第2章 日の経領く

ひノたてうしはク



      1


 悲鳴すら聞こえない。私は観ていませんが、スイが又お戯れを。

 中庭が真っ黒に染まっています。

 いいえ、赤かもしれません。

 私は眼を擦り瞬きし、ぎゅうと眼を瞑って瞼を開けました。青です。どの色を信じたらよいのかわからなくなりました。

 スイが刀を引き抜くと、黒い色が噴き出ました。倒れている者の衣服に刃を擦り付け、黒い色を拭います。周囲で観ている者は、スイの背中が目視出来なくなるまで身動き一つ取れませんでした。

 私は何とかスイと眼を合わせようと試みましたが、上手くゆきません。スイは私をお嫌いなのです。好かれようとも思いません。スイが私を嫌う事は当然であり、私はそれを唯受け入れるのみなのです。

 首相として、謹んでお悔やみを申し上げます。



      2


 スイの元を度々訪れる賊の正体が判りません。スイに尋ねようとも、私の発言など風鳴りほどにしか思われていないでしょう。

「甘やかしすぎなんだよ」主任が言います。

「そのような事は」

「ないって言える?全国民の前で」

 申し訳ないと思っています。私には申し訳ないと思うほか何も。

「じゃあ首相降りなよ。そのほうがいい。先代とは違う意味で国が滅びそうだ」

「それは」

 想像に難くない。幾度となく夢で魘された未来。汗により生じた湖の中。涙とも塩水ともつかない液体に沈む。ここは湖でないのかもしれない。そう気づいた時には肺は水で満たされ、呼吸の仕方を忘れている。

 自信がないなら辞職すべきであり。迷惑なだけ。国と心中しては。

「大体、僕に訊いてくれればいいのにさ。一人で抱えないで」主任の細い指が表示させる。

 見覚えのある姿。

 私は彼に嫉妬しているのだ。スイが私を嫌うのは、彼のせいなのだと。思い込みたい自分がいる事を強く意識し、苦悩に打ち震える自分もいる。両方が私。

「事実なのですか」

「不穏分子は早々に排除したほうがいいね。君の決定なら協力を惜しまない」主任が言います。

「成功する見込みは」

「ないね。からっきしだ。そいつがわかんないから、こうやって寝る間も惜しんで」

 私がしっかりしなければ。スイの寝首を掻かれる可能性だって充分に。それだけは避けなければならない。命に代えてもスイを御護りする。

「賊の狙いはなんでしょう」

「君が考えてるような事はたぶんないね。彼の実力ならスイどころか国ごとぼかん。お釣りが来る。そうしないのはする気がないって事だ。唯単にスイに逢いに来てるだけじゃないの?」

「意図は」

「わかんない? さすが君だ、て事にしとくよ」

 教えて下さればいいのに。主任はくるりと後ろを向いてしまいました。持ち場に戻れという事です。不満が残ります。

 唯スイに逢いに来ている?そのような筈は。解りません。無目的に近い理由で我が国を侵しに来るだろうか。

 スイはお部屋で居眠りをしておいででした。頭の頂をこちらに向けて横になっているため、表情は伺えません。お声を掛けて宜しいでしょうか。躊躇っておりましたら、くしゃみが聞こえました。

 私でなければスイでしょう。お身体が冷えてしまいます。日中暖かくなってきたといいましても、まだまだ冷たい風が体温を奪います。毛布をお持ちしましたときに、スイはむっくりと上体を起こされました。

 私は咄嗟に身を隠す場所を探しましたが無意味でした。隠す場所などありはしません。障子も襖も開け放たれ、中庭も一望に見渡せるほどなのですから。

「なにこそこそやってんだよ」

 私は毛布を持ったまま中腰で立っています。さぞ異様な光景に見えたでしょう。

 云うべき言葉が見当たりません。

 痺れを切らしたのか、スイは毛布を引っ手繰られました。

「せっかくだからもらっとく」

「いま、お布団を」

「ちょっと寝るだけだから。邪魔すんなよ」

「失礼致します」

「あーそうだ。俺の親父」

 殺したって本当か?

 私は足を止める他何も出来ませんでした。呼吸も心臓も止めてしまいたい。止まりません。呼吸は更に荒くなり、心臓はばくばくと拍動を強くします。これがスイの耳に届いているかと思うと、私は。

 膝を畳に付けます。足の力が抜けたのです。

 指の先を畳に付けます。腕の力が抜けたのです。

 額を畳に付けます。首の力が。

「本当なんだな」

「何も申し上げられません」

「本当かどうか知りたいだけだ。別にお前が殺そうがどうだっていい」

 どこで。

 それをひとりしか。

「ふーん。本当だったわけか」

 賊め。

「下がっていい」

「私は命を絶つ事が可能でしょうか」

「死にてえの?」

 そんなに。

 あっさり返されますと。

「いんじゃね? 俺が困るだけだし」

 スイが。

 困る?何故。

「これ」

 毛布。

「掛けてくれる奴がいなくなる」

 何も知らないのだ。スイは、何も知らない。

 我々だけが知っている。お手を煩わせて気を揉ませるよりはこちらで内々に処理して。そのような思想が国を朽ちさせる。解っています。どうすればいいのかも。しかし、私はそれをする勇気がない。床の間に飾ってある錆びた刀。手に取ればいいだけの事。鞘を捨てて刃を一気に。

 刺さらない。突き刺す事が出来なかった場合。私は死ぬ機会を失ってしまう。それが怖いのです。いつでも死ねる。期待する事で心を正常に保とうとしている。

「いつか、お話できるかと」

「どうでもいい」

「知りたくはないのですか。ご自分の」

 父親。出生。

「俺って何の為に生きてると思う?」

「解りません」

「だろうな。お前ならそうゆうと思ったよ」

 スイは腕枕をしたまま豪快に笑う。屈託のない笑顔。私は嫌われています。嫌われているのならそのような笑顔は。いいえ、嫌われても仕方のない事をしました。スイはそれを知らないだけ。知ってしまえばたちまちに私の事など。

「つーかそろそろ顔上げろよ。そうしてたいなら止めねえけど」

 私はスイのお優しい心遣いに甘えてもいいのでしょうか。

 否。

「まぁいいや。そうゆう頑固なとこ嫌いじゃねえし。そうそう、さっきの答え。死ぬ為に生きてるんじゃねえかなって。そう思ってる俺は」

「死ぬために」

 生きている。

「矛盾してるって言われたよ。あいつにゃわからねえだろうな。だからお前に聞いてみたんだけど。どう思う? やっぱ矛盾してるか」

「いいえ。御立派な価値観かと」

「首相に訊いてんじゃねえよ。お前だよお前」

 神等観カムラミ

 私は上擦った声で返事をしていました。先代のお顔とお声がよぎり、つい。

「おかしいか?」

「いえ。私も同意見に御座います」

 頑固なところが嫌いじゃない。嫌いではない。

 嫌っていると思い込んでいたのは私だけ。スイにそのような感情は。

「お前だけだよ。あいつの事なんも言わねえの。全員そう思ってんだろ? あの眼が厭だ。じろじろじろじろ見やがる。見えねえようにしてやるんだ。見えるからそうやって。見えなくなりゃじろじろじろじろ見なくてすむ。お前だけだよ」

 見ねえの。

 観ていないわけではありません。この間の騒ぎも、いままで飛び散った全ての色を、私は観ています。私はあの者に興味はありません。私が観ているのは。

「あー腹減ってきた。鮭食いたいな、鮭。頼んできてくんね?まだ間に合うだろ」

「畏まりました。お仕度が整うまでしばしご休憩を」

 スイは私を嫌ってなどいない。もっと早急に気づくべきでした。嫌うだけの理由をスイはご存知でない。視野が狭窄し、考えが及びませんでした。

 夕餉のお膳を運ぶ役目を変わってもらい、私は再びスイのお部屋に向かいました。もしお許しが出ればご一緒にと思った次第です。いつもは開け放たれている障子と襖がきっちり閉め切られています。私は、それが何を表すのかわかっています。

 影と声が漏れます。黙ってお膳だけ置いて帰ろうとしましたら、お部屋の中からスイの呼ぶ声が致します。お礼を言ってくれているようでした。私は何も言えずに頭だけ下げて逃げ戻ってきてしまいました。賊がまた来ている。

 私は彼に嫉妬しているのです。

 執務室で鬱々としている私を秘書官が訪ねます。唯今の私の思考を抜き取ってしめしめと思っているに違いありません。

「椅子をお譲りしましょうか」

「滅相もない。その椅子は貴方が腰掛けてこそ輝く。降りるにはまだ」秘書官が言います。

「いつになったら」

「さあ。それは私にはなんとも」

 耳を塞ぎます。眼も瞑ります。鼻は鮭の匂いを嗅いでいます。スイのお口に召しましたでしょうか。

「あまり親しげになされますと」秘書官が言います。

「眼に余るなら瞑っていて下さい」

「お声は聞こえてしまいます。耳の穴は塞げませんから」

「詰めてあげましょうか」

「ご冗談を。随分と丸くなられましたね」

 情に絆されぬよう。貴方のお立場をご確認の上。秘書官はそう呟き、机の下に紙の切れ端を潜ませました。一体どちらに配慮しているのでしょう。この部屋を覗いているのは主任以外に。主任?いいえまさか。主任は我々の味方。秘書官も我々の側。

 私は手を洗う風を装って、紙切れに眼を通しました。まさか主任がそのような愚行を。考えられません。何かの間違いです。秘書官の妄想でしかあり得ない。主任が我々を裏切って何の得が。名誉?まさか。

 しかし、主任ならば名誉如何で。そう思えてしまうところが僅かばかりあるのです。



      3


 夕餉時をとうに過ぎたというのに、研究所は煌々と明かりが灯っています。主任だけが唯一此処で寝起きをしています。私が入り口に近づくと勝手に扉が開きました。私の考える事など易々と見通せる。

 私は恐ろしくなりました。果たして一人で足を運んで良かったものか。秘書官に同行を頼んだほうが良かったのではないか。

「一人なら入れてあげるよ」研究所内に主任の声が拡張されて響き渡ります。

 私の一挙一動が観られているのかと思うと軽はずみな行動が出来ません。

「一人なの?どっち」主任が言います。

「私のみです」

「秘書官に何か渡されてたね。あれは何?」

「私にはとても信じられません」

「だから何が」

「スイを」

 死なせてあげてください。

 まともな声になりませんでした。

 高い天井に主任の声がぶつかります。高らかに笑う声。私は床に這い蹲ります。低いところにいれば主任の声に惑わされないと思ったからです。遠く遠く。主任の声が。

「スイは本日私に」

「死ぬ為に生きてる?誰に吹き込まれたんだろうねそんなつまんない。君?君でしょ。そうゆう事考えるの君しか」

「どうかこちらに来てお話を」

「話す気にもなれない。やっぱ君に首相の任は重すぎた」

 床の一部分が抜け、台がせり上がってきます。そこに載せられていたのは。

 私の刀。

 どうしてこれが此処に。これは私の部屋の床の間に。

「こんな仕掛けに吃驚してちゃいけない。君のスイを誑かす賊はこんなくらいの事ちょちょいのちょいだ。賊を追い払うんだろ?大事な大事なスイをお守りするために。今まだいるよ。明け方まで居座るね。どうする?好機だと思うけどな」

「この程度の奇襲が成功するとは」

「そう。そうなんだ。そこでだ。君の腕を見込んで頼みがある」

「賛成し兼ねます」

「まだ何も言ってないよ。もしかしてわかった?言ってご覧。もし万一当たってたら」

「私は与しません」

「僕の腕じゃ不可能なんだって。知ってるだろ?体育が壊滅的なの」

 賊は憎い。しかし、賊を追い払うためにそこまで非道になれるかと問われれば。

「さっきの答え。聞くよ」主任が言います。

「スイごと」

 突き刺す。口に出すのも憚られる危険な思想。

「それもさっきの紙切れに書いてあった?」

 私は頷かないし首も振らない。唯ひたすらに打開策を思案しておりました。

 眼線の先には私の刀。あの時スイを殺すべく掲げた刀。あの時スイを殺して錆び付いた刀。不吉で禍々しい柄の色。鞘も似た色に染まっている。況や刃身をや。

「君がやらないなら僕がやるよ」主任が言います。「明け方までといっても僕の推測に過ぎないからね。危機を察知して早めにお暇するかも」

 台が床の下に消えるその僅かな隙に私は、刀を手に取りました。台だけが虚しく消えてゆきます。

「殺る気満々じゃない。今の動きは真似出来ないな」

「主任はどのようにして賊を仕留めるお心算ですか」

「なに?お手並み拝見てわけ。実はね、もうひとつ。罠を張ってあったんだ」

 聞きたい?

 主任の笑い声が私の思考を妨げます。さぞ上機嫌なのでしょう。すでに勝った気でいる。勝って兜の緒を締めよ。主任を諌める為にあるような言葉です。私に発言などとうに見抜かれています故、私は口にこそ出しませんでした。

「それが効いてれば今頃」

 お陀仏。

 どちらが。賊が。スイが。

「死ぬわけないよ。そうやって創ったんだから」

 天井が開き、巨大な幕が下りてきます。照明が徐々に落ち、真っ暗闇の中に私はぽつねんと取り残されました。眩しい光源が突如私の眼球を突き刺します。

 そこには、見覚えのある光景が映っておりました。私が先ほど訪れようとして訪れる事が叶わなかった部屋。スイのお部屋です。

 膳やら茶碗やらが引っ繰り返っており、画面に見切れている塊にふと眼が。焼き鮭です。どうゆうわけか畳の上に放り出されています。全く手を付けられなかったわけではないようなのでほっと胸を撫で下ろしましたが、その状況が呑み込めず不安がよぎります。主任の解説を待ちましたが一向に無言で。

「なにが」

 監視の角度を切り替えてほしい。せめて音声が入れば。スイは。スイはご無事なのか。私は後方の出入り口を確認しましたが、ここぞとばかりに主任の笑い声が耳に障ります。おそらく私は閉じ込められたのでしょう。主任の意に沿うと誓わない限り私はこのままここで指を銜えて顛末を見せ続けられる。

 ゆっくりと視点が移動します。私が食い入るように画面に夢中なのが、主任には滑稽に思えたに違いありません。

 足です。裸足であるところから考えて。

「スイ!」

 私は思わず叫んでいました。スイ。どうかご無事で。祈るばかりです。自然と手に力も入り。

 刀。そうです。私にはこれがあった。

 主任の狂気に付き合っている場合ではありません。私は一刻も早くスイの元へ。

「無駄だよ。君の凶器は刃毀れしてる」

「スイに何を」

「罠の大元はスイだけど、スイに害はない。スイに害があったらこの罠は成立しないんだから。スイには効かない猛毒で、スイに群がる害虫を駆除しただけ」

 スイの後頭部が映り込みます。スイは必死に何かを揺すっているようでした。何か。それこそが賊であり、賊は。その異様な顔色から判断して既にこの世にはいない。

 主任が音声を切っている理由がようやく解りました。そんな音を耳にしたものなら私はついぞ平常ではいられなかった。刀を握り締め研究所ごと主任を。

 そのような事をして何の利があるのか。ありません。主任はこの国になくてはならない存在。スイの存命の為にも。スイの望みを叶える為にも。

「毒は微量ならなんら害はない。虫も死なない。だけどね、繰り返し繰り返し摂取し続けるとある一定量に達したとき、ぷちっと事切れる。逢瀬を重ねてたのを逆に利用したってわけだ」

 施錠が解除される音。鼓膜を震わせるや否や私は走り出していました。空気を斬りつける事で、主任の笑い声を頭の中より追い出します。スイは。スイはご無事で。私の懸念事項は唯一点それのみでした。

 夕餉時をとうにに過ぎたというのに、お部屋は煌々と明かりが灯っています。スイだけが唯一此処で寝起きをしています。私が縁側に近づくと。

 無言の嗚咽が耳を劈きました。

 賊はスイの腕の中でぴくりとも動きません。蒼白い顔を月光に曝し静かに眼を瞑って。唇の端より黒い色がつうと流れ。だらりと力なく垂れ下がった手を。スイが自らの頬に当てます。さぞ冷えきっていたでしょう。それでも尚、スイは賊の名前を呼び続けます。

 私は耳に栓をして賊の名前を記憶しないよう努めました。名など知ってしまえば葬儀を執り行わねばなりません。スイが何処とも知らぬ賊に入れ込んでいたと広まれば、それこそ国家存続の。

 眼も瞑ります。何も観ていたくなくなってしまったのです。

 私が耳を塞いで眼を瞑っている間に、スイのお部屋に散らばる食器と料理はすっかり片付けられておりました。秘書官の手によるものでしょう。私は動く隙を計り損ねていまだ縁側に立ち尽くしております。スイは。

 賊を抱きかかえたまますっくと立ち上がります。何かに取り憑かれたかの如く不気味な自動運動でした。私の存在を意識しているかはわかりません。スイは私のいないほうを見詰め咳払いをされました。

「おい」

 矢張り私に呼び掛けられたのでしょうか。待てども待てども何者も返事をしないのでつい、私はスイの視界に入るべく足を進めました。

「生き返らせろ」

 いま

 なんと

「できんだろ。俺にやったのと同じ事をこいつにもしろ」

「なりません」

「やれ。命令だ」

「承諾しかねます」

「つべこべ言わずさっさと」

 その賊が憎いから。

「生き返らせないのではありません。生き返らないのです。可能不可能の次元で話をしております、どうか」

 鬼籍に入って良かったなどとは決して。

「私個人の都合如何では御座いません。出来るのならば、可能ならば、直ちに其の者を研究所に運び入れ、然るべき措置を講じて」

 さく

 おとが、

 聞こえました。

 遅れて視界に飛び込んできたのは、黒い赤い飛沫。私の視界に飛び込んできたという事は。私の色ではない。私の色でないならその色は。

 スイが刀身を引き抜きます。穴の空いたそれは、黒く赤く染まったそれは。スイのお部屋に潜んでいます主任の眼。その全てに。突き立て引き抜き突き立て引き抜き突き立て引き抜き。両の動作の度、私は眼を逸らしました。主任の絶叫が幻として私の鼓膜を震わせていたからです。

「じろじろじろじろ観てんじゃねえよてめえだろこんなにしやがったのは戻せ元に戻せ戻せねえなら」

 てめえの眼ん球も。

 すでに潰れております。その黒は赤は確かに主任の色。私は胸のうちで経の如く唱える事の他何も出来ませんでした。この期に及んで自らの保身の事しか頭になかったのです。認めます。私は。

 スイを取り巻くあらゆる現象に嫉妬しております。

 翌日未明、地に伏す主任の亡骸を確認致しました。絶え間ない苦しみにもがき、のた打ち回った形跡が痛々しいほどに残っており、私は首相として、研究所という建物の即時取り壊しを迫られました。主任の無念が壁に天井に床に残留する箱の供養の為にはそれが最も宜しいでしょう。

 先代に仕えていた官僚たちも、先代も同じ方法で天に召されたのですから。私はスイの隣で煙を見上げます。

「やっぱ死ぬ為に生きてんだよ」

 私は頷く代わりに、本日の昼餉の献立を申し上げました。美味そう、と呟いたスイの無骨なお声が、今も心に残っております。



      4


 主任の名前は資料館に遺っております。

 終盤こそ歪んだ狂気に支配されましたが、彼の偉業は讃えられぬ筈がありません。館長も全くの同意見です。彼あってこその国家の繁栄。彼なくして安寧は、目下この手の中にない。

 館長の計らいで主任の生前の研究が纏められ、資料館の一角を期限付きで占領しました。要するに、彼の追悼回顧展を開こうという趣旨なのです。連日多くの国民が訪れ、彼の歴史に触れる毎、目頭を熱くさせました。

 斯くゆう私も、資料館の門をくぐる度にあの夜の事がつぶさに思い出され、国民とは違った背景で持って目尻を濡らしました。

「有料にしては如何かと」館長が言います。

「何故です?」

 突然の館長の提案に、私は場所も弁えず大声を上げてしまいました。

 有料?何がそのような考えに至らせたと。

「儲けようと考えているわけでは」館長が弁明します。

「当然です。もっての外と知りなさい」

「用途が明確になるのではと」

「不透明な使い方をしているとでも?」

 何故か喧嘩腰になってしまいます。理由が解りません。館長の考えも一理ある。それなのにどうして私は。何を意固地に。

「すみません。言葉を誤りました。検討の余地はあります」

「いえ、解って戴けたならそれで」館長が首を振ります。

 私はスイのお声をとんと聞いておりません。屹度そのせいなのです。

 スイはお部屋に篭ったきり、お顔を見せてくださいません。そのせいとしか。鬱憤を晴らすために怒鳴り散らして当てこすり。なんと醜い。そんな私がスイと言葉を交わそうなどと。

「相変わらずで?」館長が言います。

 私は頷く気力すらありません。

「時が解決するかと」館長が言います。

「楽観的ですね」

「我々には何も。スイの問題では」

 尤もな御意見です。

 私に何が出来る。思い上がるな。

 私は何も出来ない。圧倒的無力だ。

「方法がない事も」館長が言います。

「諦めろと言いませんでした?」

 資料館には地下があります。館長以外は立ち入りを禁じられており、希少価値の高い書物が厳重に保管されていると聞きます。首相と雖も私が立ち入っていい筈がない。

「誰にも見られたくないので」館長が言います。

「何がですか?」

 私がここに立ち入る光景でしょうか。屹度そうでしょう。館長にご迷惑をかけない為にもこっそりと。

「やっと解読できて」館長が言います。

「何がです?」

「見られると困るんです。インチキなもので」

 館長の発言内容はまるで的を射ません。

 地下はジメジメしていて居心地が悪く、僅かばかりの滞在で呼吸も苦しくなって参りました。火が灯されます。ぼわ、と館長の顔が浮かび上がり私は自然と明かりに眼が惹き付けられます。

「インチキだと思ってたのに。我々を騙すために」館長が言います。

「ですから、何が?」

「私の命と引き換えに」

 スイの笑顔を取り戻しましょう。

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