3.月の残滓





 時間にして三日にも満たないはずだった。

 小旅行程度の時間、自宅を留守にしただけのはずだった。徹は電気もつけず、ベッドに身体を投げ出して天井を眺めていた。この時間感覚が精神疲労から来るものなのか、それとも自分にとって三日という時間が重大なものだったのか、徹にはわからなかった。

 現在、徹はワンルームマンションの一室を借りていた。コルヒエグループの本社から帰宅し、適当にシャワーを浴びた後、そのまま眠りについた。目が覚めたとき既に日が昇り始めた早朝で、カーテンの隙間から淡い日光が射し込んでいた。やわらかい光の筋に埃がチラつく。徹はそれを無感動に見る。

 徹の部屋は殺風景で、生活するのに最低限必要なものしか置かれていなかった。そのほとんども、怪人被害の補償として押しつけられたものであったり、それこそ孤児院で使っていたものを持ってきただけであった。

 元々趣味と呼べるものがなく生活に余裕のある日々ではなかった彼には、それ以外の所有物はほとんどなかった。彼のかつての一日は、学校に行き、アルバイトに出向くか、もしくは弟妹たちの相手をして過ごすものだった。

 その弟妹たちはもうおらず、彼はアルバイトも辞めた。残されたのは部屋にある僅かな物品と、高校生には有り余る預金であった。いずれ孤児院のためにと稼いだアルバイトの給料と、生存し、且つ健康であったがために渋々相続することになった孤児院の預金。それらが彼のものとなった。

 とはいえ、その残高も無限ではない。姉の入院費や治療費で着実に減っていくそれは、徹には何かのカウントダウンに思えた。

 (金はないより、ある方がいい)

 イデアルヒーローという職が、どれだけの稼ぎになるかはわからない。そもそも、あの仕事に見合う金額なんてものはあるのか。現職の彼らが、何故命をかけられるのか、徹には理解できなかった。

 上体を起こす。

 所謂ボランティア精神とやらは彼には欠片もなかったし、誰かのために身体を張れる度胸もないことは自覚していた。

 (君はそれを、二度やった)

 コルヒエの言葉がリフレインする。

 あんなもの、カウントされてたまるか。

 徹は怒りに近い苛立ちを、誰にも見られない自室で存分に発露させていた。

 彼がなんら問題のない高校生であれば、すでに制服に身を包み、登校の途をたどっていたはずの時間だった。部屋の隅に雑に置かれたブレザーを見遣る。今日も、学校に行く気にはなれなかった。

 いつも通り、パーカーをひっかけ、財布やら荷物を詰め込んだリュックを肩に背負い、自宅を出る。マンションの渡り廊下には自分の足音しか響かなかった。

 通勤時間をわずかに過ぎた午前、人通りは大分少なかった。徹は駅を目指す。学校からの逃避のために彼はほとんど毎日、電車に乗って黎の入院する病院へ足を運んでいた。午前中に姉に面会し、昼は軽食を買ってあの神社で。それが今の彼のルーチンであった。

 (お昼、どうしようかな)

 その神社は破壊されてしまった。今あの敷地がどういう状況かはわからないが、少なくとも呑気に昼食をとれる場所でなくなったことは確かだろう。ぼんやり、そう思いながら繁華街の歩道を歩いていた。

 歩いていると、徹の目は前方に見慣れた服装を見つけた。

 ――見つけてしまった。

 見慣れた色、見慣れた形、そうだ、あれは己の属する高校の――

 そう判断した瞬間、徹は近くのビルへ駆け込んでいた。

 心拍が異様に早い。いつからこんな風になってしまったのか。あの後ろ姿が誰かまではわからない。だが、その制服だけで充分だった。徹の精神を揺さぶるには、充分だった。

 半ば走るようにしていたその後ろ姿から、どうやら遅刻する生徒のようだった。普段だったら、そんな生徒にもほとんど遭遇しないのに。出る時間がいつもより早かったのか?

 自動ドアの向こう、柱に背を持たれ、徹は心臓の辺りを抑えていた。

 飛び込んだビルは駅前の雑居ビルだった。立地もあり中は綺麗で、色々な商店が構えていた。

 徹は手近な階層案内を見上げる。

 (……少し時間を潰そうかな)

 本屋に立ち寄り、気持ちを落ち着けることにした。


 午前中の本屋は静かなものだった。レンタルショップの併設されたチェーン店で、品揃えはそれなりに多かった。

 そもそも漫画もあまり読まない徹には、特にこれといって欲しい本がない。端から順に本棚を眺める。ファッション、釣り、旅行、都市伝説――雑誌の類は表紙だけで目が滑った。自己啓発本なんてもっての外、徹はタイトルだけを適当に流していく。そのうち新書の棚にたどり着く。同じように背表紙を眺める。その中に、

 (怪人の正体?)

 怪人についての本がいくつか見受けられた。

 怪人の正体など、考えたこともなかった。やつらの正体なんて考える必要があるのか?徹は一瞬首を捻る。

 (……どうだっていいだろ、あんなやつら)

 そしてその考えを振り払うように、棚の反対側へ向かう。

 棚の影で見えなかった位置に、人が立っていた。思わず、あ、と声が漏れる。それを聞いて、立っていた人物がこちらを向く。

 「あ!」

 徹はその顔に、本格的に声を上げた。

 「え?」

 相手は訝しげに返す。

 そこにいたのは、神社の階段でぶつかり、ストラップを引っかけていった男であった。

 妙にハッキリと顔を覚えていた。ストラップのことで苛立っていたからかもしれない。理由はどうでも構わないが、とにかくその男であった。

 「あぁ、あの」

 徹はリュックを漁る。――あった。

 「この前……ストラップ落としませんでしたか」

 その古びたストラップを突き出し、尋ねる。それを見ると男ははっとした顔をして、それを指さした。

 「あーっ! それそれ! それオレの! オレ探してたんだよ。拾っててくれたの? 悪ぃなぁ、ほんと感謝するわ」

 男は心底嬉しそうな顔をして言う。徹がストラップを渡すと、彼は繰り返し礼を言った。

 「この前ぶつかったときに」

 「あぁ、あの時か。いやほんと、助かったよ。結構大事なもんでさ……」

 男はストラップの状態を確かめるように眺め、ほっと息を吐くとそれをズボンのポケットに押し込んだ。あの日上から下まで真っ黒な服を着ていた彼は、今日は比較的ラフな服装をしていた。それでも、首を覆うタートルネックや長めの袖口は彼の素肌を過剰に覆い隠していた。

 徹はそれには特に、何も思わなかった。

 「……じゃあ、俺はこれで」

 軽く会釈し、立ち去ろうとする徹を男は「ちょっと」と呼び止める。

 「昼メシ……っていうか朝メシ? 食った? コーヒー1杯くらい奢らせてよ、お礼と思って」

 肩を叩かれ、時間を潰そうとしていた手前、一瞬遅れた隙に徹は拒否する間もなく同フロアのコーヒーショップへ引きずられていった。


 コーヒーショップは本屋ほどではないが、空いていた。平日の午前、学生がいない分、子供連れの母親の姿が目立った。店の壁のない、オープンなそのスペースでは、和気藹々とした空気が淀んでいた。

 半ば押しつけられるようにした甘めのカフェラテを、無感情に啜る。二人掛けのテーブル、男は正面に座って生クリームの載せられたコーヒーを幸せそうに飲んで――もはや食べる、だが――いた。

 「……っはぁ~、甘! 虫歯になりそ」

 店内の壁に掛けられたモニタは昼前のニュースを流していた。建物内にかけられている陽気なBGMと混ざり、微妙な不協和音を醸している。

 徹はポケットから携帯デバイスを取り出し、時間を確認する。学生の通りはもうないだろうが、普段であれば姉の入院先に到着している時間だった。左手に触れる紙コップから、冷たさが伝わる。自分が来ないことを、姉はどう思っているだろうか。頭によぎった疑問を、すぐに振り払う。

 ――もはや、姉に他者を気にする心があるかどうかもわからない。

 結露に濡れる指を服の裾で拭い、また一口カフェラテを啜った。

 「聞いてる?」

 男に顔を覗き込まれ、徹はハッとする。何も聞いていなかった。そもそも何か話していたのか?

 「すいません」

 「えー、いいけどさ……」

 彼は不満そうに生クリームを口に運んだ。

 「何の話でしたっけ」

 「あの後だよ、ぶつかった後。なんかでかい爆発あったっぽいけど平気だった? 的な話をした」

 あぁそうか、この人は巻き込まれなくて済んだんだな、と内心小さくほっとする。ただ、

 「大丈夫でしたよ、かすり傷くらいで」

 なんとなく、本当のことは言わなかった。

 男は「そっかー、よかった」と笑った。

 徹はぼんやり、その男の容姿を改めて眺める。顔立ちはかなり整った方だ。20代前半と言うところか。背も高く、180はあるだろう。徹は心の中で、(モテるんだろな)と舌打ちした。

 それと同時に、(兄がいたらこのくらいの歳になるのかな)と、意味の無い想像を膨らませていた。

 「何、オレの顔なんかついてる? 生クリームとかかな」

 口の周りを触って確かめる彼に、徹は思わず小さく笑った。

 「別に」

 「なんだよ」

 すれ違っただけの関係、互いに名乗ってすらいないが、匿名SNSが浸透している社会では、それは特段珍しいことではなかった。

 秋の深まったこの時期、冷たい飲み物はなかなか減らなかった。紙コップの蓋を開け、中を見る。細かい氷がまだ液体の色を反映している。徹は無意味にストローでそれを引っかき回した。

 (何やってんだろうな)

 現在の状況に、嘆息を漏らす。見ず知らずの青年にストラップを届けただけなのに、気付けば飲み物を奢られている。当の青年は相変わらずなので、もしや単に付き合わされただけなのではとすら思い始めた。

 特に話題もなく蓋を元に戻し、視線を店内のモニタに移す。本当に何の気無しの行動だったが、その直後にキャスターが慌ただしそうにニュースの読み上げをやめた。

 『ニュースの途中ですが速報です』

 画面が切り替わる。映されたのは野外イベントの会場のようだった。

 『怪人が出現しました』

 切迫するような声色でキャスターが続ける。徹は咥えていたストローを歯で潰した。

 中継のカメラは上空から、会場を映している。多くの人が逃げ惑い、1つの大きな影が暴れているのが見えた。

 会場には見覚えがあった。ここからそう遠くない、電車で数駅離れた程度の所だ。テロップで電車の緊急停止情報が流れる。

 「いつからこんなん、始まったんだろな」

 男が、顔から笑みを消してモニタを見ていた。

 (私たちの仕事は怪人の鎮圧と……中継による、怪人の脅威に対する危機感のプロパガンダ)

 舞穂の言葉を思い出す。

 その瞬間こそはなるほどとも思ったが、改めてこんな映像を見ると多少の違和感がないこともない。ただ、徹はこの光景を幼い頃から見慣れすぎていた。

 唐突に、モニタの下に集まっていた子ども達から歓声が上がる。

 「マホちゃんだ!」

 徹は何か察した顔でカフェラテを啜る。

 が、

 『みんなの味方! 魔法少女☆マホ参上! 覚悟なさい、悪の怪人!』

 モニタから聞こえた声に噎せ込んだ。

 (や、やっぱり……)

 これが“オン”というやつか。

 中継される魔法少女マホ、もとい、舞穂はメガネを外し、高い位置のツインテールをなびかせ、フリルの多い衣装を身に纏っていた。それでも、動きを阻害しない程度にシルエットはスマートであった。

 また、その手には銃のような形のイデアルウェポンが握られている。彼女に呼応し、発光している。舞穂は逃げる人々を庇いつつ、怪人と一定の距離を保っているように見えた。

 (うーん、魔法に見えなくも……ないかな……)

 イデアルウェポンから射出されるのは実弾のようには思えなかった。何故なら、その軌道が徹にはハッキリと追えたからだ。

 緩やかな曲線を描く光の軌道が、怪人を追うように曲がる。急角度に曲がることはなくとも、怪人はその弾を避けることが出来なかった。

 「オレさぁ」

 何故か体勢を低くしている男が微かににやけながら言う。

 「マホちゃん結構かわいいと思うんだよね」

 「モニタなんですから見えませんよ」

 わかってるよ、と多少照れくさそうに男は姿勢を戻した。

 舞穂は撮影用のドローンが近づく度、カメラに向かって目線を投げていた。徹はその姿に眉をひそめ、またストローを噛み、ぼやく。

 「真面目に戦ってるんですかね」

 「スター性があっていいじゃんか。オレは好きだぜ、ちゃんとヒーローしてる感じがあって」

 まぁ、確かに……と、徹は外見にはヒーローっぽさの欠片もない恵吾と比べていた。

 その内、舞穂は人々の退避がある程度済んだことを確認し、イデアルウェポンをさらに呼応させる。これまでとは比にならない大きさの光の弾が放たれ、その衝撃でドローンが一瞬揺れる。映像が補正された頃には怪人の角が吹き飛び、その姿が粒子となり消滅するところであった。子ども達から再び歓声があがった。

 舞穂は接近したドローンに向かって勝利のポーズを決めていた。

 「うーん、かわいい」

 「そうですかね」

 「かわいいだろ」

 “オフ”の彼女を見てしまった徹には、どうにも同意しきれなかった。そもそも、年下の徹にとっては、年上の女性のコスプレ姿に見えていた。

 「あれも仕事なんですかね……」

 「ええ?」

 男は間抜けな顔で徹を見る。

 「なに、君イデアルヒーローになりたいとか?」

 「え、ち、違いますよ」

 徹は妙な焦りから紙コップを握る手に力を入れた。

 「ただ、その、気になるってだけで」

 ふーん、と男はにやけ顔を深める。

 「でもさ、あれが仕事だったとして、関係ある?」

 「え?」

 「見てる側にとってはさ……見えてるもんが正解なんだから、素直に受け止めれば良いんじゃねえの、って思うねオレは。それが真実だろうが嘘だろうがは、あんまり関係ねえんじゃねえかなぁ。

 それともあれ? 君って陰謀論とか都市伝説とか好きなタイプ?」

 「そういうわけでは……」

 「じゃあもう、知りたいなら飛び込んでいくしかねえし、それもしないなら妙に疑ったりしない方がいいぜ、疲れるだけだ。素直にマホちゃんかわいいな~つって生中継特有のハプニング期待しながらパンチラ探して、みんなを守ってくれてるヒーローにちょっと感謝するくらいでいいんだよ」

 「そんなもん……なんですかね」

 彼の言うことも一つの視点であることは(ハプニングとパンチラはともかく)間違いなかった。徹はカフェラテの最後の一口を飲み込み、すでにスタジオのカメラに切り替わったニュース番組を眺めた。集まっていた子ども達ももう散らばっていた。時計の針はもう正午を指そうとしていた。

 「やべ、ダラダラ捕まえちまって悪いな、どっか行くんだったんだろ?」

 時間に気付いた男が言う。

 「平気ですよ、どうせ電車も止まってただろうし……もう再開したかな」

 遅延情報のテロップはすでに運行開始の文字を表示していた。徹は座席を立つ。

 男も立ち上がりつつ、コップに残った氷をいくつか口に流し込むと、噛み砕いた。

 ぶらぶらとビルの出口まで共に歩くと、不意に男が言う。

 「あぁそだ。榮兎」

 「えい?」

 「オレの名前! 八十上榮兎やそがみ えいとつんだ、昔からオレ自己紹介とかすっ飛ばして話進めちまうんだけどよくねぇよなぁ、折角だしさ」

 「はぁ……」

 何が折角なのかはわからなかったが、

 「俺は……有栖川徹、です」

 反射的に返していた。

 下の名前を聞いた瞬間、榮兎が何か言いたげにしたが、結局何も言わずに終わった。これ以降彼に会うかどうかもわからないのに、奇妙な出会いをしたものだと徹はぼんやり思う。

 終始軽い調子の彼との時間は、ここ数日ぶりに肩の力が抜けていたように思えた。

 榮兎と別れた徹は、周囲への警戒のことなどすっかり忘れ、駅へと歩みを進めていた。



 **********



 繁華街を一歩逸れた薄暗い路地、いつからあるのかも不明な水溜まりを避けることもせず、靴を汚しながら榮兎は歩む。その先には、壁を背もたれにして待つようにしていた、痩せた女の姿があった。

 「アンタ、頭おかしくなったのかい?」

 すれ違い様、かすれた声で女が声をかける。

 「何が?」

 「なんだいよ、あれは」

 女は溜息をつく。

 「何もクソもねえだろ」

 榮兎の顔に笑みはない。

 「楽しかったかい?」

 「別に。名を知れた、それでいいだろ」

 二人の視線が、薄暗がりで交差することはない。

 「アンタはもう少し賢明で慎重だと思ってたよ」

 「買い被りすぎだ。オレはあの人じゃない」

 「あの男の子もアルテミスじゃないよ」

 勢いよく榮兎は振り返る。僅かに眉に皺を寄せ、咎めるような視線で女を見た。

 当の女はそれになんの反応もしない。ただ、その目を見つめ返すだけだった。

 「あの子は被害者、どっちかと言えばさ」

 しばし見つめあい、女は溜息をつきながら視線を外した。

 「言いたいことはそれだけか?」

 「無限にあるからこれだけで済ませてやってるんだ、感謝しなよ」

 榮兎はそれ以上返すことなく、舌打ちだけを残して路地から立ち去った。



 **********



 運転間隔の狭い都会の電車は、昼間というのもあり運転再開の直後でも比較的空いていた。都心を離れるような向きの電車に揺られ、数駅を経過する。

 人影の少ない小さな駅に徹は降り、深呼吸する。人混みのざわめきもなく、繁華街に比べたらよほど緑の多い光景に、気持ちが軽くなる。

 普段より日が高い。それだけで少しばかり表情の変わった、見慣れた駅のプラットホームを一通り眺め、徹は姉の入院する病院へと、歩みを進めた。




 

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