LAs・cO

伏潮朱遺

第1章 出づる鬼門

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 絶対不可侵の敷居を犯したと云うのに、スイは眉一つ寄せず術に集中しておいででした。私は其れをとても不満に想い、一切の機器を壊す事を思い立ち、握っていた刀を振り上げ狙いを定めるが速いか、スイの鋭い眼が私を捉えました。

 其の時の得も言われぬ感覚を今もありありと憶えております。つい先刻迄の禍々しい意志は、高貴な思想は、全て其の眼光で立ち消え、私だけが取り残されました。刀と云う下賎な手段でしか、思想を達し得ない。狭窄な思い込みに囚われていた浅はかな私が。

「なんだ、壊さねえのか」

 スイの両眼は忙し無く術の指揮を執っておられました。私は口の渇きを堪え、必死に言の葉を紡ぎだそうと口を開きました。酸い苦い味が舌を混乱させ、更にスイ御自ら私等にお声を掛けて戴いたという紛れも無い事実。其れがとても嬉しく、同時に心苦しくも有りました。何故なら私が此処に踏み入った理由は。

 其の間にもスイは黙々と術を完了させ、残り一人となった処で再び、私を其の鋭い眼で捉え、有ろう事か、お顔を緩ませたのです。私は尚一層に混乱を極め、呼吸困難に陥りました。

「こいつで終わりだから。そしたらいいぞ。悪かったな、待っててもらったみてえで」

 屹度何かを勘違いしておいでなのでしょう。訂正をしようにも、相変わらず私の愚鈍な舌は痙攣を起こし、上下の唇は空気で擦り切れ、救済の余地も無いが如き状況でした。ふと右手を見遣れば、血とも泥とも似つかぬ穢れた液体で染まっている。左手もそう大差ない。おそらく私の頭蓋骨の中も此の色と酷似している。

 一体私は此処に何を齎しに来たのであろう。

 邦内最年少世代と持て囃され、思い上がり熱に浮かされ、是ぞ私の天命と悟ったが現体制の転覆。聞こえは良いが、詰まる所はスイの暗殺。逆賊と変わり無い。現に、中枢に辿り着くまでに幾人と官僚を斬り捨てて来たではないか。両の手の色は彼らの無念の証。気づく事が出来なかった。全ては済んでしまっている。私は此処でスイの前で何事も乞う事は許され無い。唯黙って此の鈍色の刃を喉に付き立てる他は。

 後悔の念で身体の内部が焼け爛れている。突き刺さるだろうか。突き抜ける事が出来るだろうか。試して不可能ならば、此の私は度の様にして冥土を臨めば。

 スイの響きが身体を貫いた気が致しました。黄泉の国に旅立つには是以上の手向け等有りましょうか。私はぎゅうと着付く眼を瞑ります。

 喉の痛みよりも先ず、手首の痛みが感ぜられました。やや、と思いつつも今わの際に見せる幻の一種だろうと思い直し、再度両手首に力を入れようと。

「お前の思いはそんな程度か」

 重々承知の上参ったのです。

「俺を殺して理想の国とやらを創るんじゃねえのか。俺の遣り方がヘボいから、そいつを身をもって教えに来てくれたんじゃねえのかよ。だったらこんな中途半端なとこで」

 死ぬんじゃねえよ。

 先刻より気に掛かっていた手首の痛みの正体が漸く判りました。堪らなくなった私はうっかり眼を開けてしまったのです。其処に飛び込んできた光景は、思いも寄らぬ幻想の世界。幻想だからこそ、私は否定せねばなりません。

「は、離して下さい。スイの御手が」

「やっと喋ったかと思ったら。なんだよ、そりゃ」

「兎に角お放し下さい。なりません。スイがこのような逆賊の」

「へえ、逆賊なのかお前」

 決してスイを甘く見ていた訳では無いのです。寧ろどれ程に警戒しても足りぬ位だと呉々も肝に銘じていた筈でした。其れなのに、私は見す見す眼の前で刀を奪われてしまい無我夢中で体勢を立て直そうとするも、焦りが祟ったのか足が縺れ床に突っ伏す有様。スイの笑い声。快活な御声が両耳を通り抜けます。

「随分まあ情けない逆賊だな。俺以外は」

 皆殺しにしたくせに。

 余りに重い言葉。私は前も後ろも判らぬ状態で唯唯肯く他ありません。

「ご老体を何十人何百人殺ったところでなんも困らねえよ。かえって清々した。んじゃまあついでに俺も殺してくか。そもそもそれが目的だったんだろ」

 入電の赤い点灯。スイは動こうとしません。聞こえていない筈が無い。

 ならば何故。

「私に構わず、どうか」

「構うなったって、俺はとっくに死んでるわけだから」

 解りません。スイは亡くなって等いない。今正に此処に。

「お前が入ってきたあの時点で斬られてたんだから。もうここにゃいねえよ」

 点滅の間隔は益々短くなる一方。緊急度が増していると云う証拠。

「お行き下さい」

 赤い光源。やけに眩しい。

「彼の者の命はスイに委ねられています。どうか、お助けを」

「命乞いされてもなあ。死んでんだから。無理だよ」

 尚一層激しい点滅を繰り返す。赤い。悲痛な音声も届く。何遍も何遍もスイに呼び掛けて。容態は一刻を争う。スイでなければ救えない。亡くなる。

 いのち。

 私のせいで命が一つ、消えようとしている。

「都合のいい話だろ。あれだけ殺しといて、そいつは救えだ?確かにご老体は耄碌だったかもしれねえよ。口うるせえし、頭固えし。だがな、同じ命にゃ変わりねえんだよ。いまさら一人二人三途の川渡る奴が増えたところで」

 朽ち果てた官僚と、名も無き一般市民。救うべくは。

 違う。どちらかを選ぶのではない。前者は既に選べない。救えぬ命。

 しかし後者はどうだ。救える命。

「御願い致します。どうか」

 叫びと悲鳴が同時に耳を劈きます。何という無力。私は自害すら封じられ、地べたに額を擦り付けます。今私に出来得る最善の方法が其れしか無いのです。天井と壁に赤い光源が映り、スイのお姿も赤く染まっているかの様です。

 点滅の余韻は、スイの御手に拠って止められました。其れが何を示しているのか、呑み込む迄にはあらゆる物が過ぎ去っていました。名も無き彼は一命を取り留め、手厚い看病の元に安静を得ています。良かった、と喜ぶ事が私に認められるでしょうか。間違いなく私は、彼の命を奪っていました。スイを殺める即ち、国家全土の命を根こそぎ絶つ事では無いか。私は考えを改めねばなりません。

 しかしながら、私が官僚達の尊い命を奪った事実は変わりません。其れに見合う償いをしなければなるまいと。真っ青な空を覆い尽くす程、灰色の煙が立ち昇った日。

 私は着物の内側に拳銃を潜ませて、スイにお目通りを求めました。叶いません。叶う筈が無いのです。邦内最年少世代だと、一目瞭然の私で有るのに。其の様な物は何の意味も持ちません。

 ―――俺が見てる前で死ぬな。生き返らせるからな。

 あの日、スイに戴いた御言葉を反芻し、私は死に場所を探して彷徨い歩きました。中々見つかりません。探し物と云うのは、探している時には得てして手に入らぬ物なのです。矢張り私は、あの日あの時、スイのお命を絶とう等と善からぬ企みを実行し絶対不可侵の領域を蹂躙したあの日、逝くべきであったのです。逝き逸びれてしまいました。スイがあの様な事を仰らなければ私は。

 悔やまれてなりません。其れだけが私を此の岸に繋ぎ止めているのです。





 第1章 出づる鬼門 いヅルきもん



      1


 スイは私が思っていたような方ではありませんでした。

 それはスイが我々を安心させる為が故に見せる、作られた偶像であり、スイとは別次元で息をしている何者かでありました。絶対不可侵といわれる敷居を踏み越えたあの時より、私はそう確信しております。

 表の顔と裏の顔、といってしまえばそれまでかもしれません。よいのです。理解が容易くなるのであれば。しかしながら、その先に何かがある、いや、あって欲しいと切に願っている自分もいるのです。情念に近く、信念に遠い。動じてはいけません。私はスイを蔭に日向に補佐する立場であり、この国の指針を示す大事な立場を任されているのですから。

 術を終えられたスイが、私の部屋を訪ねてきて下さいました。私は手を止め、椅子から腰を浮かせます。

「ああ、いいよ。そのままで」

「しかし」

 スイは呆れたような表情を浮かべ、またしかしかよ、と呟きます。しかし、というのは私の口癖なのだと、スイが指摘して下さいました。

 ですが、私の口癖がしかし、であるかどうかは別問題なのです。疑わしい。しかし、決して私がスイを信じていないと、そのような理由が背景にあるのではありません。どうかそれだけは心に留めておいてほしいのです。

「ちったあ柔らかくなるとか丸くなるとか、なんも変わんねえな」

 スイの口調が怒っていないので、私は謝る事は致しません。無闇に頭を下げるのは思慮の欠いた方法だと思うのです。謝るべき時、そうでない時、それを見分ける事に焦点があるのではないでしょうか。

「ご用件を伺います」

「んなもん特にねえよ。顔見にきた。あんま根詰めるなよ」スイは肩を回されます。

 連日の施術によりひどく凝り固まっていらっしゃるのでしょう。

 しかし、ご用件が特に無いとは是如何に。ご用件が無いのならわざわざ私のところなど。

「気が利かねえな。よく見ろよ、ほら。凝ってんだよがちがちに」

「申し訳ありません。只今」

 私は、按摩師を呼ぶべく受話器を耳に当てました。伝達する前に通信を切られます。

 スイの御手が視界に。

「いちいち察しの悪い奴だな。俺はお前にやってほしいの。それが今回の用事だ」

「それならばそうと仰ってくだされば」

「いま思い付いたんだよ。入ってくるまでは特になかったんだ」

 言い争っていても仕方ありません。スイは私に按摩を求めて下さっている。それならば私が目下すべき事は。

「失礼致します」

 スイの御着物を肌蹴させ、両肩を露出させます。お寒いでしょうから暖房器具を近づけようとしたらあっちい、と断られました。骨格こそ頼もしくありますが、さほど日光に当たられない為、雪の如く白い。微温湯で湿らせたタオルを背中に乗せますと、直ぐに色が変わります。勿体のない。

「お加減は如何ですか」

「いや。きもちい」

「昨夜積もった雪ですが、ご覧になられましたか?」

「そこまで引きこもっちゃねえよ。窓もある」

「お美しいです」

 雪も。

「そうか? 俺が見たときは泥と交ざって汚かったがな」

「早朝に雨になってしまいましたからね。夜の内にご覧になられていたらよかったのですが」

「お前が教えねえからいけないんだろうが」

 そういえば、どうして教えなかったのか。

 独占したかったのだ。スイと分かち合う為に、先ず私の眼だけに収めておきたかった。

「また降りますよ」

「問題すり替わってるぞ」

 しんしんと降りしきる雪を見て、私が独占したかったもの。雪景色ではないのかもしれない。だからこそ、スイに告げる事を躊躇ってしまった。

 按摩を終えたのに、スイはまだ私の部屋にいらっしゃいます。何やかや理由をつけてここに滞在したい理由。スイの術は完璧ではない。完璧であったらどんなにか良いか。スイの横顔を見れば今日という日がどうであったのか、手に取るようにわかってしまう。

 日が翳って冷えてきました。戸締りを確認して戻ると、スイは私の椅子でうとうとと居眠りを。おつらい事があったのでしょう。

 ですから私は何も聞きませんし、何も申し上げません。唯傍にいて、スイとお気持ちを共有します。

 救えなかった命。誰も怨んでなどいませんし、誰も哀しんでなどいませんよ。スイの術で不可能ならば、誰の手でも不可能なのです。我々はスイを責めたりなどしません。

 スイの提言されたこの仕組みのお陰で、流される事の無かった涙の量について思いを巡らせてみて下さい。それでもまだおつらいのならば、いつまでも此処にいらっしゃってくれて構いません。

「悪ィ。寝てた」

「今日はもうお休みになられては如何でしょう」

「いまんとこ呼ばれてねえよな」

「ええ。昨夜もこんな夜でした」

 この分ならば今晩も大丈夫かと。

「さっきなんか言ったか」

「静かに眠っていらっしゃいましたよ」

「俺じゃなくて」

 神等観カムラミ

「どうかラスコと」

「俺をヒトて呼ぶようなもんだぞ。断る」

「私はラスコと呼ばれる事を誇りに思います。寧ろ神等観のほうが恐縮して」

「んじゃあお前、俺の事スイじゃなくて」

 トシキ。

「滅相も無い。そのような」

「呼べねえだろ。んなら神等観でいいな」

 私としては断固反対を突き付けたかったのですが、スイの口調が楽しそうなので口を噤む事に致します。

 それから直ぐに呼び出しがあり、スイは行ってしまわれました。足取りが重そうでなかったのがせめてもの救いでした。


     2


 翌日、私は研究所へ視察に出掛けます。

 スイは相変わらずのお勤め。外に出られないのはさぞおつらい事とこちらで勝手に想像していましたら、その事自体に不満はないようです。不定期且つ短時間でしかない休息のほうを呪っておいででした。私には見守る事しかできません。それは、スイにしか出来ないのですから。

 命を狙われるという危険は此処では存在し得ないでしょう。保証が確かだからこそ、私は身一つでここを訪問する事が可能になるのです。

「バレてないよね」主任が小声で言います。

「話したところで誰も信じてはくれないでしょう。斯くゆう私も未だに」

「信じられないのはこっちだよ。あの君が、いまや首相だからね。魂消たなあ。いつかはやると思ってたけれどね」

 主任は、私が学生時代にお世話になった先輩なのです。これも何かの縁でしょう。

「スイはどう?」主任は周りに誰も居ないのを確認して言いました。

 スイをスイと呼びつけるのはなんら構わないのですが、どう、などと馴れ馴れしい口の利き方をするのは流石の私でも気が引けます。勿論、言論統制など存在しません。

「殺す価値がなかった。そうゆう事だね?」

 私は返事をしませんでした。

 主任は、私がラスコである事を知っている。その上、何故ラスコである私が首相の座に就けたのか、それも熟知しています。

「価値は生じそうかな。だいぶ一緒にいるけど」主任が言います。

「進行状況だけお伺いしたい」

「参ったな。あんまり進んでないんだ。情報いってるよね?」

「増員は望めないのですか」

「優秀な人材ってのはそうごろごろしていない。引き抜こうにも、ここが最上だから。ここにいる連中より上は」

 国外にしか望めない。

 主任は腰に提げている札を壁の隙間に通します。緑の明かりが点滅して扉が開きました。

「どうぞ」主任が手を差し出します。

「やめておきます」

「そのために来たんだよね? なら見てって」

 主任は私の背中を押します。

「増員についてはこちらでも検討しておきます」

「昔っから臆病だなあ。鼻摘んでればあっという間さ」主任が言います。

「狙っている人材がいる。違いますか」

 背中を押している主任の手が離れます。

 私は振り返るときに扉の向こうを見てしまいました。スイはご存知でない。私がお耳に入れない限り、知る由もない。喉元が締め付けられているかの如き錯覚。空間を締め切っているからでしょう。

「そこまで言ったからには叶えてもらうよ」主任の細い指が画像を表示させます。

 知らない顔でした。当然と言えば当然です。私は此の国から出た事はありませんし、国の外の事情は知りません。世界地図すら曖昧なのですから。

「詳しい自己証明は送っておくよ。唯、届いて一時間経ったら勝手に消えちゃうから注意してね」

「そんな。憶えられません」

「大丈夫。彼、有名人だから。超が付くほどに」

「国外からとなると、スイの耳にも」

「クソ真面目だなあ。そのスイに知られるとまずいから君だけ呼んだんでしょうが。一、スイの意志の代行。首相の権能って、一番最初に学校で習うよ」

「しかし」

 言ってから気づきました。私の口癖。ですが、主任は何も言いません。

 スイならば屹度。眼の前にいるのはスイではないのだ。

 それを再認識しただけでした。

「この国はよくなるよ。いまよりずっと。高く飛ぶときって一回小さくなるよね。それが今なんだ。力を貯めてる。もうすぐ爆発できるよ」

「爆発は困ります」

「物の例えだよ。絶対吃驚するね。スイも含めてね。事後承諾で万々歳さ」

 最後の事後承諾云々の意味がよく解りませんでした。その時に見せた主任の溌剌とした笑顔が疑問を掻き消してしまったのです。

 研究員の方々にもお一人お一人挨拶して回りました。皆さんとても研究熱心な方で、主任が鼻を高くする気持ちがよく解ります。彼らは私がラスコだという事を知らない為、そのように気さくに握手を交わして下さるのだろうと思います。

「ラスコ反対派はここにはいないよ」主任が言います。

 流石は主任です。伊達に私の学生時代を世話してはいません。私の思考を見抜いてくれました。

「反対してたらこんな研究したがらない」

 こんな研究、というのは謙遜でしょうか。

 主任は、私の手元で唯冷えていく珈琲を見遣りました。哀れな物を憐れむ表情で。

「飲めないなら言ってね。今まで無理して飲んでたの?」

「牛乳が入っていれば飲めます」

「そっか。気をつけるよ」

「お構いなく」

「曲りなりにも君は首相だから。お持て成しさせてよ。出来合いで悪いけどさ」

「いえ、お気持ちだけで」

 主任の温かい心遣いを両手で享受していたのです。主任ならば解って下さると思っていたのですが、珈琲は手をつけられないまま排水溝に消えてゆきます。

 視察を終えて執務室に戻り、早速主任から戴いた詳細情報を検めます。お名前を記憶しようと意気込んで勇んだところに、これはあまりな仕打ち。

 先ほど拝見したお顔は、確かに見覚えのない方でした。しかし、お名前を同時に提示されますと、この国にいれば知らない者はおりません。よくよく考えを巡らせますと、私はその方のお顔を知らない。教科書にも資料集にも載っていないのですから。

 スイに相談したい。そうしますと主任との約束を破る事になってしまいます。板挟みに陥るのではなく、両者の意を調整する事が、私の首相としての役割ではないでしょうか。私は本日の予定を確認し、空き時間を見繕い、資料館へと足を運びました。

 資料館は、響きこそ古めかしいですが、管理が行き届いてますので、埃の被った書物というものをついぞ見かけませんでした。館長にご挨拶の後、探している資料について尋ねてみました。

「無論、当館で大切に保管させて戴いております」館長が言います。「しかし、お姿の記録となりますと流石に」

 お名前を出した際、驚いたように見受けられましたのは気のせいでしょうか。首相ともあろう私があまりに無知なので、さぞがっかりされた事なのでしょう。

「何故遺っていないのですか」

「初代様が遺す事を拒まれたのかと。勝手な見解ですが」

「遺す事に何か不都合でもあったのでしょうか」

 矢張り館長は、どことなくですが驚いていらっしゃるご様子です。尋ねたほうがいいのでしょうか。何故驚いているのかを。

「もしや、と思いますが」館長が言います。

 主任と。

「どうしてお判りに?」

「実は私と彼は」

 繋がっている。秘密裏に。

「どうかご内密に」館長が言います。

「事によってはお約束できません」

「悪い事ではありません。信じて戴きたい」

「誠に申し上げにくいのですが、私は主任の事もさほど信用しておりません」

「この国の未来に関わる事なのです」

「未来に関わる事ならば、何故表立って行動なさらないのですか。悪い事でないのなら尚更に」

「知られるわけにいかないのです」

 スイに。

「黙って可能な事は何一つありません」

「我々が犠牲になればこの国の道は拓かれるのですよ。わざわざスイの耳に入れる必要はない。スイのお耳汚しになります」

「お耳汚しになるような事が、国の未来を拓ける筈がない」

 秘書官が私を呼びに来ました。先の会話は忘れるように、とくれぐれも言いつけておきましたが、これでは館長や主任となんら変わらない事に気づき、心が痛みます。

 大きな会議を終え、執務室に戻りますと、館長よりお詫びの通信が届いておりました。私も直ぐに返信しようと思い立ち、つらつらと綴っておりましたらば、スイがお顔を覗かせました。咄嗟に私は、表情を取り繕い、作業を中断致しました。

「邪魔なら帰るが」

「いいえ。申し訳御座いません」

 もう此処に全てを白状し、スイに許しを請いたい気持ちで一杯でした。

 スイは何謝ってんだ、と笑っただけで。当然です。

 スイは何もご存じないのです。私も何も知らないに等しいですが、主任他館長が何かを企んでいる事は知っています。一刻も早く白日の下に曝すべきなのです。

「今宵、大事なお話が御座います」

「いまじゃダメか。ちょうど手が空いて」

「何卒今夜、スイのお時間を割いて戴けないでしょうか」

「都合ならしょうがない。呼び出しがない限り付き合うよ」

「有り難う御座います」

 是より私は、予定の合間を縫って主任か館長を追及せねばなりません。

 秘書官に無理を言って。

「ご安心下さい。私も」秘書官が言います。

 主任と館長の側。

 そんな、私は誰を信用してよいのか。

「ご自分を信用されればよろしいかと」秘書官が言います。

「自分が信用に値しないのです」

 それならば、と秘書官は私に耳打ちをしました。これを聞いてしまったら屹度私はスイを裏切る事になってしまう。解っています。承知しておりますが、生半可に知ってしまうと更に先を求めてしまう。深く深く。取り返しの付かないところまで。

 わかっていた筈です。道はそれ以外にないと。スイと共に滅びの途を辿るか、或いはスイを。だからこそ、私はラスコなのであり、自害し損ねた命で生き恥を曝している。主任と館長と秘書官の計画は正しい。かつて私が信じた道。

 あの刀は今何処。



      3


 いよいよ雪も懲り懲りとなる頃合いまで、私は庭を眺めておりました。お声がして振り返ると、スイは欠伸を噛み潰しながら廊下に。

「お疲れのところ」

「申し訳ありません、は、なしだぞ」

「承知しております」

「んならいいがな」

 私は秘書官が控えていないのを確認し、ぴしゃりと障子を締め切ります。かといって、たかが障子と襖を何十枚と隔てようとも、漏れる音は防げません。執務室に音を拾える機器を潜ませておけば確実でありましょうに。私は此の会話は筒抜けであると意識しつつ話す他、対応の仕様がありません。

「大事なお話が御座います」

「そうそう、なんだよ。改まって」

「お命が狙われております」

「そんなのいつもだろうが。ねぐらでも摑んだか」

「首謀者が判明しております」

 研究所の主任。

 資料館の館長。

 首相の秘書官。

「お前が言うんだから冗談じゃねえんだろうが。随分まあ内部から怨まれてんな俺は」

「内部であるからこそ」

 国を変えようと。思想は高貴だが手段が歪んでいる。

「直接聞いたのか。俺を殺そうとしてるって」

「私もその片棒を担がされるところでした」

「いいのか」

「迷う事がありましょうか」

 ラスコ。

 だと言われれば、私は頷くしかなかった。スイはお優しい。

「俺が死んだらお前が代わるのか」

 ラスコ。

 ならばそれを掲げる。掲げて此処に踏み入ったのだ。右手の感触。左の感覚。忘れるものか。風化させてはならない。

「俺もそろそろ引退かな」

「不穏な企ては私が責任を持って阻止します。ですからそんな事は仰らないで下さい」

「阻止できるのか」

 付きっ切りで傍にお仕えする。不可能だ。スイはその事を言っている。付きっ切りでいたとしても、隙を狙われたら。毒を盛る場合、得てしてお毒見係が食べた後に混入されるものなのだ。

「出来るだけ気をつけるよ。んで、死んだら死んだでそんときはそんとき。スイなんかいなくたって」

 スイ。存続と廃止。これも議論せねばなるまい。

「よく報せてくれたな。あんがと」

「これからの事ですが」

「任すよ。知らない振りしてたほうがお前もやりやすいんじゃねえ?」

「よろしいのですか。身辺警護等の強化は」

「あーいい、いい。んな事したって殺されるときは殺されるんだし。正直、どうでもいいんだわ。スイだとかいろいろ。なんでこんな面倒な事してんだろうなってたまーに思うよ。俺にはもうなんもない」

 スイの横顔がいつもと違って映り、私は返す言葉を見失いました。

 なんもない。

 その意味は。

「初代についていろいろ嗅ぎまわってんだろ」

 私の思想は全て見透かされています。陳腐で浅はかで愚の骨頂な。

「申し訳御座いませんでした。もう決して致しません。私は」

「いーよ。怒ってんじゃねえし。唯、なんでそんな事してんのか聞かせてくれ」

 初代。

「生きているというのは」

「らしいな」

「ご存知だったのですか」

「あいつが死ぬわきゃねえよ」

「矢張り、我々とは違う」

 次元を生きている。

「見つかったら教えてほしい。こっそりでいいから。な?」

 私は何を告げて何を訊くべきだったのでしょうか。わかりません。スイが初代とお知り合い?まさか。それを否定する事に頭が一杯で。わからないのです。どうしてスイと初代がお知り合いになれるのかが。初代は生きている。それを仮定しましても不可能なのです。初代の御世は、二千年も前に終わっているのですから。

「そこを訊いてこなきゃ」

「すみません。唐突の事で思考が停止し」

「場合によってはスイを殺さなくてもよくなるってのに」

「本当ですか」私は立ち上がっていました。

 スイのお命が護れる。首相としての面目というよりは、私個人の都合で動いているような気がしてなりません。実際、その通りなのでしょう。

 主任に指摘されずとも。

「初代とスイがどのくらい近しい関係なのか」主任が言います。「肝はそこだね。初代を誘き出せるかもしれない」

「主任は初代に会ったら何をするお心算ですか」

「まだ秘密」

 主任はこの間の事を憶えていてくださいました。珈琲に牛乳が足されます。

「有り難う御座います」

「初代の顔が遺ってない理由。教えてあげるよ」

 館長が処分した。

「初代について神話上の出来事になっている理由。想像つく?」

「そのほうが都合がいいのでしょうね」

「違うよ。本当に神話上だからだよ。初代のときはもっと大きな国だった。国土も人口もね。どうゆうわけか二千年前に一回滅んでる。僕はこれは、初代が自分で創った国を自分で捨ててったって事で理解してるけど」

 突然の通信。まずい事が発生したようです。主任が今日はここまで、と言い残して駆けていきます。大丈夫でしょうか。

 私は珈琲を戴いて器を流し台に運んでおきます。とても美味しかったです。

 秘書官に細かい調整を尋ねられて、それから学校に向かいます。私の母校でもあり、全国民の母校でもあります。本日は卒業式という事で、首相の立場から祝辞を述べさせてもらう為参りました。卒業生たちの眼が爛々と輝いております。私はこの眼を見るのが大好きです。

 学生の数は年々減少しております。増える事は今後あり得ないでしょう。学校も規模を縮小し、違う施設を造る計画が進行しています。人口減少に歯止めが利かないのであれば何をしても無駄なような気も致します。根の部分に手を入れなければいつまで経とうとも解決はしません。

「反応は如何でしたか」秘書官が尋ねます。

「死を厭うておりません」

 スイは。

「あちらのほうは」秘書官が言います。

 主任の研究。

「順調です。懸念事項はむしろ」

 館長の調査能力。

「任せておいて大丈夫なのですか。過去は取り戻せないというのに」

「遺っていますよ。初代が遺さなかっただけで」秘書官が言います。

 秘書官に嫌悪感を持ったのは初めてです。彼の思考は多少過激すぎる。流されないようにしなくては。

「質問攻めにして下さって結構ですよ。私の役割はそれです」秘書官が言います。

「私の不満を和らげる役目という事でしょうか」

「貴方がラスコである事はすぐにわかりました。写真が出回っていないのは私が消去して回ったからです。骨の折れる仕事でした」

 矢張り、彼は私の監視役として最も怪しまれない役職を求めた結果、秘書官の任に就いているに過ぎない。私の言論思考行動は彼らに共有されている。私がラスコだから、使い道を見出しただけの事。例えラスコであろうと使い道がなくなれば、首を挿げ替える。

 雪の溶け残りを踏んづける。また降るのだろうか。溶けてもまた降れば。

 我々が死を厭わないのは、犠牲になった死の先に希望が見えるからだ。しかし、スイが死を厭わない理由。生きていても死んでいても同じ。ならば死んでしまうのもいいかもしれない。自暴自棄になった挙句の消極的な意志。

 何がスイをそうさせているのだろう。知りたいのだろうか。知ってもいいのだろうか。わかりません。考える事を放棄したら首根っこを掻かれる。誰に。それが判るのなら予防線も張れる。

「初代の神話を読みたいのですが」

「私がお話しましょう」秘書官が言います。

「結構です。文献に当たりたい」

「館長はお忙しいかと」

「発案者はどなたですか」

「私以外におられますか」

「他に方法はないのでしょうか」

 暗殺。

「貴方がしようとして失敗した事をもう一度やり直すだけです」秘書官が言います。「感謝してください。貴方の顔に塗られた泥を洗い流して差し上げるのですから。後世には貴方の英雄譚だけが語り継がれるでしょう。私たちは潔く散ります」

「潔く散るだけが道ではない。国を建て直すためには高貴な思想が必要なのです」

「解っていますよ。だからこそ、私たちは潔く散るのです。お気づきではないですか。我々には思想などありません。現体制の崩壊。それこそが願い。崩れてしまった後、どうなろうと私たちには関係ない。どの道、この国は滅ぶ。人口減少は止まりそうですか。スイという古い体制は必要なのですか。私たちが手を下すのは、国の為を思ってこそです。復旧が可能な内に復旧が望めそうな所のみを壊す」

「それがスイですか」

「あんなものないほうがいい。スイ自身もそう仰っていたと」

 思想が屈従しそうになっている。過激なほうが心地よい。力こそに魅力を感じる。私はその思考に封をします。開けてはなりません。開封厳禁。そう書かれると余計に開けたくなってしまう。

「初代は何を思ってこんな国を創られたんでしょうね」

 返答を拒んでいたら会話はそこで立ち消えとなりました。私は何も言いたくありません。おそらく秘書官もそう思っていたに違いありません。

 お前はラスコであるから生かされているのだ。ラスコでなければこんな輩。秘書官が上着の内側に手を入れる度にどきりとしました。そこには護身用の銃を忍ばせている筈です。

 殺される事は怖くありません。唯、死ぬ事が怖いだけです。



      4


 折に触れて資料館を訪れました。初代の神話を読む為です。例え首相であろうとも禁帯出を破るわけにはいきません。秘書官には出入り口での待機を命じました。

 館長は地下と地上との行き来を繰り返しています。声を掛けるタイミングをもう何度逸した事でしょう。出入りは自由なので他にも観覧者が見えます。首相である私に気づく者は誰一人としていません。皆、書物に夢中なのでしょう。

 読めば読むほどに、初代についての謎は深まる一方です。書物によって書かれている事が悉く覆されている訳ではない。文献によって全く新しい視点を提示されますので、こちらも頭を整理しないととても追い付かないのです。年表をさっとなぞるだけの簡易な神話を期待していた私が浅はかでした。

 帰る頃にようやく館長が捉まりました。額から汗が滴っています。両手が塞がっていますので、こちらで拭ってあげようかとも思いましたが首を振って断られました。床に丸い染みが増えます。

「お手を煩わせるような事は。この通り作業は滞りなく」館長が言います。

「進んでいるようには見えませんが」

「すみません。熱中すると報告を忘れてしまって。夜にでも」

「即刻お願いします」

 館長は困惑した表情を作って尤もらしい言い訳を述べましたが、場所柄の演技ではなくその通りだったようです。居所は鋭意捜索中。館長が足を引っ張っている。

 初代について解った事は、虚とも実とも付かない壮大な作り話。せめて寓話であったなら、何か学ぶ事もあったかもしれない。これも館長の検閲にあっているのやもしれません。秘書官に尋ねるべきなのでしょうか。気が進みません。彼の刺激的な解釈を聞いていると封を開けたくなるのです。

 黄昏刻にふらりと散歩するスイをお見掛けしました。向こうも私に気づいていなかったようなので、私も無理に声を掛ける事はしませんでした。どちらに行かれるのだろう。その方向に涸れ井戸の他は。

 スイを見失ってしまいました。ほんの一瞬眼を逸らした隙に。四方八方行き止まりで、私の横を通らない限り姿を消すなどという事は。

 私は思わず空を見上げました。その行動に自分でも笑いが込み上げてきました。ひとしきり笑います。空が飛べるのならこの国にはいないでしょう。単純な事です。

 しかし同時に妙な考えが鎌首をもたげてきました。もし、スイがその力を隠し持っており。いいえ、あり得ません。何人よりスイのお傍にいる私ですらその力を一度たりとも。私に気づかれていなかったとしたら。考えれば考えるほど切りがありません。スイを疑っているのでしょうか。

 我々と違う、と。

 諦めて執務室に戻り、書類に眼を通しておりました所に、主任から連絡が入りました。

 スイが行方不明だと。

「そんな筈」

 私はつい先刻お姿をお見かけした。何故研究所にいる主任が。

「監視ですか」

「それについては後で幾らでも謝るよ。但し予算削るのだけは勘弁してね。人員削減も人手足りないところに持ってきて大打撃だから。スイがこちらから確認できなくなって一時間経つ。緊急入電がなかったのが奇跡だよ。何か思い当たらないかな」

「涸れ井戸の付近は」

「秘書官に行ってもらってる。未だ連絡なし」

「私も行ったほうが」

「撹乱されてるね。こうゆうときは動かないほうがいい。お、入電。いないってさ。ほーらね。行かなくてよかったでしょ」

「ご存知なんですね?」

「館長が尻尾摑んだと思ったらこれだよ。当たりだね。初代は僕らに見つかったと思って最期のお別れをしにいったってわけだ」

 初代が見つかった?

 私は聞いていない。鋭意捜索中では。

「僕の研究が進んでなかった本当の理由。優秀な職員が足りなかったってゆったよね。どうして足りなくなったと思う? 辞めた?何故に辞める。国内最高峰の頭脳と誉められ讃えられるここで仕事が出来て何を不満に思うのか。とすると彼らが自主的に辞めたんじゃない。僕が暇を出した?何故に暇を出す。僕が選んだ最高の頭脳だ。見込み違いだなんて事もあり得ない。遣っている内に飽きちゃったんだよ。常に新鮮で先取的な思考を求めるとなると、定期的な頭脳の補充が必要になる。不可能なんだよ。湯水のように優秀な頭脳が排出されるわけがない。では、何故にして僕の研究所は人手不足になったのでしょう。はい、神等観ラスコ君」

「一旦電話を切っても」

「君はいつもそうだ。答えに自信がないときは回答を回避する。合ってるよそれで。求人出そうかな。実は今日付けで残りの職員が全員」

 私は堪らず受話器を置く。主任がしている事は一体何なのでしょう。

 わからない。わかっている。

 わかりたくない。わかってしまうのが怖い。

 秘書官が私を呼びに来ます。私は気丈な振りをして庭におりました。

「時間の問題です。あとは首相のお心次第」秘書官が言います。

「スイは」

「ご存命ですよ。まだ、という限定付ですが」

 初代は。

 訊けない。

「本当に、壊す事だけが目的なのですか」

「お行きください。興味深いお話が聞けるかと」秘書官が言います。

 涸れ井戸へと続く石畳。私は覚束ない足取りで進みます。秘書官が尾行いてきていないかどうか、途中何度も何度も振り返らずにはいられませんでした。尾行されていようがいまいが、私の行動は筒抜けなのですから。神経質になっても仕方ないと、開き直る事も。

 スイのお姿を捉えました。見たところ別段、お怪我もないようです。

 これまでお眼にかかった事のないような笑顔で応えて下さったというのに、私は眼を逸らしてしまいました。後ろめたい事を沢山しています。寧ろ後ろめたいような事しかしていません。溶け損ねた日陰の雪が視界に入ります。

「進展したろ」

「会われたのですね」

「迷惑掛けたな。やーっとお迎えが来た」

 スイの眼は私と同じ世界を見てはいません。そちらに、初代がいらっしゃるのでしょうか。

 頼まれたから。任されたから。

「断れなかったのですね」

「術は大方移植済みだから。あとは生きる意志。そいつがなきゃ俺らもお手上げだ」

「こちらも準備完了です」

「そっか。んじゃ、お前らの都合に合わせるよ」

 どうしてそのように優しいお顔で微笑まれるのか。

 私は貴方の命を奪おうとしているのに。どうしてそんなに優しい言葉を掛けて下さるのか。

 私は貴方の歴史を終わらせようとしているのに。

「死体はやらねえよ」

 冷風が頬を撫でます。間を置かず温かくなりました。

 指で頬に触れます。ようやく状況が呑み込めました。

 その刀は。

「いちお、心得はあんだ。術用刃しか握ってないと思って莫迦にすんなよ」

「決意は揺らがないのですか」

「言ったろ。そもそもやる気ねえって」

 そうではないのです。スイの座の話をしているのでは。

「貴方がいなくなっては」

「そのための研究だろ。知ってんぞ。成功したって」

 遺伝子の継続は可能でも。

 私のスイは貴方だけ。

「よかったな。発表はしねえのか」

「まだ、極秘にと」

「勿体ねえなあ。いい事には変わりねえんだから、みんなで喜べやいいのに」

 いい事。

 なのでしょうか。

「ぼさっとすんなよ。手元狂って」

 刃先。

 近すぎて焦点が合わない。

 スイが握っておられる手元。柄の部分の色を知りたい。

 濁ったあの色は、スイの御手によって何色に化けたのであろうか。

 摑む。

 力を。

 黒に染まる。赤と青と。

「返してください」その刀は。

「その前に、手」

 厭な色だ。私の手の色はこんなにも淀んでいる。

 この手でスイを。

 出来るだろうか。どうして出来たのだろうか。

「なにやってんだか」

 右手に布が。

 一体何を。痛い。痛み。この布の下から感じる。

 私はお礼を言う。何について。

「俺は見れねえのかな」

 なにを。

「ちょっと興味出んだろ。やっぱ」

 どれを。

「最期の頼みっつー事でさ」

 秘書官は私を追い詰め、

 館長は私を昂らせ、

 主任は私を焚きつけた。

 他人のせいにするべきでない。教育は一種の脳移植。

 私が学校で教えられたのは、スイを擁護しスイを崇め奉る事。

 私が学校で教えられなかったのは、スイは国家繁栄の為に不必要。

 どちらを信念とするか。突き付けられた刃先は振り払うのではない。例え両手が血に染まろうとも刃先を握り、相手の喉元に。

 のどもとに

 なにいろの

 いろはみえ

 な

 あの刀は此処に。

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