さ、うちの姉ちゃんホント後先考えないバカでさ。昔から本能のまま生きるっていうの? 自分がやるって決めたら周りが見えなくなっちゃうんだよねぇ。問題起こす度に俺や母さんがどんだけ頭下げて回ってるかも知らないで……、ホーントバカで困るよ」
うん、尊士の姉がバカなのは良く分かった。分かったが、何故その愚痴を問題を起こされ、迷惑を掛けられた被害者の智夏に言うのかが分からなかった。
「いやー、それにしてもお腹空いたねぇ。あれ、瀬名くんは弁当なんだ。作ってくれる家族の人が居て羨ましいよ……。俺なんて見てよ、コンビニのサンドイッチだよ? ホント入学したての時くらい弁当作って貰いたいよ……」
そんな尊士の急変に少し……、嫌かなり引いている智夏をよそに。尊士は智夏の向かいに座ったと思うと、手に持っていたらしきコンビニのロゴが入ったビニール袋を机の上に置き。袋の中に入っていた恋淮(こいわい)のコーヒーとサンドイッチを出し、智夏が机の上に出していた弁当を羨みながら昼食を食べ始めた。
ムシャムシャとサンドイッチを頬張り、ゴクゴクとコーヒーを飲みながら。自身の姉に対する不平不満から始まり、両親に対する不満、挙げ句は自分の生い立ちをペラペラペラペラ喋り続けた。
今初めて会い、初めて会話した自分に対し驚くくらい一方的に喋り続ける尊士に最初は戸惑う事しか出来なかったが。その厚かましいとも言える尊士の態度に、智夏は次第に居心地の良さを感じ始めた。
「でさぁ、うちの親が又酷いんだよ! 姉ちゃんばっかり特別扱いして、俺なんて放任だぜ? 高校への進学なんて特に酷い! 好きな高校行って好きな事すれば良いなんて言い放ったんだぜ? ホント信じられないよ!」
持参したサンドイッチを食し終え、残っていた恋淮のコーヒーをグッと飲み干した後。勝手に一人でヒートアップした尊士はそう親へ対する憤りを口にすると、机に突っ伏しふて腐れた。
もしも友達が居て、それが親友と呼べる人物であったならこんなやり取りをするのだろうか?
一方的ではあったが、こうやって胸に貯めた不満を打ち明けるものなのだろうか?
目の前の少年の事を名前以外智夏は全く知らない。
初見の人間に長々と愚痴を言い始めるような人間だ。まともな訳が無い、姉のように変人の類いだろう。
そう思い、そう感じている筈なのに、何故だか笑みを浮かべてしまった。
ああ、僕が求めていたものはこれなんだ……。
「まぁ、でも……姉ちゃん基本は優しいし、頭可笑しいと思う事は多々あるけど。何か憎めないって言うかさ……、真っ直ぐ過ぎるバカだからついついフォローしちゃうんだけどさ……」
僕が経験したかった普通の学生ってこう言うのなんだ……。
日頃抱えている不満を、愚痴を語り合い。お互いに共有するものなんだ。
尊士の姿を見守りながら智夏は薄く笑みを浮かべ、そんな結論を導き出した。
しかし、間違いなくそれは普通では無い。
共有するも何も完全に日頃尊士が抱えているストレスの捌け口に一方的に智夏がなっているだけだ。
そんなもの親友どころか友達ですら無い。ただ空気の読めない異常者でしか無かったと云うのに……。
そう言った人間への免疫が全く無く、人付き合いと云うものに疎かった智夏は曲解し都合の良いように解釈してしまった。
「あ、そう言えば瀬名くん弁当食べてないけど大丈夫? 俺ちょっと喋り過ぎた?」
「智夏で良いよ……」
本来なら全力で関わる事を避けるべき類いの人間であったが、そんな人間が居るとも知らない。避ける術を知らないある意味で純粋極まりない智夏は、自分が話している最中机に出していた弁当に手を付けていない彼に気付き。流石に馴れ馴れしく喋り過ぎたかと反省し、問い掛けた尊士に対してそう告げた。
一瞬智夏の言葉を聞いてどう云う意味かその真意が理解出来なかった尊士は困惑した。
「瀬名くんって呼ばれるの何だか他人行儀でむず痒いからさ、智夏って呼んでよ。僕も尊士くんって呼ぶから」
そんな尊士の困惑を察し智夏が更に続けた言葉を聞いて尊士は満面の笑みを浮かべた。
「オッケー、智夏がそう言うなら名前で呼ぶ事にするわ」
満面の笑みを浮かべた後に、急に馴れ馴れしく智夏を呼び捨てにした。
嫌、幾ら名前で呼んで良いって言ったからってくんは付けろよ。普通いきなり呼び捨てにはしないだろ……。
と通常の神経の持ち主なら突っ込みを入れただろうが。尊士が普通では無いなら、智夏も普通では無かった。その馴れ馴れしさが新鮮で嬉しかった。
尊士の人間性はともかく、会ったばかりではあったがこうして智夏にも初めての友達が出来た。
智夏が憧れ、必死に努力して、そして入学した高校で、今彼が望んだ普通の学生生活が始まりを告げた。
幸福か、そうでないかと問われれば、智夏は間違いなく幸福だった。
入学初日に高校生活に暗雲が立ち込める事態に巻き込まれ、肩を落としていたというのにこうやって初めての友達が出来た。
これほど嬉しい事は無かった。
これほど有難い事は無かった。
「じゃ、じゃあ……、僕もお弁当食べようかな……」
心の中で尊士に深く感謝を抱きながら、促されるまま智夏は弁当の蓋を開けようとした。
「尊士……、尊士ッ!」
そんな時だ、漸くゆっくり昼休みが過ごせると思った瞬間、遠くから尊士の事を呼ぶ声が聴こえた。
突然の呼び掛けに呼ばれた尊士は元より、智夏も誰が呼んでいるのかとキョロキョロと辺りを見回してみると。
声の方向に背を向けていた尊士よりも早くそちらの方に体を向けていた智夏が。教室の前側の扉から覗き見するように半分だけ顔を出して尊士を呼び手招きすらその姉、昨日の変態を見付けてしまった。
「た、たた、尊士くん! あ、あれ……」
その姿を視界に収めると智夏は慌てふためき、言葉を詰まらせながら指を指し彼の姉が居る場所を教えてやった。
智夏が自分に気付いたと悟った瞬間、半分しか顔が見えていないと云うのにいやらしい笑みを浮かべるド変態美羽莉。
智夏はその笑みを見ると背中に嫌な物が走るのを感じた。
凶行に打って出る程好意を寄せる相手に表情だけで拒否反応を起こされるとは哀れ美羽莉……。
「げっ、姉ちゃんかよ……。智夏ちょっと待っててよ、目障りだから追い払って来る」
智夏に促されるまま視線をその指先に写すと気持ち悪い笑みを浮かべ此方を覗き込んでいる姉を発見した尊士。
あからさまに嫌な顔をした後席を立ち、そんな心強い事を言って姉の元へと歩いていった。
初めて出来た友達がこれほど心強い人物とは、更なる感謝を禁じ得なかった。
その後1分程廊下へと姿を消した二人。
直ぐ済むかと思えば追い払うのに案外手間取っているな……。そう考え始めた時。
「お願いします尊士さん! 絶対に変な事しませんから! どうか私に智夏くんを紹介して下さい!」
そう絶叫する声が聴こえて来た。
土下座してる……、姿は見えないが絶対に土下座しながら頼み込んでる……。
声だけでその姿勢が明確に分かった。
その声の後暫しの間を置いて尊士が困ったような表情を浮かべ教室の中へ戻ってきた。
ポリポリと頭を掻きながら智夏の元へと近付いてくる。
嫌な予感しかしなかった。初めての友達の勇ましさに心強さを覚えたが、思い返せば彼はあの魔王の弟なのだ。
自身の姉の醜態を見せ付けられれば心動かされぬ訳も無く。
「あのさ智夏……、姉ちゃんどうしても智夏に謝りたいって言ってるんだよ……。あんな姉ちゃん見るの初めてでさ、どうしても無下に扱う事が出来なくてさ……」
こうなってしまう訳だ。
――尊士くん騙されないで、奴は又僕を襲おうとする! 絶対にやる! 反省なんて上っ面だけだよ!――
そう告げ尊士の目を覚ましてやりたかったが、尊士に嫌われるのが怖くて智夏は目に見えてる落ちが待ち構えていると云うのに尊士の言葉を拒絶する事が出来なかった。
「分かった……、お姉さんが謝りたいって云うなら話を聞くよ……」
これ程心にも無い返答をしてしまったのは生まれて初めてだった。
ただ、その心にあったのは申し訳なさそうな表情を浮かべる尊士の気持ちに報いたかったと云う健気さだけであり。
「ホントか? 良かった……」
智夏の返答を聞くと表情を和らげる尊士の顔を見ると少しばかり救われたような気がした。
「絶対姉ちゃんには変な事させないからさ! しようとしたら俺が守ってやるから!」
そして、尊士に促されるまま席を立ち、奴の元へ肩を落として智夏が歩いて行く中。尊士はそんな心強い事を言ってくれた。
そうだ、彼の云う通り昨日とは違って直ぐ傍らに尊士が居てくれる。他の生徒も周りには居る。
幾ら常識が欠落している変態とは云え、こんな状況で大胆な行動に出られる訳がない。
きっと、多分、恐らく、お願いだから……。
そう自分に必死に言い聞かせた。段々と自信は無くなっていったが……。
もし神様と云う存在が居るのなら、お願いします、僕を無事に家に帰して下さい――。
最早この状況で頼りになるのは神しかいなかった訳で、さっきまであんなに心強く見えた友達は何故か驚く程も頼りなく見えてしまう。
必死に、必死に心の中で天に祈りながら重い足取りで智夏は美羽莉の元へ向かった。
教室中の人間がそんな二人を注視していた。
そんな同級生達に他人事だと思って……。等と悪態を吐きながら、彼は教室の外へと出ていった。
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