第36話 エピローグ2・敬愛について、あるいは仮面なき者の誤解

 十二月になり、すっかり冷え込む気候で吐く息は白く、かじかむ指先を重ねて擦りながら私は学校まで歩いていた。

 冬は嫌いじゃない。私は短距離だけど持久力もあるほうで、長距離への転向の話も出るくらいだし、マラソン大会があるし長距離走が体育の授業にあるから。

 でも、単に私は走るのが好きなだけだった。速くても遅くても、短くても長くても、走っている時の感覚が好きだった。精一杯走って、足がだるくなって、だんだん動かなくなって、止まった後のだるさをゆっくりと味わうのだ。

 ――初めて八科先輩を見たのは、中学一年の時。

 何の授業中かも覚えていない、ただ退屈な授業なんかより、外で走っている人を見て羨ましいなぁと思ってた。五十メートル走でところどころ不規則に並んだ赤ジャージの群れを眺めて、汚いフォームや遅い足を見て、私が代わってあげたいと思ってた。

 そんな中でも、八科先輩の姿は特別に秀でていた。

 恵まれた体格、よく動く長い四肢に弾むバネ、男性にも劣らない肉体を持つ彼女は、その真剣な表情のまま、発射の合図と共に弾丸のように駆け抜けた。

 私の目には、もう八科先輩しか映っていなかった。同時に走ってる人や、間には窓や複数の生徒がいるはずなのに、綺麗なフォームで駆け抜ける先輩はどこまでも真っすぐて、美しくて、目を、心を、奪われた。

 思えばあれは、一目惚れだったのかもしれない。雷に撃たれたような感覚もなければ、体がかぁーっと熱くなることもなかったけど、ただ、ただ何もかもを忘れて先輩を見つめ続けていた。

 もう遠い過去のことのように色褪せてしまった記憶なのは、単に二年という月日のせいではない。

 ――お姉と八科先輩がキスしているのを見てしまった。

 中学時代の八科先輩は孤高の存在で、誰よりも強く、賢くあった。告白されても全く動じることなく受け入れ、かつフラれた。先輩に非は一切なく、ただ全ての出来事を受け入れて平然としている仙人のような達観した姿があった。

 恋人ができたというだけで、でもショックだった。先輩に近づく人間がいて、それを先輩が受け入れるということ自体耐え難い何かがあったけれど、私はその正体に気付かなかった。

 けれど、気付いた。やっと気づいたのだ。時を経て、心に刺さった棘の正体を突き止めた。

 決して表情の変わらない八科先輩が、お姉と交わした唇、僅かに開かれた口とほんの少しだけ糸を引く唾液の艶めかしさと、お姉の恍惚とした表情を見て、胸にじくじくと広がった棘の毒で、ようやく理解した。

 それは嫉妬だった。

 お姉の高校の入学の日に、いかにも普通な樋水先輩がお姉と八科先輩の二人と仲良くなったこと、最も身近な存在だったお姉が八科先輩と仲良くなったこと、お姉と八科先輩がキスしていること。

 私は八科先輩に決して近づけなかった。それでも八科先輩に近づける人間なんて誰一人いなかったし、その中では私はファンクラブに入って愛を表明し、八科先輩を誰よりも見ていた。

 それなのに、たった一年生まれるのが違っただけで、二人も、八科先輩と仲の良い人がいる。

 お姉が仲良くなれるなら、樋水先輩が仲良くなれるなら、きっと私だって仲良くなれたはずなのに。

 お姉がキスできるなら、私にだってできるはずなのに。

 それはもう、私には決してできないことだった。決して縮まらない距離を恨めしく見続けることしかできない、敗北者の屈辱を味わうしかないのだ。

 こんな醜い苦しみ、誰にも言えるわけがない。ただ布団にくるまって、一人で胸を掻き毟るしかなかった。叫びたい衝動に駆られて嗚咽を漏らし、枕を濡らしながら静かに寝る夜もあった。

 もう朝と夜にお姉を見守ることもなくなった。それはある種の決別であり、失恋という通過儀礼を経たとも言える。

 けれど反対に私の調子は悪くなった。部活も学業も集中できずにただただ負のスパイラルに飲み込まれて、何も考えられないほどに落ち込んでいった。

 お姉なんてこっちの方から捨ててやる、そう思えても八科先輩はそうはいかなかった。

 私にとって八科先輩は青春そのものだった。先輩の全てに憧れた。先輩が私の全てだった。

 先輩は誰しもに平等に冷酷であった。少なくとも誰かに心を打ち明けることなどありえなかったし、また冗談を言うような真似も、接触することもごく稀であった。

 今はもうそんなことはない。気が付けば私は全てを失っていた。

 お姉も八科先輩も、全て、樋水という女に奪われてしまったのだ。


―――――――――――――――――――


 再び樋水先輩を家に呼び出した。小学生の時からできた自分の部屋は、たまに一人で寝られなくてお姉の部屋に行ったりしたけど、もう十年近く過ごした私の安息地。

 そこに、人間が一人増えただけで、緊張感が込み上げて変な汗をかく。

 桃色のカーペットに座ってもらった樋水先輩は、何故か以前と少し違った雰囲気があった。前までは妙ににやけた表情だったのが、今は、一皮むけた、というのが適当な表現だろうか。

「どうしたの。八科さんの話? それともまた私のことだったりして?」

 口調は変わらず、話してみれば以前までのように、どこか人当たりの良い、親しみやすい先輩であるようだった。僅かな違和感はあるが、それでもこの人と喋っておかないと私には決着できないことがあった。むしろ、その違和感の正体を知らねばならない気がした。

「……お姉と八科先輩がキスしてました」

「……ま、女子高生だし仲良かったらちょっとくらいそういうのするんじゃない? 私はしないけど」

「ないです。お姉と八科先輩が、なんてありえないです。むしろそれで樋水先輩はキスしない、なんて方が異常です」

 ごく普通そうな樋水先輩の影響で二人が変わることがあっても、樋水先輩抜きに二人の関係があることはどうあがいても想像できなかった。何故なら二人は同じ中学にいて一切何も育めなかった無関係そのものだったから。

 樋水先輩は策を講じるように少し黙った。今までに比べてどこか嘘臭い仕草だが、さもすれば今までの仕草の方に嘘臭さがあったのかもしれなかった。

 この人は何か知っているという確信は生まれた。それはカンダタの蜘蛛の糸のように脆く儚いものであるが、確実に正しさへと向かっていた。

「ありえないって言ってもしてるじゃん」

 あっけらかんと、言い切った。それは、そうだけど。

「私から何か言えるかっていうと、あんまりない気がするけど、でも聞きたいことには答えるよ。夢生ちゃんにも迷惑かけてるしね」

「お姉は、お姉と八科先輩はどうして変わったんですか。私の知らない二人になって……」

 端的に私の疑問をまとめるとそうだった。二人は中学時代からは想像もできないほどに変わった。それは私には耐え難い変化で、予想すらできないほどのものだった。

 それを間近で見ていたこの人は答えられる。それに答えてもらわないと、私が平静ではいられない。

「二人とも、寂しいだけだった。打ち捨てられた仔犬のように好奇心旺盛で誰かに拾ってほしい不破さん、臆病で誰とも仲良くなれないけど、飢えた仔猫みたいに仲良くなったらいつまでもミルクを舐めてるような八科さん。だから仲良くなったら二人とも普通の……」

「嘘です、そんなの。だって……嘘ですよ」

「嘘じゃない。嘘みたいだけど」

「嘘だっ! 嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……」

「夢生ちゃんは……辛いかもしれないけど、事実」

「信じられませんよ、そんなの。私には……」

「私より、八科さんに聞いた方が早いよ」

 樋水先輩の口から出た八科先輩の名前に、平静を取り戻す。

 八科先輩なら嘘を吐かない。そんな願望めいた思いを抱くが、八科先輩がお姉とキスをしているのは事実で、その事実が胸に重苦しい蓋をしていた。


―――――――――――――――


『私の部屋に八科先輩がいる。』

 私の部屋に八科先輩がいる。

 私の部屋に八科先輩がいる。

 事実を確かめるのに一つ。

 事実を噛みしめるのに一つ。

 事実に叫び出すのに一つ。

「私の部屋に八科先輩がいる」

「はい、います」

 私の部屋にいる八科先輩が喋る。二年間見続けた表情で、二年間、聞こうと試みた声で。

 何もかもを聞き出し胸の棘を引っこ抜こうという心意気は今やどこへ、八科先輩と二人きりで話す機会を得ただけで胸がいっぱいになって言葉を発する余裕すらなくなってしまった。

 歴史で宗教や神官職が厚遇された理由がわかる。神に近しい者、それと言葉を交わす者が優遇されるのはごく当然のことなのだ。私は今、自分自身の地位まで向上しているような錯覚に陥っている。

「それで、話とは」

「はひゃわっ! あ、あ、あ、あ、あの、あの、お姉と、き、っききき、キス、ししてたんですよね?」

「はい」

「あのあのあの、それでそれで、な、なんでそんなことを……」

「……いけませんか?」

「いっ、いえっ、いけなくないです!」

 冷静に話なんてできるわけがなかった。私にとって八科先輩の在り方を否定するとか疑うという方がおこがましいのだとこの身に思い知らされた。ただそれは洪水に流される無力な木の葉のようなものではなく、気持ちとしては敬愛する教師に諭される教え子のようなものだった。気持ちだけは。

 けど、それでも聞かなければならないことがあった。

「あ、あと、昔に比べて、今の方がいいですか?」

「はい」

 ――だそうだ。

 それなら、やっぱり、いいのかな。

 っていうか、なんかだいたいどうでもよくなってしまった。感激で。


――――――――――――――――


「お姉って本当にズルいよね。八科先輩とキスしてたの一生忘れらんない」

 結局、またお姉の布団に入ってしまった。でも吐く息も白くなるような寒い冬には、こういう日が増えてもいいかもしれない。

「ズルいって、友達だし。ま、なんなら友達より深い関係かもしれないけど」

「えーなにそれ? お姉のどこを好きになるの?」

「こーら。本当は分かってるくせに」

 なんて言われても、お姉なんて本当に世話は焼けるし、話の途中で寝るし、そのくせ頭は良いし見た目もいいし、嫌味なところばっかりだ。

 そのうえ八科先輩とキスまでするなんて、羨ましくて仕方ない。

「お姉」

「ん?」

 振り向いたお姉の口に、キスをした。

 八科先輩の残滓もないだろう、ただのお姉の唇。

「お姉のこと、嫌いだから」

「……え、えぇ?」

 

―――――――――――――――――


 三人ともと顔を合わせて、ようやく私にも受け入れることができたように思う。

 私は三人の関係性が羨ましかっただけだった、八科先輩を囲って仲良くなれる人達が羨ましかったから、憎かったから。

 だけど、お姉も樋水先輩も悪い人じゃないし、なんだかんだ私によくしてくれた人だから。そういう人を憎んだりするのはお門違いというものだ。

 今は素直に、八科先輩と仲良くなれた二人のことも尊敬できる。二人が八科先輩と仲良くなったことを憎むんじゃなくて、八科先輩と仲良くしてくれた二人に感謝できる。

 これからは健やかに眠れる。お姉の妹だから、寝るのも好きなんだよね。ぐぅ。

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