最後の夏に
武上 晴生
高校最後の夏の日に。
目を開くと、そこには青空だけが延々と広がっていた。そよ風に揺られた雑草が、ほほを優しくなでる。
ゆっくりと身体を起こしてやる。
次第に聴覚が戻ってきて、すぐ耳元に、川のせせらぎが感じられた。全身が濡れ鼠になっていることにも、ようやく気づく。
ここは、どこだろう。
一体、なにをしていたんだろう。
茫然としていると、
「あ、気がついた?」
人間の声がした。
見ると、目の前に、白いワンピースを身にまとった可憐な少女が立っている。
……いつか、どこかで会ったことがあるような気がした。でも、いくら想い出そうとしても、どこにも姿が見当たらない。
「きみ、溺れてたんだよ」
*
「じゃあきみは、都会に疲れちゃったから川に飛び込んだの?」
少女は長い黒髪を揺らしながら、ゆらゆらと歩く。
粗雑な身なりのこちらとは、あまりにも似つかわしくない。これじゃ側から見たらストーカーとでも思われかねないな、と顔を背ける。
「だいたい合ってる。都会の高校なんか向かなかったんだよ。」
「ふーん。都会、良いと思うけどなぁ。面白いもの、いっぱいあるじゃん。」
「そんな良いもんじゃないって。」
無垢な少女の回答に、思わず口が開いてしまった。少し間をとって、言葉を探してから、せりふをつなぐ。
「……だって、考えてもごらん?
正気のない人間の群れとか、一面のコンクリートとか。どこに行っても景色はグレーで、唯一の頼みの空だって黄みがかっている。気が滅入ってしまうだろう。」
「ふーん。大変だねぇ。」
相変わらず興味がなさそうだ。諦めて溜め息をつく。少女は気にせず、石っころを蹴飛ばしていた。石は蹴られるたびに不規則に転がる。最後は川にポシャンと落ちてしまった。
あーあ、と呟き、少女はさも残念そうに川を眺める。
そして何を思ったのか、くるりと振り返ると、
「ねぇ、ちょっと遊びにいこうよ」
腕を強引に引っ張った。
「え? 待って受験生だしそんな時間は……」
その声は、風に吹かれて、どこかに流れて消えてしまった。
**
少女が足を止めたのは、大きな池のある公園だった。
小さい頃、よく訪れて遊んでいた記憶が目を覚ます。
「じゃーん! ここに、丸い石があります。
さて、わたしは何をして遊びたいのでしょうか?」
少女は両手の円盤状の石を見せびらかし、楽しそうに身体を揺らしている。
対照的に、棒立ちで冷め切った表情は質問に愚直に答える。
「水切り。」
「大正解! 特別に、きみにもこの石を授けよう! 受け取りたまえ!」
「あ、どうも……。あの言っとくけど、さんさらやる気ないからね?」
「じゃあ、わたし先攻ね。回数の多い方が勝ちの一本勝負、いくよ!」
言い切る前に、少女はリズムよく助走をつけると、しなやかな白い腕をぶんと振り切る。細い指先から飛び出した石っころは、水面に一つ、二つ、三つ……と波紋をつくりながら、低空飛行を保ち、水面を滑ってゆく。輪っかをつくる速度があがってきたところで、ついに対岸にまで乗り上げてしまった。
「やったぁ! 自己ベスト更新ッ! どうだった? すごいでしょ??」
はしゃぐ少女に、拍手を送る。
「十三回。すごいね。優勝かつ不戦勝、おめでとう。」
「じゃあ次、きみの番だよ! ほら早く早く!」
「今やらないって言ったじゃんか……」
どうやら試合は強制らしい。大きくため息をつく。
自分の運動音痴は重々承知。物を投げるのは携帯くらい。もう最近はほとんど歩いてすらいない。ましてや水切りなど、生まれてこの方やったことはない。テレビで映像を少し見たかどうかだ。身の程を弁えた正常な判断を尊重してほしいものだというわがままな主張が体内で喚き立てる。
しかし、このまま後ろを向いて帰るのも気まずい。幸い今は2人だけ。仕方がないので、ありったけの知識を掘り起こしながら、素振りをしてみる。
手首のスナップを利かせ、石に回転をかけること。水面と石との角度は二十度に保つこと……。
ふっと投げ出した。
しかし、放たれた石は、無様な放物線を描いて垂直に着水。そのまま池の底へと消えてしまった。
「だから言ったろう、勝負するほどでもないって。」
振り向きつつ愚痴を言う。と、少女は腹を抱えて小刻みに震えていた。
「ふっ、ふふふ、あはははは、あはは、あー、おっかしい。
ひひ、0回。きみ、0回だったよ。あはは、はは、あはははは」
……いや、さすがに酷くない? 怒るよ? 鼻で笑うならまだしも……爆笑。
まあ、まさかここまで笑われるとも思っていなかったわけで、逆に清々しい気がしないわけでもない。思えば、人が目の前で心地よく爆笑する姿も、そうそう拝めるもんじゃない。
「いや、せめて最初に練習くらいはさせてくれたってさぁ……。
次、先攻やってやるから、やり方教えなよ」
「もちろん教えますとも!」
少女は、自分の胸をトンと叩いた。
***
「あ、シロツメクサ。」
水切り用の石を探していたとき、ふと目に留まった。
「シロツメクサ?」
少女も興味深そうに寄ってくる。
「そう。小さな丸っこい白い花を咲かせるマメ科の多年草。見たことはあるんじゃない? ほら、よくこの花を摘んで冠を編んだりするよね。」
「ふーん?」
「んーとあと、普通は三つ葉なんだけど、たまに突然変異で四つ葉が現れるのも有名だね。」
「あっ四つ葉のクローバー! わたし、あんまり見たことないんだよねぇ。探してみる!」
そう言うと、少女はしゃがみこんで、ジッと草むらを睨んだ。私も少女の隣にしゃがんで、探してみることにした。
まだ高い太陽にそぐわない、夕陽の淡い色が眼前に浮かぶ。幼い頃の、地元以外の外の世界を知らない時代、日が暮れるまでずっとこうしていたのが思い出されたのかもしれない。隣に人がいるのは、新鮮だった。
「あ、みてこれ、六つ葉!」
ぶちっという音とともに、少女が元気よく立ち上がる。が、すぐにへなへなと座り込んでしまった。
「……じゃなかった、三つ葉が重なってるだけじゃん」
うなだれてあからさまにがっかりしている。脳内で、水切りのときのあの生き生きとした動きとを重ねてみた。差が激しすぎる。まるで別人だ。つい噴き出す。
「何よ、笑わないでよぅ!」
「ふふ、申し訳ない。」
膨らむ少女に、片手を上げて謝罪の意を示す。
「まー、でもよくあるよね、そういうこと。
でも本当に六つ葉が生えていることもあるし、頑張れば見つかるんじゃない?」
「へー、葉っぱってそんなにできるものなんだ」
「なんなら世界最高記録は五十六枚だし」
「え! 何それすごい! 意味わかんない!」
少女が目を丸くした。摘んだ葉をまとめて、こんな感じ? とこちらに向ける。だいたい合ってる、と笑った。
「ただ、自然界じゃあまず出てこないよ。枚数を増やそうと交配させた努力の結果だから。」
また下を向き、四つ葉を探しながら答えると、
「きみ、物知りだね。」
少女が微笑むのが見えた。調子に乗ってメガネをクイと持ち上げる。
「腐っても高校生ですから。」
少女は拍手をしながら笑った。
それから少しして、また少女が突然立ち上がった。
「あ、四つ葉みぃっけ! これでわたしも幸せもんだぁ!」
ついに先を越されてしまった。これに関しては自信があったのに。そのとき、ふと足元に慣れない形が見えた。
「きみは? 収穫あった?」
「……五つ葉見つけちゃったよ。不吉だな。」
「え? 五つ葉ってもっともっと幸せがくるんじゃないの?」
「んー、奇数はあんまり宜しくないみたいに昔聞いたんだけど。あんま知らない。」
「じゃあ、わたしが五つ葉の意味を考えてあげる!」
少女は腕を組んで考え始めた。
その間に私は少女の摘んだ四つ葉と、自分の五つ葉をそれぞれティッシュでくるんでやる。
「そうだ! 『五つ葉を見つけた人は、五日後に良いことが起こります。』
どう? なかなかいい感じじゃない?」
クルクルと嬉しそうに回る少女に、四つ葉入りのティッシュを渡しながら答えた。
「ふーん? 面白いじゃん。五日後を楽しみにしてるよ」
****
空が真っ赤に染まった頃、五時半のチャイムが鳴った。
「じゃあわたし、そろそろ行かなきゃ。」
少女はスクッと立ち上がると、大きな黒い瞳をこちらに向けた。
今の今までちゃんと見ていなかった。少女の目は、無邪気で透き通っているのに、どことなく哀愁を帯びていた。
陽の赤さがそうさせているのかもしれない。
「今日は本当にありがとう。また会えると良いね。」
精一杯の感謝を伝えると、少女はくすっと笑って、
「じゃあね。」
たった一言を残して、行ってしまった。
いつでもまた会えるような気もするし、もう二度と会えないようにも思えた。
* ***
「ただいま。」
家に戻ると、家族はまだ誰も帰って来ていなかった。勉強でもしようかと自分の部屋に入る。机の上に、原稿用紙が散乱していた。そうだ。そういえば憂さ晴らしに小説なんか書いてたんだっけ。なんとなく拾って読んでみる。
いつ見ても恥ずかしい稚拙な文章。ネットで調べた語彙をとってつけたような代物を、意識を宙に浮かしながら見る。何の収穫もないな、と用紙を畳もうとした、そのとき。
最後の一文が、目が留まった。
『可憐な少女は、別れを告げると、川の流れに身を投げ出した。』
彼女の、「じゃあね。」が、脳内に響く。
五つ葉のクローバーを握りしめて、一人、力なく崩れ落ちた。
*****
それから、五日が経った。
何を期待しているのか、あれから学校帰りは川沿いを歩くようにしている。
川面で遊ぶ積雲の群れ。次は、その中で寝ている少女の話でも描こうか。
季節の流れの中で、白い花はぽつりぽつりと姿を消していく。
今日もまた部屋に戻って、気休めに本を開く。栞には、押し葉にした五つ葉のクローバーを使っていた。
「ねぇ、遊ぼうよ。」
驚いて、振り返る。
柔らかな日差しの中、開け放たれた窓。
吹き込んだそよ風で、真っ白なカーテンが無邪気に揺れていた。
最後の夏に 武上 晴生 @haru_takeue
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