第2話「それは嵐のように……」
4月某日、満開の桜並木を歩きながら瀬名智夏は胸を踊らせていた。
今智夏が向かっている場所、それは彼がこの春進学した麻九良(あさくら)高等学校だ。
県内でも屈指と言われる進学学校だ。そんな所に自分が進学出来た事が嬉しかった。
何より暴君と呼ばれ、一人歩きで勝手に轟いた悪名によって普通の学生生活が送れなかった中学生時代と決別出来るのだ。これ程嬉しくも喜ばしい事は無く。満面の笑みを浮かべ、鼻歌すら口ずさみながら軽やかな足取りで一歩、又一歩と。まるでステップでも踏むように学校へ向けて歩いていた。
家から電車を乗り継いで麻九良高校の最寄り駅まで50分。その駅から麻九良高校まで徒歩10分。普通ならば苦痛でしか無い一時間と云う通学も今の彼にとっては至福の時でしか無かった。
それ程智夏はそれまでの自分の人生に辟易していたのだ。
街を歩けば見ず知らずの不良達に頭を下げられ。学校へ行けば後輩、同級生達から距離を置かれ、教師からは腫れ物でも扱うかのように接しられ。本来の瀬名智夏を見ようとも知ろうともしない、してくれないのだ。嫌気が差しても仕方なかった。
二学年上の兄、そして、一学年上の幼馴染の明子(あかね)が卒業してしまった後は地獄そのものだった。
それも今となっては過ぎ去った過去だ。
暴君瀬名智夏は中学の卒業と同時に死んだ。今此処に居るのは在り来たりな少年の瀬名智夏だ。
この日、この時の為に髪を5センチ伸ばした。それだけでは彼の顔を知る人間と遭遇した際に顔バレする可能性が高い為伊達眼鏡すら買って周到な用意を済ませている。
元々身長が150センチと小柄でおまけに童顔だ。その上中学生時代とは見違えるかみのやま温長さと眼鏡による二重のカモフラージュを施している。
高校の制服を着ていなければ未だに中学1年生と見間違えてしまう程幼く、一見しただけでは暴君と恐れられる少年には到底見えなかった。
その証拠に彼の周りを歩く同じ高校の生徒達は彼の事など気にも止めていない。
嫌……、たまに女生徒が智夏を振り返りひそひそと呟いてはいたが。
「見てあの子」
「やだ可愛い!」
微かに聴こえる言葉はそんな智夏の容姿を微笑ましく囁く言葉であり。
その可愛いと云う言葉がこの時の智夏には新鮮極まりなく感激すらした。
今までの彼の噂を知る少女達ならば間違いなくこう言った事だろう。
「見てあの子」
「やだ暴君じゃない! 早く逃げなきゃ!」
実際そう怯えられ、何度も同級生や後輩達が逃げ去って行く後ろ姿を見せ付けられて来た。
その度に幾度心の中で涙を流しただろう……。
その度に幾度本当の自分を見てと叫びたくなっただろう……。
それがどうだ、死ぬ程努力して、必死に入学した高校の生徒達はたまに智夏の容姿を可愛いと言い。その他の大勢に関しては気にも止めていない。
何もかも、今自分が置かれる状況全てが新鮮で、味わった事の無い喜びを与えてくれて幸せとすら思えた。
良くも悪くも、暴君と云う異名は全ての人間の注目を集め。衆目の視線に晒されない日など今まで一日たりとも無かった。
ただ登校しているだけ、それだけなのにほんの些細な一間に幸せだと感じる事が出来る。
それが普通である筈が、そんな普通を必死に望んでも得られなかっただけに。地獄とも思えたあの受験勉強の日々に感謝を抱いた。
しかし、そんな順風満帆な彼の新たな学生生活に一つだけ不安な要素があった。
智夏が住む宗形(むなかた)市には30年近く前に初代暴君と呼ばれた少年が現れて以来、「暴君」と云う異名で呼ばれる不良少年が数年置きに現れていた。
確か智夏で8代目だったと聞いた。
そんな宗形市の暴君と対をなす存在が宗形市の隣、山手(やまた)市に居た。
魔王――。暴君に対して呼ばれるその異名は最早人間に冠するような異名等では無かった。
しかもだ、聞けばそう呼ばれる人間は決まって少女だと云うでは無いか。
魔王と云う異名も暴君と同じく30年近く前から継がれて来た。
確か今魔王と呼ばれる少女で6代目だったか……。
流石にそんな恐ろしい名を冠する少女が現れる頻度は暴君よりも低かったが。その分聞こえてくる悪評は暴君のそれを凌駕していた。
一人で100人の不良を返り討ちにした――。
走っている車を素手で止めた――。
等々、後者に至ってはそれは本当に人間か?
と思ってしまう程恐ろしいものだった。
まぁ、初代暴君も初代魔王も智夏が良く知る人間ではあったが……。その話は又の機会にするとして、問題は6代目魔王だ。
幸運な事に中学生時代は件の魔王と出会した事は無い。
そんな化け物のような噂しか聞かない人間に関わるのは御免被りたかった為、魔王出没エリアと噂される場所には近付かないようにしていた。
そんな智夏の努力の甲斐あって暴君と魔王が遭遇する事は無く、無益な血は流されずに済んだ。
のだが……、何の因果か、何の神の悪戯か。その魔王が彼が進学した麻九良高校に居ると云うでは無いか。
最悪な事にその話を兄から聞かされたのが昨日の話だ。
「何でそんな大事な話今までしなかったの!」
兄が雑談でもするように衝撃的な事実を告げると智夏は思わず凄まじい剣幕で兄に詰め寄った。
それはそうだろう。車を素手で止めるような少女が居る学校に進学してしまったのだから。
しかも最悪な事に智夏は近隣の街で超が付く程有名な暴君なのだ。無事でも平和でも居られる訳が無い。きっと血の雨が降る事になる……。
「いや、別にミユリは悪い奴じゃ無いって……。少し常識から外れてる所があるけど、無闇矢鱈に他人を傷付けるような人間じゃ無いから安心しろって」
そう恐々とする智夏に発した兄の答えは拍子抜けするものだった。
最初は気休めの言葉だと思ったが、誰よりも知る兄だ。その顔に嘘の類いの陰りは無く、その言葉通り何の不安も無いと思っているのが理解出来た。
そんな兄の普段と変わらない態度に一度は納得し、安心しながら就寝した訳だが。いざその魔王が待ち構える場所に近付いて行くと、嫌でも緊張が高まってしまう。
ただ、先にも述べた通り智夏は初代魔王と呼ばれた女性を知っている。恐れられるような、噂されるような人間では無い。寧ろ優しい人間だ。
その初代の人間性に加え兄の言葉があったお陰で新たな学生生活への期待が8、不安が2であった。
そもそも、容姿だけを見れば智夏が暴君などと呼ばれる人間には到底見えない。
少しすれ違ったくらいでは相手が気付くとも思えず。その点も智夏の不安を和らげる要素になっていた。
不安は先に述べた通りある。しかし、それは今始まりを告げた新たな日々への期待に比べればほんの些細な物でしか無かった。
きっと自分なら上手くやれる。あれだけ苦しかった中学生時代を乗り越え、受験と云う戦いに勝利して今此処に居るのでは無いか。
血の滲む努力を重ねた日々を無駄にしてなるものか。
孤独の中で漠然と過ぎ去る日々にたった一人で呆然とするあの日々に戻ってなるものか。
今この瞬間暴君は終わり、ありきたりな人間瀬名智夏の人生が始まる。
この先にはきっと幸せな日々が広がっている。智夏が望んでも手に入れられなかった普通の日々が広がっている。
だから迷う事は無い、不安を抱く必要など無い。
障害があると云うなら乗り越えるのみ。だから、恐れず歩みを進めよう。
輝かしい未来へ向かって……。
そんな到底入学初日の高校生が抱くとは思えない感情を胸に智夏は止めていた歩みを再び進め始めた。
次第に縮まる学校との距離。それに呼応するかのように高鳴る鼓動。
脈打つ心臓は自然と彼の歩みを早め、足早に学校へと向かって行く。
桜並木を抜け、閑静な住宅街を抜け、目的地が近い事を告げるように徐々に増える同級生達。
そして、新緑生い茂る木々が立ち並ぶ公園に差し掛かると彼の目的地を漸くその視界にとらえる事が出来た。
麻九良高等学校、その校舎を視界に収めると智夏のテンションは最高潮に達した。
校舎を見ると思わず駆け出してしまいそうになるが、そんな事をすれば目立ってしまう。
良い意味でも、悪い意味でも人の注目を集めるのにはうんざりしてる。
だから、極力普通の生徒と同じように振る舞い、溶け込まなければならない。
逸る気持ちを必死に抑え、ニヤける顔を必死で真顔を維持しながら。智夏は一歩、又一歩と大地を踏みしめるように歩みを進めていく。
次第に輪郭を帯びてくる校門、そこをくぐれば智夏の新たな生活が幕を開ける。
何度も何度も憧れてきた普通の学生生活。それがもう直ぐそこ、眼前に待ち構えている……。
筈だった。しかし、そこに待っていたものはそんなものでは無く、一人の少女であった。
校門の形が明確にその視界にとらえられる距離まで近付くと智夏は校門脇に人が立っている事に気が付いた。
人……、教師か新入生の親御さんだろうか。遠目から見ても日本人の平均より遥かに高い身長なのが分かった。
彼の兄も彼とは違って180センチを越える平均以上の身長だったが、そんな兄と同じくらいに見受けられる。
しかし、教師でも新入生の親類でも無い事は直ぐに分かった。学生服を着ている。しかも、女子生徒だ。春の強い風に靡くスカートが性別を主張していた。
女生徒……、高身長……、そこから導き出される答え=魔王。
待ち伏せされていた!
80年代の不良でもあるまいし、正かそんな待ち伏せなどされているとは予測もしていなかった。
このままでは不味い、もしあの人物が魔王だったとしたなら絶対に因縁をつけられ騒動を起こされてしまう。
入学早々目立つような行動を取られるのは困る。智夏が今まで綿密に描いてきた計画が一瞬にして水泡に帰してしまう。
あの血の滲む受験勉強も、同級生達が通わないようなハイクラスな学校を選んだ事も。全て全て無駄になってしまう。
又中学生時代に逆戻りしてしまうのか……。
腫れ物のように扱われ、自分が同じ空間に居ると同級生達が緊張し、休み時間になればそれが居たたまれ無くなり教室を出ていく。
その後に微かに聴こえてくる自分の陰口。暴君と同じクラス何て怖くて嫌だ、別のクラスに移って欲しい、もう学校へ来て欲しくない……。
苦しかった、悲しかった、辛かった、泣いた事だってある……。
存在を求められ無い事、許されない事が何れ程辛く苦しい事か普通の人間には分からない。
それが苛めならば耐える事も出来ただろう。
だが、その逆だ。周りからすれば虐げられていると感じてるのは自分達であり。下手に関わればどんな事をされるか分からない……。
それは最終的に集団意識となり。
智夏=暴君。
暴君=暴力。
そんな勝手な図式を作り上げ、彼を取り巻く最悪な環境を形成してしまった。
数の暴力に勝る物は無い。例え力を持たぬ弱者の集まりだったとしても、環境から作り替えられてしまえば強者と言えど立ち向かう術は無い。
ほんの些細な一言でも百人が同時に呟けば凶器になる。
一人の差別的な視線は意に介さなくとも、百人の差別的な視線は人の心を鋭利に切りつける。
良く漫画や映画で力を持つ者の使命を説くが。実際使命に駆られ力を振るって智夏は孤立した。
誰かを救うために振るった暴力は、気付かぬ内に救った者にも抜けられる暴力では無いのかと人々に疑心を抱かせ。智夏の善意は気付けば悪意に置き換えられてしまった。
智夏が人付き合いが苦手であった事もマイナスの要因になってしまった。自分を擁護する術を持たず、言われるまま否定する事が出来なかったから出来上がってしまった状況だ。
だから、誰を責める事も出来ない。悪い人間が居るとしたならそれは自分だ。自分が上手く立ち回れないから孤立してしまったんだ。自分が上手く立ち回れないから悪評が広まり、暴君と云う虚像が出来上がってしまった。
悪があるとするならそれは全て智夏自身。非があるとするなら自分にしか無く、他の人間。智夏を差別する人間を責める事は出来ない、責める資格は彼には無い。
暴君瀬名智夏の最大の悲劇はそこなのだろう。
暴君だから何だと、人を救うために振るった暴力が何だと開き直り撥ね付ける事が出来れば最低限の立ち位置を確保出来たのかも知れない。
だが、智夏は開き直る事が出来なかった。全てのマイナスな感情を自分自身に向け受け止めてしまった。
腕力に秀で、力を持つ人間としては致命的な程優し過ぎた。繊細過ぎた……。
今まで必死に我慢して来た。敏感に空気を読み、居てはならない場所には止まらず。見えず、感じられず、邪魔にならない場所へと自分を追いやって来た。
そうする事で自分を、皆を守ってきた。そんな悲しい処世術でしか自分を守る事が出来なかった。
だから、高校生活ではもう同じ轍は踏まない。その為に準備をしてきた。万全の態勢で新生活に挑んで来た。
筈なのに、その終わりが呆気なく目の前に立ち塞がっている……。
嫌だ……、嫌だ!
もうあんな孤独を味わいたくない!
沢山の友達を作って普通の高校生活を送るんだ!
それにはどうしたら良い……。どうこの窮地を乗りきれば良い……?
必死に考えろ、何か良い策がある筈だ。越えられない壁は無いと何処かの偉い人は言っている。だから、きっとこの窮地も乗り越えられる筈だ。その解決法を見つけ出すんだ!
などと長々しい過去の思いと共に振り返り、目の前の現実をどう打破するべきか無駄に悩みもがいていた智夏だったが。結論として導き出されたのは最初に抱いた答えだった。
容姿だけで自分が暴君だと分かる訳が無い。
徒労……、とは正にこの事か。今まで費やした文字数は何だったのかと拍子抜けしてしまうが。先にも述べた通り開き直りと云う物は大事であり。そう導き出した智夏はそれまでと同じように堂々とした足取りで学校へ向けて歩き出した。
一歩一歩、次第に縮まる魔王との距離。
何かこっちを凝視しているような気がする……、のはきっと気のせいだ!
一歩一歩、気にしない気にしない。あそこにいるのは魔王でも何でも無い、きっと普通の生徒だ。
一歩一歩、もう数歩の位置まで二人の距離は縮んでいるのに相手が何かをする素振りは無い。
ほら、やっぱり自分に気が付く筈がない。身長が低い事を覗けば見た目は何処にでも居る子供なのだから杞憂に終わった。
「あ、おはようございます」
ほんの十数メートルを歩く間に智夏は確かな自信を付け、魔王と思しき少女の隣を通り過ぎる頃には挨拶すらする余裕を持っていた。
――ガッ――
だが、そんな余裕を見せた瞬間校門脇で仁王立ちしていた少女は智夏に向き直り突然彼の両肩を両手で鷲掴みした。
「えっ、えッ! なな、何ッ!」
余りにも突然の少女の行動に、智夏は思わず混乱し取り乱した。
何故突然肩を捕まれたのか理解出来る訳も無く、又その理由を考える余裕も無く。勢いに委せるように自分の肩を掴んだ少女の顔を初めて直視して智夏は気が付いた。
驚く程整った顔の持ち主だった……。こんなにも綺麗な人と会った事が無い。そう思ってしまう程美人であり。モデルのような高身長も相まって思わず言葉を失い見惚れてしまった。
それから数秒二人の間に沈黙が流れた。とてもとても長いと感じられるのに、どうしてだか苦痛とは思えない不思議な時間だった。
相手は智夏の目を真っ直ぐに見つめて来る。だから、智夏も同様に見つめ返してしまう。
見れば見る程雑誌などでしか見たことが無いような顔立ちに智夏の心臓は急速にその鼓動を早めて行った。
この後何をされるのか、言われるのか……。
ま、正か一目惚れ!
愛の告白!
か、かか、からの接吻!
等々、やはり見た目が幼いと言えど男子。そんな少し不純な事を考えながらも、まるで流れに身を委せるように。少女の動向を固唾を飲んで待った。
「あ……」
そして、余りにも長く感じた数秒後少女はゆっくりと口を開いた。
その頃には相手が魔王かも知れないと云う考えは頭から消え去り。不純な感情も同様に消え去り。ただ、彼女が告げようとしている運命の言葉に集中していた。
「貴方の✕✕を私の✕✕にちょうだい!」
集中した結果凄まじい事を言われた……。
倫理的に伏せなければならない程ど直球の下ネタだった……。
一瞬智夏は自分が何を言われたのか分からず固まったが、やはりそこは多感な時期の高校生。相手が何を言っているのか直ぐに理解して顔を赤面させた。
「な、何を言ってるんですか! 頭おかしいんじゃないですか! 離して下さい!」
赤面した後「こいつはヤバい!」と本能が直感し、このままでは自分の操が奪われると危機を感じた智夏は彼女の手から逃れるべくその手を振りほどこうと足掻いた。
足掻いたが、相手の力が尋常では無い程強く思うように振りほどけなかった。
「お願い、一回で良いから! 一回で✕✕してみせるから! 肉体関係から始まる真実の愛だってあるのよ!」
「黙れ変態! 離せ離せ離せッッ!」
そして、振りほどけないでいると更に最低な言葉を告げられ、思わず柄にはない激しい突っ込みをしてしまった。
世の中には理屈では括れない頭のおかしな人間が居る。今正に目の前に居るこいつだ。頭がイッているとしか思えない、鬼畜その者だ。
倫理的に女子が口にするべきでは無い……、と云うか男も言ってはならないような事を平然と口にしている時点で異常者としか思えず。それまで目立たない事を必死に意識していた智夏であったが、そんな事よりも自分の貞操の方が何倍も重要であり。貞操を守る為ならば、この状況から抜け出す為ならば暴力も辞さない覚悟を固めた。
「テメーは人の弟捕まえて何やってんだッ!」
だが、それも杞憂に終わった。
スパーンッ――。そう叫びながら変態の頭を力強くスリッパで叩き付ける人物が現れたからだ。
「いったぁ……」
頭を思いっきりスリッパで叩かれると変態は悶絶し頭を押さえその場に踞った。
高がスリッパ、されどスリッパ。一定以上の力を込めて殴ったなら十分凶器になるのだ。
変態の腕から解放された事を智夏は安堵した。そして、安堵した後その魔の手から救ってくれた人物にまるで救世主でも仰ぐかのような視線を向けると。そこには彼の兄、瀬名秋兜(せな あきと)が立っていた。
「ちょ、ちょっといきなり何するのよ秋兜先輩! スリッパで殴り付ける何て非常識じゃないの!」
「テメーが常識どうこう言えた義理かバカッ!」
スパーンッ――。常識で考えたら確かに少女が言っている事にも一理あるが。どう考えても人前で言う事が憚られるような下ネタを恥ずかしげもなく叫ぶように告げた少女が悪いのは自明の理。もう一度スリッパで叩かれてしまった。
「もう、何度も何度も頭を叩くな! バカになるでしょ!」
もう一撃頭を叩かれた所で追撃を恐れた少女は憤りを露にしながら秋兜との距離を取った。
「だったらもう既にバカだから関係ないなバカ。お前がそんなにバカだとは思わなかったよ冴岸。確かに弟をよろしくと頼んだけどな、そう云う意味じゃないだろ」
しかし、秋兜はそんな少女の緊急避難を嘲笑うようにパンパンと威嚇するようにスリッパを自分の手に叩き付けながら次第に距離を詰めてくる。
「お、弟……、あの子が弟さんなのね! 容姿しか聞いてなかったから気付かなかったわ!」
無論黙って詰め寄られれば又頭を叩かれるのが分かっていたからこそ、少女は秋兜と同じ歩幅で後退していった。
ここで急な動きを取れば秋兜の怒りを逆撫でしてしまうかも知れない。だから、ゆっくりゆっくりと付かず離れずを意識して距離が詰まらないようにしていたのだが……。
「知らなかったら何でも言って良いと思ってんのかこのウルトラバカ! 今日と云う今日はテメーの性根を叩き直す!」
既に彼女の言葉が秋兜の逆鱗に触れてしまっていた。
その言葉を聞くとスリッパを天高く振りかざし鬼の形相を浮かべながら秋兜が駆け寄って来た。
「ひぇーー! お助けーー!」
奴の目は本気だ、捕まったら何をされるか分からない――。
そう恐怖した少女は敵に背を向け、一目散に逃げ出した。
「待てコラー!」
そんな少女を見す見す逃す程秋兜の怒りが軽い訳も無く。秋兜は少女の後を追い掛けて行った。
そして、それまでの騒動が嘘のように、その場には事態について行けず呆然と立ち尽くす智夏だけが取り残された。
温かな春の日差しの中、まだ冬の名残のような少しだけ冷たい風が吹いていた。
「もうしませんから!」
遠くから先程の少女が許しを乞う声が聞こえる。
「そう思ってるなら止まれ冴岸ー!」
それを追う兄の声が続いて聞こえた。
余りにも唐突に、余りにも強烈に、恰も春の強い風のようにこうして魔王と暴君は邂逅した。
この先に一体どんな日々が待ち受けているのか……。
今の智夏にも、魔王冴岸美羽莉(さえぎし みゆり)にも知る由も無く。
ただただ、風だけが未来へ向けて吹き荒んでいた。
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