第3章 臨十少年
りんじゅうせうねん
1
館長が単独でスイにお目通りになる。
前例から言えば認められません。私も首相の立場からでなくとも反対しました。しかし、特例となれば話は別です。
スイ御自らが館長をお呼びになるのならば。私に出来るのは文書を作る事。形式上の事実を、事実上の事実に塗り替える事。私にはそれしか出来ません。
もう夕暮れになります。廊下にお持ちした昼餉の膳は全く動かぬまま、唯乾いていくのみです。下げても宜しいでしょうか。許可を取る事すら出来ません。私は初めて、スイのお部屋への立ち入りを制限されました。
私は嫉妬しています。館長のみに許された特例に。
出来る筈がありません。自らの命と引き換えにスイに笑顔を取り戻すなど。出来るものならやってみればいいのです。出来ないのですから。あれほど見栄を張っておいて、結局出来なかったと。スイに失望され信用を失い館長の地位を失う。貴方には何も残らない。遺させない。スイの心に等は決して。
「お顔に出ておりますよ」秘書官が言います。
「そうでしたか?気をつけます」
余裕がなくなっています。私にだって解るのですから、秘書官にはさぞだだ漏れ。
悔しい。憎らしい。負の感情が私を支配するのです。
「貴方は信念を違えています。かつての手腕は何処へやら」秘書官が言います。
「黙っていてもらえますか」
「研究所の件はどうなっていますか」
「候補地を検討中です」
「早くお決めになって下さいね。決断力の確かさこそが貴方の利点」
「利点を失った私は取り換え待ちですね」
「そう卑下なさらず。貴方には貴方にしかできない事をこなせばいい。何の為に貴方が首相なのか。何故貴方が館長ではないのか。もう一度思い出されては如何です?」
「もしや、励まして下さっています?」
「貴方だけが立ち入り禁止でしたね。ならば私が膳をお下げしましょう」
とうとう夜になってしまいました。手を付けられないとわかっていて運ぶ夕餉の哀しさよ。勿論運んだのは私ではありません。私だけが立ち入り禁止なのですから。
お休み前のご挨拶も、この分では省略されてしまいます。手を洗っておりましたところに、突如停電が。ついに光にも見放されたか。雷のせいでないとするなら、単なる過剰な使用。復旧の目処はいまだ立たず。私が行ってくるのか。
懐中電灯の心許ない明かりを頼りに、壁を触り触り記憶により道順を辿ります。願わくばスイがお困りでありませんように。館長がいるでしょうから。彼ならばどうする。懐中電灯くらい持ち歩いているのやもしれぬ。或いは蝋燭や燐寸も。普段は地下にいらっしゃるそうですから、暗いところに慣れているでしょう。暗闇では心強い。
もし、このまま停電が続けば。スイは外に出て。いや、私は何を。違うのだ。暗くて狭いところにこれ以上、スイを置き去りには。
ずるい。羨ましい。私はあのお部屋で夜を越した事などないというのに。一体この長時間何をしているのだ。
ちっとも寝付けません。想像だけが肥大し、頭蓋骨を内部より圧迫するばかり。何千回寝返りを打った事か。強く瞑れば瞑るほどに眼は冴えてくる一方。仕方ない。私は今宵、寝ずの番をする事に相成りました。
手持ち無沙汰を和らげる為に見遣った書類も、一文字も頭に入ってきません。唯ただ通過するのみ。判を捺しては、ずれ、掠れ、曲がる。ペンを走らせれば誤字脱字。もう何もすべきではないと思い立ったが、何もする事がない。眠気も一向に襲わない。
スイのお声が聴きたい。スイのお顔を拝見したい。何故叶わないのであろうか。叶わないように仕向けている原因が存在する。館長がお部屋にいつまでも居座っているから。そろそろお暇しようなどと、気を利かせる事は思いつかないのか。スイがお引止めしている?あり得ない。考えたくもありません。
空が白んできます。私は一睡もしませんでした。おそらくスイも一睡もされていないかと。館長はどうでしょう。スイが起きておられたのならば、その横でぐうぐうと眠りこけている事など出来ません。よって、館長もまんじりともしなかったと考えるのが妥当でしょうか。一睡もせずに一体何をしていたのか。
朝餉を運んだ折、秘書官にそれとなく聞き出すよう頼み込みましたが、今一つ的を射ません。秘書官は何か摑んでいるのでしょうか。私の知らない。私のみが知らない。
「貴方に反対されるのを厭うているのです」秘書官が言います。
「反対など、如何して私が」
「同感です。貴方が反対?おかしいのですよ。スイが仰っていたのはそこまで。言葉の背景にあるのは、貴方に嫌われる事を恐れる感情ではないかと」
「私がスイを嫌いになる事など」
「わかっていますよ。誤解を解かれては?」
「立ち入る事が出来ません」
「立ち入らなければ宜しいのです。音声は届くでしょう?違いますか」
私は受話器を手に取ります。よほどの事がない限り使用致しません。呼び出す際にけたたましく鳴るあの音を、スイがお嫌いなのです。用があるなら直接来い。そうも申し付けられております。ですが、目下私の頭を占領しているこれは、よほどの事と。屹度スイも了承して下さると願い。
「なんだ」
出て戴いた事だけでも、私は涙が零れそうです。
久方振りのお声。鼓膜に染み入ります。
「飯食ってるんだけど」
「申し訳御座いません。これだけお伝えしようと思い、入室の禁を破らぬようこのような不躾な通信手段に頼っている次第です」
「言い訳はいい。用は?あんだろ」
「何があろうと私は、スイの事を想っております。ですから、スイがなさろうとする事が例えどのような事であろうと私はスイにお仕えする所存に御座います故」
暫しの沈黙が御座いました。この無音の先にスイのお姿を感じ、私は如何ほども苦痛を感じませんでした。かつてこれほど温かく、思慮深い沈黙が存在し得たでしょうか。
「反対されると思った」
「いいえ、決して」
「そっか。やっぱお前だけだよ。この期に及んで迷ってやがる」
「館長がでしょうか」
「俺はやれるのかやれないのか聞いてるんじゃない。やれっつてんだよ。なのに」
「もしや、その説得を昨日中」
スイが静かに肯かれた音が聞こえます。
そうだったのですか。なんという。私はなんて。
「やれるか」
「凡そスイの命じられた事で私に出来ぬ事などありません」
スイはたった一人で戦っておられた。誰にも頼らずたった一人で。屹度ご自分の力のみであの者を救いたかったのでしょう。おつらかったり悩んでいるのなら、私に一言仰ってくれれば宜しいのに。スイの為ならば何でも致しましょう。なんでも。
何でも致します。館長を執務室に呼びました。場所は何処でも良かったのです。話を通すだけなのですから。重圧を与えられるのならば何処でも。
「方法に自信がなく」館長が言います。
「自信がないのに言い出したのですか。スイにご期待を持たせて」
「出来ないとは思ってません。不完全な形を曝したくないだけで」
「失敗は許されません」
「どちらにせよ死ぬのだから」
「そのような投げ遣りな姿勢で取り組むのなら迷惑なだけです。何が不安にさせているのか明らかにした上で」
館長は鍵を手渡します。私はそれに見覚えがあります。資料館の地下への。
「結果の成否に関わらず、この中の書物は全て処分してもらえると」
「これが心残りなのですか」
「インチキを広めるのは心苦しいので」
「貴重な文献なのでは? 資料館は国の財産であり館長個人が決定出来るような」
「最期の我が儘を聞いては戴けないか」
「私の独断では」
「本日中に小火を出しかねない」
「なんという暴挙に」
「私は真剣なのです。真剣に命を懸けるのだから、その見返りを戴いても」
「それを本末転倒と言うのです。スイの笑顔を取り戻すと。そう誓って」
「結果よければ、とも言うのでは。失敗しようが私は死ぬ。やり直しが効かないのならばせめて私の不安材料を取っ払って戴けないか」
「スイはその事を?」
「いいえ。納得戴けぬよう、首相を頼るよう粘った成果が、今に至って」
「スイのお気持ちを踏み躙って、挙句見返りなどと。論外です。趣旨を今一度反芻し直し」
「しかし、他に道はない。そっくりお返し致したく」
私は何も言い返せません。館長の腹の底の闇黒さ、自らの身勝手な都合の為スイすら平気で利用しようとする非道さに思考が凍てつきます。
本来ならば、この場は一旦引き思案する時間が欲しいのですが、スイが今か今かと待ち焦がれておいでだと想うと。私は即断を迫られます。早く確実な判断。秘書官の発言がよぎります。私の利用価値。
「成功の他に道はない。重々ご承知と思いますが」
「よかった。これで私は安心して」
逝ける。
「処分方法ですが」
「誰の眼にも触れぬようご配慮くだされば」館長が言います。
「私の眼にも?」
「何卒」
「何が書かれているのですか」
「立会いはご勘弁戴きたい。気が散れば見込みも減りましょう」
一、日出る迄中央臨むを禁ず
一、仮令君側と雖も是に準ず
「もしもの事があっては」
「俺が見なくて誰が見んだよ。大丈夫だ。いざとなりゃ」
受話器越しに届いたスイのお声の確かさに、つい。私は先の時限令を発するに至ります。何人も、スイそれ以外は信じるに値せず。気づく切欠にもなりましたおぞましい光景が眼に飛び込んできたのは、時限令の解ける僅か数時間前。
スイの想うあの者は蘇生せず。裸同然に肌蹴たスイの傍らで、館長は。両の眼球に刀身を埋め、仰向けで息を引き取っておりました。
2
スイはひどく怯えておいででした。眼の遣り場を失った私の呼び掛けにも応じず、中庭に尻餅を付いて。手を貸そうにも近づき難い空気が圧し掛かり、底なしの泥沼に足を取られたかの如く。
何があったと。火を見るより明らかなのは、館長を彼岸へ追いやったのがスイその人だという事のみ。何故、如何して。私は訊く術を持ちません。館長の亡骸を運び出した後、再度スイへ声掛けを試みましたが、何一つ好転致しません。
「貴方のお役目です」秘書官が首を振ります。
「ですが」
「館長の事は残念でした。私に申し上げられるのはそれのみ」
秘書官は別の役目があります。百も承知。ですが私は、どのような手段でもってスイを中庭より解放すればよいのか皆目見当つかないのです。思案しようにもスイのあの居た堪れないお姿が脳裏に焼きつき。
ふと、頭をよぎります。月光に映えるスイの白い肩が。お寒いでしょう。明け方は冷え込みます。通常ならばその方向性によって、スイにお召し物をかけるが為という名目が出来上がるのですが、いまの私は。
白い肩。白い背中。白い腕。
眼を瞑らずともはっきりと浮かびます。溜息も霞むほどの。
否、否、否。私は羽織を持って中庭へと駆けました。雑念を追い払わなければなりません。雑念。これは雑念なのでしょうか。スイの白い肌。それを眼にしたから何だというのか。解りません。わからないのです。
何方か宜しくご鞭撻下さい。謹んでお願い申し上げます。
3
スイはそこにおいででした。先ほどと寸分違わぬ光景が私の網膜を釘付けます。
呼び声は届きますでしょうか。私は恐る恐る呼び掛けを試みるのです。
「スイ」
微かな瞬き。スイは唯一点を見詰めておいでです。何もありません。スイにのみ見えて私にのみ見えぬなにかを、見詰めておいでなのでしょう。
「スイ。これを」
羽織を肩に掛ける際、私はスイの肩に触れてしまいました。なんという。ほんの一瞬でしたが、生物の体温というものをとうとう感じる事が出来ませんでした。スイの御身体は冷え切っている。容易く思い当たる事柄。何故私は真っ先に駆け寄り、それが出来なかったのか。自らの着物を脱ぎ、スイの肩に掛ける事を思いつかなかったのか。
悔しくてなりません。悔しさのあまり唇を噛み切っていたようです。鉄の味が口一杯に広がります。申し訳御座いませぬと謝るにも値せぬ、この愚かさ。
御身体を温めねばなりません。裸同然であろうとも、返答のないスイのお着物に手を掛けようとする事は万死に値します。幾度となくお湯加減を確かめ、ゆっくりとスイの御身体に湯を掛けます。
さ むい
スイの唇がそう動いたように見え、私は決心を致します。スイの御体を持ち上げ、とても軽かったのを憶えております、湯船の中へと。徐々に沈みます。僅かでもスイの御身体が温まれば。唯のその一心でした。のぼせてはいけないので、スイのお顔色を注意して見ておりました。
「熱くなって参りましたね」
といっても、私は熱い湯にそう長く浸かってはいられない性質であり、直ぐに浴槽より上がってしまいました。情けない。スイが溺れぬように見ている事しか。
「温まりますか」
スイは私のいる方角を探しているようでした。上へ下へ右へ左へ、眼球が動いております。私はスイの眼球が唯の一点に落ち着くまで、黙って待っていました。ようやく私を見つけたのかと思えば、ひょいと逸らし。また私をちらりと見遣ります。
「私はここにおりますよ」
思わず私は手を伸ばし、スイの手に触れてしまいます。この距離で尚、スイが私を見つけられないという事が、私にはとても心苦しく切なく思えたのです。それほどにスイは傷ついておられる。
館長。彼は一体何を。
「上がりますか」
スイは、こっくりと肯かれました。
御身体の水滴を拭う事も、着物をお召しになるお手伝いをする事も叶いませんでした。スイが首を振ったからです。
「では外に」
スイが首を振ります。そこにいろと。そうゆう事なのでしょうか。
「御意に」
「休んでいいか」
「お役目の事でしょうか。スイが仰るのなら如何程にでも」
突然スイがお話になられたので、私は内心驚きを隠せませんでした。それも平生と異なり、力なくか細い語調でしたので余計に動揺してしまい、スイのお気を揉むような返答になってしまったのです。
「いいえ、ご心配には及びません。どうかごゆっくりお休み下さい」
即訂正をしましたが、スイはまたも明後日の方角を見詰めており、私の声など届かぬどこか別の次元を彷徨っておいででした。ぼたぼたと頭髪より水の玉が転落致します。スイの足元は大きな水溜りが形成され、せっかくのお召し物も水分を含み。
手を出してはなりません。先ほどそう申し付けられたのですから。ですが、その光景は。私にはあまり鮮烈で恐怖で。
スイは。がくんと足元より崩れました。
駆け寄ると、スイの両肩が震えているのがわかり、私は行き場のない手をどうしていいのか。思案の末、床に落下したスイのお召し物を拾い上げ、代わりを用意させます。濡れた御身体を拭き、お着物を。何故これを断ったのか。昨日中、おひとりで館長を説得されていたときと同様の思いが働いていたと。私はそう考えます。
お部屋にお布団を敷き、スイは眼を瞑られました。私は何一つ手を貸してはおりません。湯屋よりお部屋まで、スイは御自らの足で歩き、御自らお布団を掛けられました。お着物が多少乱れておりますが、多少です。スイが御自らお召しになったのですから。
「いるか」
「おりますよ。安心してお眠り下さい」
スイの白い手。伸ばした手を。
「ずっといろ」
「御意に」
「こわかった」
小さい手が震えております。私はしっかと握り返します。
「こわかったんだひとりはやだ」
あの者の名
「の事はもういい忘れろ俺は」
あの者の名を、スイは繰り返し繰り返し。
「会いたかっただけなのになんであんな」
館長。私はいま明確な殺意を感じております。同時に、自分の浅はかさを身に染みて痛感しております。如何して考えが及ばなかったのか。
「私のせいです。すべて私の責任で、私がもっと思慮深く」
「お前のせいじゃない」
「いいえ、私のせいです。私のみが」
「違うお前は悪くないだから」
辞めるなよ。
「お前が辞めたら責任取るとかゆって勝手に死んだりしたら許さないからなお前は悪くないんだ悪くないやつが死ぬなんておかしいだろだから」
「ここにお誓い致します」
スイは、力が抜けたようにふっと微笑まれました。
館長がしようとした事。私はその断片を耳にし気が触れそうになりました。スイの想うあの者を生き返らせるなどと、己の欲望を満たす方便に過ぎなかった。何故見抜けなかったのか。何故、如何して。私は館長の思惑に従っていたも同じ。
私の責任でなければ一体誰の。
時限令を発し、館長をスイのお部屋に入れ、私は絶対不可侵の外で。地下の書物を処分したいというたったそれだけの事で、スイの貴重な一日を無駄に出来るだろうか。おそらくその時分より、スイの事をそのような歪んだ眼差しで。屹度何か予感めいたものはあったのだろう。しかしながら、スイは、あの者を生き返らせたいという一心で。
スイの静かな寝息が聞こえます。私はお手を布団に戻し、お部屋を後にしました。居ても立ってもいられなかったのです。執務室に戻る一歩手前まで我慢できたのですが、あと一歩のところで私は。
責任を取って死ぬより他に道がない。それなのにスイは、私に死ぬなと申して。私にそのような価値は御座いません。最早私は、スイのお側に仕える事すら苦しくてなりません。くるしい。息が途絶えるほどに。途絶えても尚、スイのお声が聴こえる。スイのお優しいお声に酔っている自分が浅ましい。涙を流す事は許されない。
私は資料館の地下に急ぎました。鍵は私の手の内にあります。汗で鍵穴が滑ります。扉がいやに軽い。暗さもあの時ほど気にならない。ここに保管されているのは紛れもなく。館長は一切の虚偽を働いていない。
「信じる信じないの判断を下す側に私はおりません」秘書官が言います。「館長がした事が誤っていたかどうかも。方法としては眉唾ですが、結果として成功するのであれば」
「出来ますか?」
「貴方に命令されれば」
秘書官は過激な思想に取り憑かれている。改めてそれを思い直す。
「彼はスイの了解を取り損ねたのでしょう。取らずにいきなりそのような事をされたのなら、スイもさぞ恐怖だった事でしょう。想像に難くありません」
「了解?取れますか?あのような」
「返り討ちでしょうね。その意味で彼は、命と引き換えにと申したのかもしれません。解読は順調でしょうか」
「読み進めれば進めるほど頭痛が致します」
館長の葬儀は秘密裏に行なわれました。燃やすだけですから。スイの耳に届かないうちに灰にして土に返しておきました。
最期の遺志。叶えられそうにありません。私はすでに眼にしてしまった。処分についても決め兼ねています。何故これを葬る必要があるのか。有効に利用すべきではないのか。国家財産として。
「説明はなさらないのです?誤解だったと」秘書官が言います。
「したところで傷を抉るだけ。無理に思い出させる事も」
「スイを思い遣るのなら、私は賛成しかねませんが」
「どのような意味ですか?」
「貴方の考えも一理あるでしょう。それでもきちんとお話し合われたほうが」
「再びあのような思いをさせるお心算か!」
「話す事を躊躇っているのは貴方個人の都合なのだと、お見受けしたものですから」
秘書官は私を煽っているに違いない。乗せられてはいけない。解ってはいるのですが、私は自らの取るに足らない名誉を保持するのに必死で。
「貴方は一刻も早くスイに館長を忘れてほしい。違いますか?」秘書官が言います。
「当然だ。彼は国家の恥です。史上から抹消したいほどの」
「主任、並びに館長。目障りな者たちが矢継ぎ早にお亡くなりになられましたからね。どうです?気分が宜しいのでは?」
「意図が不明です」
「お気づきでないようですから、忠告までに。貴方は」
スイに忠誠以上の想いを抱いている。
「本当に気づいていらっしゃらない?」秘書官が言います。「知っているのですよ。知らないとでもお思いですか。先日貴方がスイのお部屋より戻られた際、執務室の出入り口付近で何をしていらっしゃったのか。生理現象以外の説明を戴けますか?」
私は頭が真っ白になりました。まさかあれを。よりによって秘書官に。私は返す言葉を見失いました。ここで何を述べようとも言い訳にすらならない。
私がスイに、忠誠以上の想いを。認めてはなりません。決してそのような事は。
「致し方ない事とは思いますよ」秘書官が言います。「ですが、場所を考えて戴きたい。うっかり私が見ているという事もありましょう」
「監視をやめてくださればいいだけの事」
「監視に値するような振る舞いを慎んで戴ければ」
「私は」
秘書官の発言の裏に。何が潜んでいるのか読めません。
私個人への怨み。首相失脚。
国家の為。スイの為。
主任と館長の弔い。
スイへの並々ならぬ個人的な感情。
「貴方が首相でないと困るのです」秘書官が言います。
「傀儡でしょう。使い勝手のいい駒がいないとお困りですよね」
「何か勘違いしておられる。スイが貴方を信頼しておられる。ならばその信頼を裏切らぬよう」
次こそ国に未来はない。
4
陽気が暖かくなって参りました。差し込む光の眩しさに眼を細めます。スイは私を誘い裏庭の桜を見ようと仰いました。お花見です。
「早く散らねえかな」
「咲いたばかりですからね」
「散るほうが好きなんだよ。こうばーっと白い吹雪がさ」
「風雨に任せましょう」
連日の疲れが嘘のように引けてゆきます。スイの楽しそうな笑顔。私はそれを間近で拝見できて幸せに思います。
「親父の事だけどさ」
私は頷きます。
いつか、話せるとき。
「お声が掛かるのをお待ちしておりました」
「どんなヤツだった? 俺に似てた?」
「ええ、それはもう。先代の生き写しです」
「でも俺はなんもできないから。三代目は役立たずってゆわれてんだろ。知ってる。親父はすごい事してたんだってな。みんなの命救って。すごかったんだって?」
「とても立派でいらっしゃいました。毎日昼夜問わず寝る間も惜しんで術に取り組んでおられました。休まれては、と言うと鋭い眼が睨みつけます。官の中には、その眼があまりに恐ろしく失禁した者もいたと」
「へえ、そんくらい本気でやってたって事だろ。でもちびらせるのはやべえな。どんな眼してたんだか」
貴方とそっくりですよ。
「なあ、俺には何が出来るかな。なんか出来る事あるかな」
「具体的なものは御座いますか。これをしようと既に決意されているとか」
スイは小さく首を振る。
「なんもない。なんも。唯スイって呼ばれてあすこに居座ってるだけ。それじゃ駄目だろ。親父がしたみたいに、なんか出来ないと。役立たずだよ唯の」
「焦る事はありません。今はその決意だけで」
「でも親父は俺くらいんときはもう」
「先代は先代です。たまたま道を見つけるのが早かっただけの事。その上、選んだ道がたまたま先代に合っていただけの事。スイは、何がお得意ですか」
「うーん」
「趣味は御座いますか。興味を惹くものは。ゆっくりで構いません。勿論、決意が先にあるのであれば、技術なり何なりは後程幾らでも付いてきます。その決意が強く確かなものであるほど力を発揮できます」
「俺にも見つかるかな」
「ええ。微力ながら私も、探すお手伝いをさせて戴きます」
「あのさ、一個。関係ないんだけどちょっと思った事あって」
スイの願い。それは私には酷な事でした。酷。それが判ったのもずっとあと。
スイは。
国の外をその眼で見てみたいと仰ったのです。
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