青いビー玉

水谷哲哉

月夜に現れた少女

 『モノクロ』。俺の小学校生活を表すにはそれが一番最適な言葉だった。


 いつも教室の隅っこの席で座っていて、休み時間も誰とも話すことはない。授業で二人組を作ってと先生に言われて余り物になった経験なんて山程ある。そしてクラスではしゃぎまわっている他の男子たちを知能の低い猿か何かかと内心見下していた。だからそういうのに巻き込まれるのも嫌だから余計にクラスで目立たないようにしていた。その結果、自分はクラスでは存在しないような人間になっていた。目立つといえばそれこそさっき挙げたように授業で組を作るときぐらいだった。その時の早くなんとかしろよというクラス中からの突き刺さる視線が今でも鮮明に思い出せる。


 家でも俺は一人だった。姉ちゃんは女子にも関わらず見下していたクラスの男子と気質がそっくりで、なんでもごめんごめん程度で許されると思っていたようで、人を振り回しては笑いながら平謝り。毎回そうやって振り回されていた人を見ては不憫に思い、なるべく姉ちゃんとは関わらないでおこうと思っていた。そして母さんは父さんと離婚し、父さんのところへ行きたかった俺を無理矢理自分のところへ引き取った。そのせいで転校を余儀なくされ、ただでさえ少なかった友達とも別れることになった。俺からしてみれば二人は敵も同然で、そんな敵と同居していることにストレスを感じないわけがない。母さんと姉ちゃんは性格が合うのかよくわいわいと話しているところを見ていたが、俺は両親が離婚して以来二人と話すことはほとんどなくなった。それこそ日常生活を営む上での必要最低限の会話しかしなかった。そんな俺はいつも飯の時間が終わると自分の部屋にこもり、当時から流行っていたモンスター育成ゲームに没頭していた。ストーリーは全部クリアし、学校のパソコンの時間でモンスターの隠しパラメータを調べて対戦用のモンスターを育てる。しかし友達はいないのでそのモンスターを使ったことはなかった。そのことに空しさを感じたこともあったが、今更どうしようもないと言い聞かせている内に慣れてしまった。


 そんな生活がいつの間にか四年も続き、俺は小学六年生になっていた。小学校生活最後の年。相変わらず俺は一人だった。


 だけどこの年は少し、いや全く今までと違っていた。この年、俺にはこの街で初めての友達ができ、初めて一緒に外で遊んだ。初めてゲームで対戦をした。初めて一緒に花火を見た。そして多分この星で誰も体験したことのない冒険もした。


 その始まりはあの日。あの満月の日。夏休みを間近に控えた、あの日からすべてが始まった。

 

*********************************

 

 

 日上ハルキがそれを見たのは塾の駐輪場で自分の自転車にまたがった時だった。


 何気なく空を見上げた。大きな満月。元々そこまで田舎ではないため街灯が多いが、月の光のせいで普段から少ししか見えない星々がさらにほんの僅かしか見えなくなっていた。


 その時夜空を何かが横切った。最初は流れ星かと思ったがそれにしては遅く、さらに普通は夜空に消えていくだけのはずの流れ星とは違い、地平線近くまで行ってもその何かが発する光は消えなかった。そして住宅街の家々のシルエットにその何かは隠れてしまった。


 ――あれはなんだ?


 疑問が湧く。あれは流れ星ではないのか。もしそうでなければ一体何なのか。もしかしたらUFOや宇宙船なんだろうか。そこまで想像したところで自分の想像が馬鹿らしくなって振り払おうとして頭を振る。


 いつもならここで自分には関係ないと思って家に帰っただろう。しかしこの時のハルキにはどうしてもあの光の正体が何かを確かめたかった。一〇〇円ショップで買った腕時計を見る。デジタル文字は夜の九時三〇分と表示していた。


 少し遅くなるかもと思いながらもいつもとは真逆の方向へと自転車を走らせる。


 この街では今より一〇年ほど前に海上に空港が作られた。開港前は都心部のベッドタウンだったこの街が経済的に大発展すると思われて多くの更地が用意され、鉄道や高速道路もわざわざ空港へ向かうルートも作られ、来る大発展の時を今か今かと待ち構えていた。しかし実際に開港してみると用意された土地にはどの企業も入ることはなく、空港自体も元々存在していた近くの別の空港にすでに定期便がある以上、ここに新しく定期便を作ることに意義を見いだせず空港も毎年赤字経営。多額の投資を援助していた自治体は大赤字を計上し、破綻一歩手前という状態だった。


 ハルキもこのことはよく知っていた。社会の授業で郷土のことを勉強するときにそう習った。今ハルキが自転車で走っているその側には使われるはずだった更地が雑草の生えた状態で放置されていた。


 そんな空港近くの街の一際大きなビルの横を通る。この街のほとんどの場所から見えるほど高い立派なビルだが、中にほとんどテナントは入っておらず、中身はすっからかんらしいとハルキは授業で聞いていた。


 このビルより更に海側へと向かうと海沿いに作られた公園がある。タイル張りの遊歩道があって昼間は犬の散歩、朝や夜にはジョギングによく使われている。その先にはビーチもあってすでに海開きも終わったこの頃は休日には子供連れやカップルたちの天国となっている。


 ハルキは公園の入り口付近に自転車から降りる。別に中に自転車で入ることはできるが、入り口には階段があって自転車では入れない。どうしても自転車で入ろうすると目の前の入り口からはかなり遠回りのルートから入らなくてはならなくなる。


 この公園はバイクや原付での侵入が禁止されているのでバイク置き場があり、ハルキはバイク置き場に自転車を置いて公園の階段を登っていく。


 何故か駆け足になる。特に誰とも競っているわけではないのに、さらにいえば何も見つからないかもしれないのに。だが自分が一番に夜空を流れたあの光る『何か』を見つけたい、そう思うと知らぬ間に走っていた。


 海沿いのフェンスまでやってくる。全速力で走ってきたためにフェンスにもたれかかって荒い息を吐く。少しうつむいて呼吸を整えてハルキは顔を上げる。


 フェンスの先には波消しブロックが積み上げられていて、その先は海原が広がっている。視界の横には空港へつながる鉄道と高速道路の橋があり、橋に設置された道路灯がオレンジ色に淡く光っている。橋の周囲はその光で、それ以外の海は夜空に昇った満月の光に照らされていた。


 そしてハルキは視界にその姿を捉える。


 それは空気抵抗のことを考えてのことか流線型のシルエットをしている。ジャンボジェット機やスペースシャトルを彷彿とさせる見た目だ。ただし大きさはかなり小さく、軽トラックほどの大きさしかなかった。そんな乗り物が夜の波間に揺られている。


 こんなのがこの辺で浮いていることがおかしいのだが、見た目が大きさを除けば飛行機などにそっくりだったのでハルキは拍子抜けした。ただそこからは別の可能性が考えられる。故障か何かで不時着したのかと考え、できる限り目を凝らしてその乗り物の表面を見てみる。しかし特に何か損傷を受けているようには見えない。


 乗り物は完全にエンジンを切っているらしく、周囲には波の音しか聞こえない。すると何も動かない乗り物がひどく不気味なものに見えてきた。そろそろ立ち去ったほうがいいかもしれないとハルキは考え出す。


 すると乗り物のハッチらしき場所が開く。それからハッチの下から足場となるような板が出てくる。中から誰かが出てくる。


 その人物は少女だった。月の光に照らされた髪の色は銀色で、長さは肩どころか腰にも届くほどだ。ライダースーツを思わせるぴっちりとした衣服を着ていて、それが少女のシルエットを強調しているようでハルキは見てはならないものを見ている気になった。ただ身長はハルキとあまり変わらないように見え、それがもしかしたら自分と同年代なのではとハルキに思わせる。


 少女と目が合う。目は青色で、顔もよく見てみればハルキと同い年ぐらいの幼い顔立ちだった。ハルキは咄嗟に目を逸らそうとするが、少女の目に視線が吸い寄せられるようで目が離せない。


 少女はハルキの姿を確認したようで、ニコッと笑うと胸元に手を当てる。


「へっ?」


 ハルキは思わず声が漏れた。


 少女の体が宙に浮いていた。別に跳び上がったわけでもなく、すーっと足裏が地面から離れて少女が浮かび上がったのだ。


 少女は一瞬ハルキの姿を睨みつけるように見ると少女の体は弾かれたように飛び、放物線を描いてハルキに近づいてくる。


 ハルキは驚いて後ずさりすると、片方の足にもう片方の足を引っ掛けて尻もちをつく。


 少女の体は地面に近づくにつれて減速していき、ハルキの目前に音もなく着地する。少女の胸元が青く光っていた。


 ハルキはなかなか立ち上がれなかった。目の前の少女が起こした現象をなんとか頭が処理しようとしていたが、どれも常識に当てはまらず脳の回路がショートしていた。


「ねえ」


 少女が声を出す。見た目に違わない澄んだ声だ。


「大丈夫? 立てる?」


 少女が手を差し伸べる。きちんと手は自分に向けられているのに、ハルキは自分が気にかけられているということに気づくのに少し時間がかかった。


「あ、うん、大丈夫」


 ハルキは少女の手を握り、少女に引っ張ってもらって立ち上がる。


「あ、あのさ……」


 「今のは一体何?」と尋ねたかったが、少女の顔を見てそれが全部引っ込んだ。さっきまでは自分と同い年ぐらいの顔としかわからなかったが、陽の光を浴びたことがないんじゃないかというほどの白い肌にどんぐりのようにくりっとした青い瞳、そして銀色の髪と神秘的でありながら年相応の可愛らしい顔だとわかる。人形のような美少女という言葉がぴったりな容姿だった。


 それに家族以外の異性にこれほど近寄られたこともなく、ハルキはどきまぎして口をパクパクさせるだけで何も言葉が出てこない。


 しかし少女は特にそれを意に介していないようだった。


「あなたって、ここに住んでる人?」


 ハルキは未だに声が出せなかったのでうんうんと首を縦に振って対応する。


「そっか」


 少女はそう言うとさらに一歩ハルキの方に踏み込む。


 そしてハルキの左頬に少女の唇が触れた。


「ひゃあぁっ!?」


 いきなりのことで素っ頓狂な声が出て後ろに飛び退くハルキ。顔が一気に真っ赤になる。


「な、ななな、何すんだよ!!」

「何って、あいさつだけど」


 あいさつでキス? とハルキは思う。確かに外国では朝起きたときにキスをするのが習慣な国があることは知っていた。しかし見ず知らずの人に対するあいさつがキスなのは普通なことなのだろうか。


「あ、あいさつでキスするなんて、聞いたことない……」


 まだ頭がクールダウンしないので少ししどろもどろになりながらも反論する。


「えっ、あたしの住んでるところだと普通なんだけど……」


 一体どこなんだろうかとハルキは思うが、少し落ち着いてきて、驚いた分の疲れがどっと出てきて尋ねる気力も失くしていた。


「ところでさ、ここで待ってたってことはあなたが地球側の使者なの?」


 疲れを感じて流しそうになったが、聞き逃がせない単語を少女は発した。地球側? 使者?


「いや、何のことか……」


 わからないと言い終わる前に、ハルキの背後から足音が聞こえてきた。それも一つではなく結構な数だった。


 現れた人物にハルキは驚いた。


「先生?」


 ハルキと少女の前に現れたのは、ハルキのクラスの担任である雨宮右京だった。そしてその周りを黒いサングラスをつけた黒服の男たちが取り巻いていた。


「そっか、地球の使者はあなたたちなのね?」


 少女の声が少し低くなり、表情からも笑顔がなくなる。神秘的な見た目も相まってさっきまでの子供っぽさが抜け、威厳すら漂わせていた。


「ええ、遅くなり申し訳ありません」


 雨宮が自分と同年代っぽい少女に敬語を使っていることに驚くハルキ。


「ようこそ、『月の姫』」


 雨宮は頭を下げる。するとそれに合わせて少女が雨宮に近づく。


「ねえ、もう少し頭を下げてくれない?」


 キスする気だとハルキは思う。しかし雨宮は少女の意図にすぐに気づいて一歩下がる。


「ここは地球ですので、特にこの国ではキスはあいさつですることは稀です」

「じゃあどういう時にするのかな?」

「いろいろですが、特別な人と特別な時以外にはあまりしないかと」

「あ、そうなんだ」


 すると少女はハルキの方を振り向いてごめんねというふうに舌を出す。その瞬間の顔は、ハルキに見せていたときのように子供っぽい表情だった。


「滞在用の館を整えております。参りましょう」

「ええ。後、一つお願いがあるの」

「なんでしょう?」

「わたしには敬語はなしでお願い。せっかく月の人間がいないんだから。堅苦しいのって嫌なの」

「善処しましょう」


 少女は雨宮に促され、黒服たちの中へと消えていく。そして雨宮はハルキの方を一瞥すると、黒服の集団たちと一緒に行ってしまった。


 ――なんだったんだ?


 地球だとか月の姫だとか普通では聞かないような言葉が飛び交い、状況の整理をしようとしてもハルキの頭はその状況に追いついていかなかった。そしてその状況を作り出した人間たちはすでにこの場からいなくなってしまっていた。


 一人だけぽつんと取り残され、今までのことが嘘のように思える。


 ハルキは自分の左頬に手を触れる。あの少女の唇の感触がすぐに思い出せた。




 ハルキが家に帰ってきたのはそれから少し後だった。アパートの扉の前に着いてから腕時計を確認すると、まだ一〇時にもなっていなかった。あれほどのことが三〇分未満の出来事だったとはにわかには信じられなかった。


 自分用の鍵を使って扉の鍵を開ける。母親が働いていて学校が終わるころにはまだ帰っていないことも多いので引っ越してからすぐに渡されたものだ。


「おかえり、遅かったじゃない」


 その声で浮ついた気分だったハルキの意識が一気に現実へ引き戻される。


 ただいまと返すことなくハルキは玄関の靴を脱ぐ。もう当たり前のことになっていて母親の陽子も咎めない。


「お風呂もう沸いてるわよ。お姉ちゃんが出たらすぐに入りな」


 陽子の言葉にぶっきらぼうにうんと返すと、ハルキは一直線に自分の部屋へ行こうとする。


「あ、そうだ。テストあったんでしょ? ちょっと見せて」


 ハルキは無言で背負っているリュックからテスト用紙を取り出す。ちょうど塾にテストの結果を見せるために持っていっていたのだった。


「お、いい感じね。お小遣い上げたげよっか?」

「別にいい」

「……そっか」


 陽子は残念そうに言う。ハルキにも無理に明るく言おうとしていたことはわかっていた。陽子はこの四年間、ずっとハルキの気を引こうと明るく声をかけるように心がけていた。


 ――かまうもんか


 陽子がどう思おうがハルキは母を許す気は毛頭なかった。


 ハルキは自分の部屋のドアを開き、明かりも点けることなくベッドに倒れ込む。いつもならここから風呂に入るまでゲームするのだが、今日はそういう気分にはなれなかった。


 ほんの三〇分ほど前のこと。今でも思い出せるが、全く現実味が湧かなかった。あの少女は一体何者なのか。少女の身に起きたあの現象は何なのか。あの後現れた雨宮は本当にいつも学校で会っているあの雨宮なのか。


 そして……


 もう一度、左頬に手を触れる。


 現実味がないことだらけでも、あの感触だけはあの時のことが現実だということを物語っていた。

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