高須くんの耳

うさぎやすぽん

高須くんの耳

 高須くんの耳



 少女漫画は嫌いだけど高須くんのことは好き。


 高須くんの髪は、本当にシルクで出来ているんじゃないかってさらさらしてるし、教室の埃は全て跳ね返してるんじゃないかって思う。どこもかしこも剥げたり錆びたりそんな感じの埃っぽい教室の中でも、高須くんの髪だけは本当につやつやとして、ぴかん、って光っている。

 顔立ちも地味で眉毛も太いけど、目はくりっとしていて、鼻も高くはないんだけど整っているし、何より耳の形が好き。小さな耳なんだけど、陰影が完璧で、くっきりと存在感があって、ちょっとでも触れば壊れちゃうんじゃないかってぐらい、高須くんの耳は整った形をしていて、零点一ミリでも誰かが動かしたら私は許さない。絶対に許さない。だからクラスの男子とじゃれあってる高須くんを見るといつもハラハラする。やめて。高須くんの髪を汚さないで。高須くんの耳を壊さないで。その瞬間だけ息が詰まるし、一秒が経つのがとてつもなく遅く感じる。もうやめて。でも言わない。そんなことは言わない。だって私は何より高須くんが好きだから。

 


 昼休み、私はいつものように教室の私の席でお弁当を食べている。私の席は窓際の前から四列目の席で、前の席ではクラスの女子グループがいて、私みたいな奴がいたらちょっと空気が悪くなるから私は早くどいたほうが良いんじゃないかって思うけど、そうとはいってもここは私の席なわけで私がここでお弁当を食べる権利はあるし、なにより、教卓の前当たりでわらわらと集まってる男子グループ、その中にいる高須くんが私の視界に入るもんだから絶対に譲れるわけもない。本当は高須くんがどんなことを話しているのか気になるのだけど、前の女子のどうでもいい話ばっかり聞こえてくるから聞こえなくて鬱陶しい。

「てかさあ、ウチの班の小杉さあ」「また小杉何かしたん?」「全然働かへんねん」「わかるー」「マジキレそう、あー、新しい靴欲しい」「私も夏服欲しー」「前、OPAにあったのめっちゃ可愛かってん、ワンピ」「えっ、どこのどこの」「えーっ、どこのやっけ」「おばあちゃんやん」「もうババアやわババア。この年なったら」「わかるー」

 そんな喋るようなことでもないことを彼女らはぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋ってて、それは多分男子も一緒で、高須くんはだからいつもそんなに喋ることなくて、あの席で、ニコニコと誰かの話を聞いて頷いたりしている。だから高須くんは凄い。私はそういう風なところにいると、どうしても居心地の悪さというか、たとえ話に混じっていても、私だけちょっとだけ言葉が違うところで喋っているような気がしてきて、通じ合ってるはずなんだけど、私だけ違う、私だけダメなんじゃないか? っていう孤独感を感じてしまって、むかむかと喉の奥辺りがしてしまう。でも高須くんはニコニコしている。髪をつやつやさせて、その綺麗な耳を持ったまま。でも高須くんがそうとはいってもどうでもいい話をするようなタイプじゃないってことも私は知っている。

高須くんはちょっと地味な感じなのに、軽音楽部に入っていて、それでクラスの中心的な男子がギターボーカルを務めるバンド「スヌーピー・チリ・ペッパー」でサイドギターを務めている。そのバンドは学祭や近くのライブハウスの高校生イベントで、ラッドウィンプスとかカナブーンとかのコピーをやってて、それはもうボーカルの室伏くんとかベースの小嶋くんとかはキャーキャー言われてて、高須くんもやっぱりギターを弾いてるところはとてもかっこいいから女の子に人気があるんだけど、そんな女子は結局高須くんのことをなんにもわかっていない。だって、ギターのサウンドチェックをする高須くんは、その愛用のフェンダージャパンのサンバーストのジャズマスター(かっこいい!)で、いつも鳴らすリフがチョモランマ・トマトの「through your reality」って曲のリフだってことを誰も気づいてはいないのだから。本当は高須くんは、みんなには合わせているんだけど、自意識と自分らしさの塊なのだ。本当は自分を主張したくてたまらないのだ。そこが可愛くてかっこよくて私は好き。

私はじっと、でも、向こうは私が高須くんのことを見ているかなんてわからないような目で高須くんを見ている。高須くんはいつものように、ニコニコニコニコ笑っている。可愛い可愛い高須くん。いつまでも見ていたい。ああ、前の女が鬱陶しい。ねえ、絶対あなたは高須くんを見ないでね。高須くんのことを知った風な顔で喋らないでね。鬱陶しいものもあるけれど、私はこうやって高須くんの横顔をじっと見ていられるこの昼休みが一番好きだ。



エリコは私の小学生のときからの友達で、毎週土曜にずっと遊んでいたものだから、今でもこうしてその関係をずるずるずるずる引きずっているみたいにして私と週末に遊びに行ったりお茶をしに行ったりする。その日も私とエリコは一緒に河原町のタワーレコードに行く約束をしていたし、一緒に三条通のリプトンでケーキを食べた。リプトンの店内は、外から見たらまるでおとぎの国の世界のお城の中なんじゃないかって感じの輝き方をしているんだけど、店内はがやがやとしているせいか、案外普通のカフェみたいな感じ。床が大理石とかだったらいいのに、なんて思うけれど、そうじゃなくてよく見るようなパステルカラーのタイル、椅子もふかふかのソファとかじゃなくて、ビニールみたいな素材の四角い椅子で、せめて茶器ぐらいはと思ったのに、なんだかそっけないカップとティーポット。でも苺のショートケーキは幻想の雪みたいに真っ白な生クリームが並み一つ立たせることなく、どこまでも続くような平面を作っていて、そしてその上にちょこんと、鮮やかで完璧な曲線を作ったお人形さんのような苺が乗っていて、どこまでも見事なそのショートケーキが私は大好きだけど、いつも食べるのが勿体なく感じてしまって注文してしまって後悔する。本当はフォークを入れたくない。形を潰して私の口の中にいれてぐしゃぐしゃに、唾液まみれなんかにしたくない。ずっと見ていたいけどそうは言っても仕方ないしお腹も減るから食べてしまう。なんだかそれだけで罪悪感があって、エリコが好きだから私もここに来るけれどいつも家に帰ったら沈んだ気持ちになってる気がする。それならショートケーキ以外のものを食べたかったなと思う。それかアンリシャルパンティエとかマールブランシュとかで買って家で食べるとあんまり完璧に見えないようなショートケーキを食べたかったなと思う。でもやっぱり私はお店で食べるとなるといつもショートケーキばかり注文してしまう。

「アズサ、で、今回の高須くん情報は?」

 エリコはふわふわとした長い黒髪を二つくくりにしてお下げにしていて、洋服も大丸のジルバイでお母さんに買ってもらったようなガーリーなもので、その日も着ていた前開きの大きなボタンがぷちぷちとついていた、小さな花柄模様の白い半袖ワンピがとても可愛くて、このリプトンの店内にはよく映えた。エリコはとっても女の子らしくて、私とはまるで違ってちゃんとお化粧もするし、マツエクだってして小学生の頃からはぐんと垢抜けた。私は洋服とかは好きっちゃ好きだけど、今着ているのだってメルカリで買ったネネットの白いパーカーにこれまたメルカリで買ったメルシーボークーのネイビーのサルエルパンツ。靴はリーガルのスニーカーで(流石にこれはお母さんに買ってもらったけど)、エリコのガーリーな感じとは真逆のファッションだ。それでもエリコとはなんというかそれでもこんな私と仲良く出来て、私も私でエリコのことがどうして好きなのかはあんまりよくわかってない。でもなんとなくあるのは、私もエリコも最終的にお互いのことをどうでもいいと思っているような感じ。距離があるっていうよりも、距離は近いんだけど壁があるって感じ。だから仲良く出来ているんだと思う。

「この前なぁ、クラスの女子がな、高須くんにちょっかいをかけて頭を撫でてん。私、美術の時間は高須くんと席が近いからな、話まで聞こえてくるねんな。そしてら高須くんが、さっ、って手を払いのけてん」

「えっ、そんなことするん?」

「そしたらな、ちょっと嫌そうなニコニコ顔でな、俺今日リンスしてへんねん、って言っててな、うわっ、かわいーっ、って」

「なんやそれ、わからんわ」

「リンスしてへんこととかどうでもええのに主張してくんのがめちゃかわいいやん」

 私はいっつもエリコと会うとエリコに高須くんのことを話している。そんなエリコは私の高須くんの話を聞くのがどうやら好きみたいで、いつもその可愛らしい服の上についた可愛らしい顔をニコニコさせて聞いてくる。きっとその顔はエリコがいっつもエリコの周りに振りまいているエリコのニコニコで、きっとエリコの彼氏の古谷くんもそのエリコのニコニコが好きになったんだと思う。

「そんなに好きやったらさあ、アタックしてみたいと思わへんの?」

 そしてそのニコニコをいっつも崩さずにエリコはこんなことを言う。こんなことを言うエリコは私のことをやっぱりなんにもわかってなくて結局どうでもいいと思ってるから言えるんだろうけど、私はそれがわかっているから別に凹んだり憤ったりもしない。ただ流されないように反抗するだけだ。

「そんなんちゃうもん。私は別に高須くんとどうこうなりたいわけちゃうもん」

「話してみたらそんなことなくなるて」

「嫌や。話したくない」

「またアズサの変なとこ出てきた。好きやん、高須くんのこと」

「好きやで。好きやけどさあ、そんなんちゃうねん」

「そんなんってなに? 彼氏にしたいっておもわへんの?」

 ほれきた。

「思わへん。関わりたいとも思わへん」

「でも、恋やん、それ」

「恋ちゃう。それはエリコが自分の彼氏に思ってるやつやろ」

「私だって、最初古谷くんと話すとき怖かったけど、好きが怖いを勝ることもあるもんやで。好きな人と話したり触れ合ったりするのってほんまに幸せやもん」

 そんなことをエリコはこのリプトンの店内で言うと、やっぱりエリコは可愛いな、って思うし、きっと似合っていることだろう。でもエリコと私はやっぱり分かり合えない。私の思いを恋なんて言葉で片づけるエリコはなんにも分かってない。だから私は少女漫画が嫌い。愛だの恋だのなんだの言っちゃうアレが嫌い。きっとみんな愛だの恋だのなんだの言うのが好きなのだろうけど私は嫌い。可愛いとは思うけど絶対に私はそうはなりたくない。本当はリプトンの中にだって入りたくない。でも、私はショートケーキが好きだから、仕方なく、このがやがやと女の子とたちがどうでもいい言葉を交わし合う店内に入ってしまう。



 エリコと四条駅で別れたあと、どうしてもタワーレコードにもう一度一人で行きたくなって、私は四条通を人と人との合間をするする抜けるようにしてOPAの方へと向かった。エレベーターの中で三階とか四階のボタンを押す女の子と違って九階のボタンを押すのは居心地が悪いけどちょっと優越感があってタワーレコードが九階にあって良かったなと思う。タワーレコードの店内はCDとかDVDがうるさいくらいにあって、棚だけじゃなくて壁にもぎっちり貼り付けられてるんじゃないかっていつも思う。あてもなく私は灰色の棚をすっと抜けてふらふらしていたら、DEDEMOUSEが最近新譜を出したっぽくて、試聴コーナーで試し聴きが出来るみたいだったし、ちょっと前から気になってたから、ヘッドホンをつけて六番のボタンを押した。

 思ってたのとちょっと違う、そんな風なことを思ってどこを見ていいかわかんなくなって、ふと邦ロックのところの棚が視界に入った。

 高須くん。

 えっ、なんで、なんで高須くん、ってもうそこからは聴いていた曲とかなんにも聞こえなくなって、高須くん、高須くん、と私の頭の中で聞こえる私の声でいっぱいいっぱいになって、そりゃ当然日曜日の午後に高須くんも出かけることはあるだろうし、なんだって軽音楽部に入ってるぐらいなんだから音楽も好きなはずでタワーレコードに来てもおかしくない、でも私は今ここに高須くんがいるということが全く受け入れられない、なんで、どうして、と誰にでもなく理由を問い詰めていて、気持ちは落ち着くどころか、どんどん語感がなくなっていく感じ、ヘッドホンを当てている耳とかCD屋さんのちょっと不思議な匂いだとかエアコンの効いた店内の肌寒さとかどんどん消えてなくなっていって、残ったのは高須くんだけ、私の目に映る、いつものようにつやつやの髪、ちょっと太い眉毛、くりっとした眼、整った鼻、そしてあの完璧な耳の高須くんが、知らない眼鏡の外国人のおじさんがプリントされたTシャツにデニム、黒のスタンスミスにそして紫のリュックという姿で私のすぐそこにいたのだ。

 私はなんとか俯いて、それでも高須くんからは目を離せなかったのだけれど、自分の顔がばれないようにと、そこから存在が消えてしまうようにと息を止めた。呼吸をしなくても生きていけるんじゃないかってぐらい、不思議と息は苦しくなくて、ただ胸の奥をぎゅうっ、と締め付けられるような苦しさがずっとあって、どうしようもなく、高須くんはどんどんと近づいてきて、それでも目が離せなくて、あの耳の影がくっきりと見えるぐらいの距離にきて、高須くんのすぐ近くになった新譜のポップをじっと見てCDに手を伸ばしてそのケースの裏面を見ている。高須くんの手首と腕は細くてか弱い。首からも浮いた筋とか鎖骨だとかがくっきり見えて、その日に少しだけ焼けた肌色がじりじりと目に焼き付いて、多分もう目を閉じても高須くんの腕の色がまぶたの裏にこびりついている。そして高須くんはCDを棚に戻してまた私の方に近づいてくる。

ああ、高須くんが私のことを知らなかったらいいのに。クラスは一緒だとわかっていても私のことは顔もわからなかったらいいのに、なんて思ってとうとう高須くんのことが見られなくなって、そして再生中の試聴機にヘッドホンを投げつけるようにして耳から外して、急いでトートバッグを抱え直してタワーレコードの入り口に、走ると目立って困るからなるべく早歩きで向かった。本当は高須くんが見ていた、あの黒のジャケットのCDが何か気になっていたけど、そんなもの確認する暇もない。私はそこから出ること、これから高須くんが行くところに私がいないことだけを願って外に出た。



 平穏な朝が来てよかった。朝起きて真っ先に思ったのがそれで、あのとき私がタワーレコードで高須くんと出会ってしまったから世界が終わっていたらどうしよう、なんてその夜はなかなか寝付けなかったのだけど、いつの間にか眠っていて、なんの夢を見たのか忘れたぐらいで、朝になったら普通にお日様が出ていて、登校中に見た猫も私のことなんて知らんみたいな顔して歩いていた。

 タワーレコードで私が高須くんに出会ったことは、そのあとにしたエリコとのLINEでも言えなくて、言ったらそれで何もかもが崩れちゃうんじゃないかって思った。私の座っているソファがボロボロに、まるで元は泥で出来たんじゃないかってひび割れ方をして崩れてしまうんじゃないか、私はそしてふわりと浮いて、ヒビの入ったフローリングから奈落の底に突き落とされるんじゃないかって思って、なんにも言えなくて、今日食べたケーキの写真を送ったり、エリコがお風呂に入るって言うまで、別にたいしたことじゃないエリコの彼氏の話を延々と聞いたりしてて、私がそれにボケてエリコがツッコムみたいな感じで、平常運転でそれにすら私は安心したものだ。そしてなにより一番安心したのは翌朝見てもそのLINEの履歴がちゃんとあったこと。今日もいつものような日が来ると思った。

 そんな感じで安心して朝、教室に向かう廊下、陽があんまり届かなくて暗くなった北階段を上って、二年生の教室の並ぶ廊下に来たとき、細い廊下には大きな窓が何枚も並ぶ窓側に女子が何人も固まって話をしていて、そして教室側にはその下が埃まみれになっているのが遠目にもわかる傘立てに二本、閉じられてない柄の錆びたビニール傘があって、そしてすうっ、と長く続く、茶色と、緑と、そして陽の光で構成された廊下の先に目をやったそのとき、くいっ、と制鞄を引っ張られて、私は思わず姿勢を崩した。

「江上さん」

 そんなわけあってたまるか、なんて意気地になって振り返ることが出来なかったはずなんだけど、姿勢を崩したせいで重心がどうなったのか自分でも分からず思わず振り返ってしまっていて、そして、私の視界に、高須くんが正面に映って、なんとその高須くんは私をじっと見ていた。

「おはよう」

 ちょっと照れたように高須くんはニコニコとしていて、ああっ、と言って掴みっぱなしだった私の鞄を手から離して、そのまま手持無沙汰になったのだろうか、その右手、白シャツからすっと伸びる腕の先についたその細い手首と手を、首の後ろにやって、ごめんごめん、と言った。

「おは、よう」

 やめて私。本当は今すぐ逃げたかったのに、何かに引っ張られるようにして口から言葉が出た。それを聞いて高須くんはちょっと安心したような顔をした。

「ねえ、昨日タワレコにいたやんな」

 やめて、お願い、私はパニックになっていて、ああ、気持ち悪い、また胸を、食道を、ぐっと締め付けられた感じ、喉の奥をぐりぐりと何かに押し付けられる感じ、目の奥で何かが蠢いているような感じ、そんな気持ち悪さがふつふつふつふつと湧き出て、でもどうしてかそこから逃げることが出来なくて、それはもう、高須くんに喉の奥に手をぐっと突っ込まれて声を引きずり出されたみたいな感じで、「うん」と言っていた。

「やっぱり江上さんも好きなんや。いつも、アベンズのストラップを鞄につけてたから気になっててん」

「う、うん、うん」

「話しかけよう思っててんけど、接点ないしどうしよう思っててんけど、昨日タワレコで見かけて、アッ、って思って」

「うん」

 ねえ、私の好きな高須くん。やめて。やめて。

「俺も好きやねんかあ、アベンズ。アルバム全部持ってんねん」

 知らなかった。嬉しい。でも高須くん、それを私に言わないで。そのくりっとした綺麗な目に私を映して言わないで。

「昨日試聴機のとこで何聴いてたん?」

「で、デデマウスやけど……」

「デデマウス! 俺もめっちゃ好きやねん! うわっ、もっと前から話しといたら良かった」

 私も高須くんがデデマウスが好きって言ってて嬉しい。でも、高須くんが私がデデマウスのことが好きなのを知るのが許せない。ねえ、何してるの私。なんで答えるの。

 高須くんはそのまま嬉しそうな顔をして、ニコニコニコニコと喋り続けて、私はそれが辛くて辛くて仕方なくて、本当になんでこんなに辛くなるのかわからなくて、大好きな高須くんが目の前にいて嬉しいのに、高須くんが一つ、私のことを「江上さんは」と言うたびに苦しくなる。俯いたままの私が、もう耐え切れらえなくなって、高須くんを見て、ねえ、教室に行こう、って言おうとして、でも言葉が出なくて、高須くんに引きずり出された言葉しか言えなくなってて、怖い、私が私じゃなくなりそうで怖い、そして、私の目に映った高須くんは、ああ、どうしてこうなったんだろう、どんどん高須くんがぼやけて見える、どんどん高須くんから色彩が消えていく、あの澄んだくりっとした眼はどんどん濁った色をしていってる、私の好きな高須くんじゃなくなっていってる。

怖い。怖いよ。

もう高須くん以外の全てが真っ黒に見える、私の手の肌色と高須くんのシャツの白色と高須くんのつやつやの黒髪の色と高須くんの肌色しかわかんない、廊下から陽がいっぱいに照っているはずなのに、それ以外は全部真っ暗、床ももうわかんない、私と高須くん以外は全て真っ暗で――。

 くらっ、とした。立ちくらみみたいな、何か。

 そのとき、あっ、と高須くんが声を上げた。ぼやけた高須くん。私はいつのまにか真っ黒の何かに叩きつけられて、ばんっ、って音がなったから多分窓、そのまま力がするすると抜けて膝を折り畳んでしゃがみこむようになっていて。

「江上さんっ、大丈夫?」

 そして、高須くんが、私の手に触れた。

 ぞっ、とした。

 私の目に映ったのは、私の手が触れた高須くんの手、それが指先からどんどん土色になっていくところ。乾いた土の色で、昔作ったような泥団子がぱりぱりに乾燥したみたいなそんな色で、そしてその土の色は指先から手首、二の腕、と高須くんをどんどんと蝕んでいって、そして首、頬、と、じわじわ、じわじわ、眉間、目、こめかみ、とじわじわじわじわ広がっていって、じわじわじわじわ、高須くんがどんどん土色になって、高須くんがどんどん乾いていって、やめて、って声が出ない、私の臓器が全て、ぐっ、と何かに上に押し上げられている感じ、全てが口から出そうな感じがして、どうしようもなくて、そんな私が見つめている高須くんは、じわじわじわじわ、と、私の大好きな耳も、つやつやの髪も土色になっている。

そして、ぱりっ、って音がして、私の手から高須くんの手の感触がなくなった。それは、高須くんの指が粉々に砕け散ったからだった。粉々に、砂埃のようなものを巻き上げて、小さくて尖った破片がぱらぱらと真っ黒の床に落ちて、ああっ、高須くん、指が、指がっ、って、言おうとしても、その間に高須くんの手の甲、腕、と、ぴきっ、ぴきききっ、と音を立ててどんどん、黒い稲妻のようなヒビが入って、小さな土の破片が飛んで、ぺきぺきと音を立てながら手からどんどん崩れていく。

やめて。崩れないで、高須くん。ヒビはもう、首筋、そして頬にまで到達して、顔からヒビの分岐はさらに細かく激しくなって、鼻、こめかみ、額、にと伝わっていく。

ああ、壊れちゃう。高須くんが壊れちゃう。私なんかに触れたから、高須くんが壊れちゃう。やめて。やめて。

ねえ。私の好きな高須くんは、ずっと私の好きなままでいて。だから崩れないで。壊れないで。お願い。ねえ、高須くん。

ああっ、耳が、ねえ、高須くん、耳にまで細かいヒビが入っちゃったの。ごめんなさい。誰か許して。その耳だけはやめて。ねえ。ねえ。

完璧なの。その耳は完璧なの。だから壊れないで。私のために壊れないで。それでもヒビはとうとう高須くんの全身に回って、もう、ダメ。

ダメ。ダメ。やめて。やめて。ねえ。ねえ。

その耳はね、完璧だから。崩れないで。絶対に。私が触っても崩れないで。

本当にね、完璧なんだ。私はその耳が大好きなんだ。だからね、絶対に、ね、どんなことがあっても、例え世界が終わってもその耳だけは残って。高須くんから切り離されても、それだけは無事でいて。高須くんが全部崩れても、その耳だけは崩れないでいて。

ねえ、高須くん。私の、好きな高須くん。


私はとうとう高須くんから目を背けた。

そして、私は、吐いた。

おええっ、おえええっ、と、胃が、腸が、全てお腹から出てきたかと思うと、口の中は酸っぱくなって、どろどろ、としたものが舌を触って、おえっ、おえええっ、おええっ、と嘔吐して、目の前が、濁った、黄色いものでいっぱいになって、おえええっ、おええっ、と、また、ぞろぞろぞろぞろと舌を撫でるものがあって、口の中が、酸っぱくて、ひりひりして、頭の中が、がぐらぐら、ぐらぐらぐらぐらと揺さぶられて、おええっ、おええええっ、と、もう何も出ないのに、何かに喉の奥が引っ張られて、おええっ、と、また一つ、声を上げると、ぐわん、と頭を一つ、大きく揺さぶられた。

そのまま、黄色いものでいっぱいになった視界が、真っ暗になった。



目が覚めたとき、見えたのは、真っ白な、ショートケーキの平面のようなもの。

それがぼんやりとベッドのシーツだと分かったのは、蛍光灯の白い光が目に見えたからで、首を動かすとピンク色のカーテンが見えたから、ああ、保健室だ、と思った。

あれから、何があったのだろう。思い出す限り、全ては真っ暗だったから、本当に世界が終わったんじゃないかって思ったけど、スカートのポッケからアイフォーンを取り出したら、まだ八時五十七分とかそんなぐらいで、別にそこまであのときから時間が経ってなかったらしい。

のそのそとわざと音を立てるようにして起き上がると、さっ、とベッドと部屋を仕切るカーテンが開く音がした。

「大丈夫? 江上さん」

 その声は高須くんの声。カーテンの隙間から入った太陽の光が、じんわりと高須くんの輪郭をぼんやりと包んだ。

「突然吐いて倒れて、あっ、保健室やで。ここ。わかってる? 目がぼんやりしてるで」

 高須くんが、良く見えない。そこにいるはずなのに、輪郭が曖昧で、ただの光にしか見えない。

 高須くんは、どうなったのだろう。

 高須くんは、崩れちゃったのだろうか。

「高須くん」

 私は、高須くんの光を見つめながら、言った。

「なに?」

「もうちょっと、近づいて」

「どうしたん?」

 そして、高須くんの光が、その、肌色と黒と白の光が近づいて、ああ、ここが顔だな、と思ったところで、私は、両手を差し出して、その頬を、包んだ。

「えっ、江上さん?」

 ぷにっ、とした。そして、温かい。私の手が冷たいのかもしれない。

 そのまま、私は高須くんの顔を掴むようにして、もっともっと、私の方に引き寄せて、そして、えっ、えっ、と言う高須くんをそのままにして、私は両手で高須くんの耳をつまんだ。

「江上さん、どしたん?」

 どんなものよりも柔らかな耳たぶ。そしてその上の軟骨をなぞると綺麗な曲線を描いていて、そのまま高須くんの耳の奥へと辿って行けて、耳の奥では、その私の人差し指の先が包まれて温かくて、そこからじんわりと私の手が温まっていく心地がした。

「耳、あるやん」

「えっ?」

 今度は、引っ張り出されたんじゃない。こみ上げた、言葉だった。

「高須くん、耳ある。崩れてへん」

 そう言ったそのとき、それまでぼんやしした光でしかなかった高須くんが、ようやくかたどられて、あの、実体のある、私の好きな、あの高須くんだったことに気づいた。

 つやつやの黒髪。太い眉毛。くりっとした眼。整った鼻。そして、大好きな耳。

「そら、あるよ」

「よかった。ほんまに、よかった」

 そのまま、私は高須くんの耳たぶとその上の軟骨を、親指と人差し指の脇で、むにむに、むにむに、と揉んだ。

「江上さん、どうしたん? 変? 俺の耳」

「変ちゃう。完璧や」

 むにむに、むにむに、と揉んでも、一つ手の動きを止めれば、高須くんの耳は元に戻る。あの、完璧な形をした、小さな耳に。

 私は、むにむに、むにむに、と高須くんの耳を揉み続けた。高須くんは少し困ったような顔をして、ベッドに乗り上げてしまっていた膝をちょっとずらして、もう少し楽な姿勢になるようにして、そのまま私に耳を揉まれ続けた。

 私の好きな高須くん。

 むにむに、むにむに、と私は高須くんの耳を揉み続けた。

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高須くんの耳 うさぎやすぽん @usagiyasupon

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