転校生 1

 目を覚ますとカーテン越しに陽の光が顔に当たっていた。ハルキはゆっくりと体を起こす。


 結局昨日はお風呂に入ってからはすぐに寝てしまった。いつものゲームをする気が起きず、そうなるとやることがなかったので自然に眠くなってしまったからだ。だから今は普段よりは寝覚めが良かった。


 ドアの外からはドタドタと慌ただしい音が聞こえてくる。またいつものだろうと思いながらハルキはベッドから体を起こして居間へと出る。


「お母さん、髪留めのゴムどこ?」

「そんなのわかるわけないでしょ? お風呂場とかはどうなの?」

「ないから聞いてるんだよー」


 ハルキの姉のアサヒがボサボサの髪をまとめず部屋のあちこちの棚を開けていた。すでに中学の制服に着替えているということはもう出発間近だったのかとハルキは考える。


「早く学校行かないと人捕まんないんだよー」

「今日も役者探し? まだいい人見つかってないわけ?」

「いい人はいるんだけど、出演オーケーもらってなくて。ああ、もういい! 予備のヤツ使う!」


 アサヒは自分の部屋へ行き、一〇数秒後にゴムで髪をまとめてスクールバッグを持った状態で出てくる。


「じゃあ行ってきまーす」


 アサヒが家の扉を開けて出ていく。


「いってらっしゃーい」


 陽子が出ていくアサヒに声をかけるが、その時すでに扉はもう閉まっていた。


「ハルキ、おはよう」

「……おはよう」


 にっこりと言う陽子に対して相変わらずの無愛想な表情でハルキは返事をする。


「ごめん、お母さんももう出ないといけないから、これ食べといて」


 陽子は居間のテーブルに置いてあるトーストと目玉焼きを指差す。


「じゃあ行ってきまーす」


 陽子の行ってきますに対して、ハルキは何も応えなかった。


 慌ただしさが通り過ぎ、家に静寂が訪れる。その落差についていけず、ハルキは少し呆然とする。


 しかし時計を見て、ハルキは朝食の置かれているテーブルへと向かう。遅刻とまではいかないまでもあまりのんびりできるような時間でもなかった。


 急いで朝食を食べ、歯磨きや時間割りを合わせたりしていると結果的にいつもより少し早い時間に準備が終わった。ただのんびりして潰すような時間でもないため、そのまま家を出ることにする。


 家の電気が全部消えていることとガス栓が閉まっていることを確認してハルキは家を出て扉を閉める。最近はアサヒと陽子が早く出ていくため、これらはハルキの日課となっていた。


 梅雨が明け、七月に入った途端にセミたちの大合唱が始まった。日に日に強くなってくる日差しに合わせて余計に暑く感じる。普段より家を出るのが少し早かったが、すでに気温は三〇度近くかそれを超えていて、一気に汗が噴き出してくる。まだ時間が少し早いのもあって通学路を歩く生徒たちの数は少ない。ここ最近不審者が各地で相次いで目撃されていて、中には誘拐事件に発展する事態も起こっていた。そのため黄色い蛍光色のジャケットを着た地域のボランティアが見守りと称してところどころに立っていた。ただボランティアの面々は全員がすでに壮年を通り越して老人の域に達した年齢の人ばかりで、いざというときでも頼りにできなさそうとハルキは思っていた。


 校門を通り抜け、学校のグラウンドに入る。ハルキのクラスがある校舎に入るにはここを一直線に突っ切る必要がある。するといつもハルキが来る時間なら同じクラスの男子たちがドッジボールで盛り上がっているのだが、まだ誰も出てきていないことに気づく。


 そのまま靴箱で上履きに履き替え、教室の引き戸に手をかける。


「いっせーのーで!」


 引き戸を開けた途端に騒音まがいの大音量の声がハルキを襲う。思わずハルキは顔をしかめる。少し耳がきーんとしていた。


 声の発生源はハルキの目の前、黒板の前で陣取って円を作っている男子のグループだった。メンバーはほとんどがいつもドッジボールをしている生徒たちだ。グーとパーを出し合ってチーム決めをしているのだろうとハルキは考える。


「んじゃグーのやつは俺んとこな」


 ボールを持った少年が握った拳を頭上に上げて振っている。その少年がハルキの方に気づいた。


「あ、日上じゃん。おはよう」

「おはよう」


 少年に対してしかめっ面を隠さずにハルキは返す。


 出雲ショウタ。これがこの少年の名前だった。クラスの男子のリーダー的存在で、いつも朝はこうやって彼が主催になってドッジボールをしていた。運動神経抜群で体育が大得意、ただし勉強はてんでダメでしかも宿題も全くやってこないために、先生に怒られるのを通り越してすでに呆れられている。後先考えずに行動する上にそれに人を巻き込んで迷惑をかけているところをよく見ているため、ハルキはなるべく関わらないように避けていた。


「日上ドッジやるか? パーの方一人足んないんだけど」


 ただショウタはそんなことはお構いなしに時々ハルキに対して話しかけていた。ドッジボールに誘ってくるのも今回を含めてもう一〇回は軽く超えている。


「いや、別にいい」


 いい加減にしてくれと思いながら、ハルキは返答する。


「そっか。んじゃみんな行くぞ!」


 ショウタは特に気にすることもなく、先頭を切ってハルキの横を走って通り過ぎていった。取り巻きたちもショウタの後を追いかけていく。


 教室は一気に静けさに包まれた。残っている生徒は普段からこの時間に本を読んでいる、学級代表の女子生徒などごく少数だ。


 ハルキは一番窓側の一番後ろの机に向かう。そこがハルキの机だった。


 しかしいつもの机が少し違っていた。昨日まで一番後ろだったはずなのに、いつの間にか一つ前に進んでいる。というより場所から見て自分の机の後ろにもう一つ新しい机が追加されていた。


 一応自分の机かどうか確かめるため、最後から一つ前の机の中にある道具箱の中身を確認する。中のノリやハサミなどは紛れもなく自分のものだったので、この机が自分の机だということがわかる。


 椅子に座って少し考える。昨日の帰りのホームルームのときにはなかった。なら後ろの机を持ってきたのは担任の雨宮だろうかとハルキは推測する。そして昨日の雨宮の様子を思い出す。


 雨宮は今年の四月に入ってきたばかりの先生だった。端正な顔だちと少しぶっきらぼうな口調、無駄口のない寡黙な性格が少し背伸びしたい女子たちの間では人気らしい。その人気はこのクラス以外の生徒が雨宮に対して特に用事もないのに声をかけているところを見るほどだ。


 そんな雨宮がなぜ昨日あんな場所に現れたのか。結局あの後銀髪の少女はどこに行ったのか。窓の外でいつものようにドッジボールに興じているショウタたちを見ていると、あのことがまるで夢のように思えてくる。


 ――でも……


 今頬杖をついている左頬に触れた、あの少女の唇の感触。一晩経っても消えないあの感触を思い出すと、あれは間違いなく現実に起こったことなんだと思える。


 するとホームルーム前の予鈴のチャイムが鳴る。気がつけばもう八時半になっていた。そんなに長く考え事をしていたのかと少し驚く。外で遊んでいた生徒たちが続々と帰ってきて、本鈴前ギリギリにショウタたちドッジボール組が息を切らして教室に滑り込んでくる。


 静かだった教室が一気に騒がしくなる。話題は「昨日のテレビ見た?」だとか「今日学校終わったらどこに遊びに行く?」というような内容だ。


 いつも通りの騒がしい教室。ハルキはこの雰囲気が苦手だった。元々人混みが苦手なハルキにとって、生徒がぎゅうぎゅうに詰め込まれた教室は地獄といってもいい場

所だった。長くいると息苦しくなって窒息しそうな感覚に陥る。だからハルキは隣で話されているそれらの話題に首を突っ込むようなことはしないし、周りもハルキに話題を振るようなこともしない。そうしているうちにいつの間にかハルキの存在感は薄れていって、まるでハルキがここに存在しないかのように彼の周囲には誰もいなくなっていた。ハルキ自身にとってもこれは好都合だった。ただでさえこんな教室にいるだけで息苦しいのに、誰かと話をするなんてそれこそ自殺行為だ。


 ただ自分の後ろの席に誰もいないのが少し気がかりだった。この時間になっても座っていないということはまだその席の主が学校に来ていないということだ。転校生でも来るのだろうかと考えるが、夏休みを間近に控えたこの時期にまさかと思う。


 その時教室に音もなく背の高い音が入ってきた。雨宮だ。


「日直、号令」


 日直担当の女子が「起立、礼、着席」と号令をする。全員が着席した後、雨宮は教室全体を見回す。その様子はいつもの雨宮であり、ハルキと目が合っても特段何か変わった態度を取ることもなく視線が別のところへと移っていった。


 ただ次に発した言葉はいつもとは違っていた。


「突然だが、今日転校生がやってくることになった」


 その言葉で一気に教室が色めき立つ。男子か女子かで教室のあちこちで盛り上がり、ショウタに至っては立ち上がって周囲の生徒に男子に決まってんだろと何故か根拠のない主張をしていた。またこんな時期になんでという疑問の声も聞こえてきた。


「出雲、残念だが転校生は女子だ」


 雨宮のその言葉でショウタの周囲の生徒は大爆笑し、ショウタは完全に大勢の前で辱めを受けた格好となった。ショウタは顔を真っ赤にして無言で席に着く。その一方で女子たちはどんな子なのかなと口々に理想の転校生像を話し合う。


「おーい、お前ら静かにしろ」


 雨宮が手をパンパンと叩く。すると生徒たちの意識が雨宮に集中して静かになる。


「それじゃあ、入ってこい」


 その言葉を合図にクラスの引き戸が開けられる。


 入ってきたのは少女だった。まず目を引くのは肩どころか腰にも届きそうなほどの長さの銀髪、陽の光を浴びたこともなさそうなほど透けるような白い肌、そしてどんぐりのようにくりっとした青い瞳。


 どこからどう見ても昨日の夜に会ったあの少女だった。今は昨夜のライダースーツのような服装ではなく丈の長い白のサマードレスを着ていて、どこかお金持ちのお嬢様といった雰囲気を醸し出していた。


 少女は雨宮から渡されたチョークで丁寧に黒板に字を書いていく。


 『月森ルナ』。これが黒板に書かれた文字だった。


「月森ルナです。よろしくお願いします」


 澄んだ声も昨日聞いた声と一緒だった。


「月森のご両親は転勤が多いらしくてな。ここにも長くいるわけではないそうだが、みんな仲良くしてやってくれ」


 雨宮の声に誰も返事しなかった。誰もが目の前の転校生の容姿に目を奪われていた。人形のようにしか見えないその転校生の容貌に誰もが言葉を失っていた。


 だがハルキだけは違った。どうして昨日のあの少女が今ここに現れたのか。昨日の出来事も相まって脳の処理が追いつかず呆然としていた。


「席はあそこだ」


 雨宮が指差したのはハルキの後ろの席だった。ハルキの推測通り、転校生のためのものだったのだ。昨日の少女が転校生だというのは完全に予想外だったが。


 ルナと名乗った少女は寄り道することなく、ハルキの席の後ろまでやってくる。歩くたびに特徴的な銀髪がふわふわと舞う。


 ルナはランドセルを机の上に置くと少し前かがみになってハルキに言う。


「よろしくね」


 それから雨宮は転校生など忘れたかのようにいつも通りにホームルームを進行させていった。出欠確認、宿題の回収、放課後に活動のある委員会の集合時間を淡々と行い、ホームルームは終わりの時間になった。


「そんで霧島」

「あ、はい」


 教室の後ろの方に座っている女子生徒が返事をする。霧島サギリ。ホームルームが始まるまで本を読んでいた学級代表だ。


「次の二〇分休憩のとき、月森に学校の案内を頼む」

「わ、わかりました」


 少し緊張気味にサギリは返す。いつも先生と話すときはこのように緊張気味で、本を読んでいるときのように落ち着いて返答しているところをハルキは見たことがなかった。


「後、日上」


 しかしハルキも自分が指名されると思っていなかったので体がビクっと反応した。


「お前も二〇分休憩のときにようがある。職員室まで来てくれ」


 そう言うと、雨宮はハルキの返事を待たずに教室を出ていった。


 その瞬間、クラスの活発な女子たちがルナの元へ、そして何故かショウタやその取り巻きがハルキのところへやってくる。


「おいおい、お前何やらかしたんだ?」


 ニヤニヤしながらショウタが尋ねてくる。


「べ、別に何も……」

「またまたー。もしかして他の学校のヤツとケンカでもしたのか?」

「してるわけないだろ」


 しかしどう否定してもショウタや取り巻きたちは口々に根掘り葉掘り聞き出そうとする。


 イライラが募ってハルキはたまらず立ち上がる。いきなりのことだったのでショウタたちの質問が止まって彼らは棒立ちになる。


 ハルキは彼らに構わず席を離れる。


「どこ行くんだ?」

「トイレ」


 別にこの場から出て行きたかっただけで本当に行くつもりはなかったのだが、思いついたままとりあえず言っておく。


 やっぱり合わないとハルキは思う。今年を含めてすでに三回もショウタと一緒のクラスになっているが、性格が合うと思ったタイミングは一度としてなかった。そしてショウタはそんなハルキの考えとは裏腹に、どれだけ突っぱねられても声をかけてきた。そしてそれにまたハルキがいらつく。そんな負のスパイラルがすでに四年も続いていた。


 言ったからにはこの教室を出ていく必要がある。ハルキは適当に廊下で時間を潰そうと思い、教室を出る。


 その様子を、女子たちの間からルナが見ていた。

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