第34話 仮面外れる時

 入れたくない。近くで顔を見てしまったら、私が貯めてきた自信がみるみる崩れて消え失せてしまう気がしたから。

 けど、この二人を玄関に放置して扉越しに話をするというのは流石に無茶だ。私は心を閉ざしてるんだけど、あくまで常識はある。

 玄関扉を開いて、二人を招き入れる。

「……その仮面は?」

「夏祭りの時に買ったやつ。つけてると心地よくて」

 八科さんが素直に招かれてくれたのに、不破さんはいきなり近づいてきて、私の肩を掴む。

「なに?」

「楓、聞いて。八科が、八科が泣いたんだよ。お前が、学校やめるって聞いて、お前の家のこと聞いて、泣いたんだよ、八科が……」

 八科さんが、泣いた……?

 ちらりと八科さんの方を見ると、彼女は小さく頷いた。

「はい」

「……ふーん、そう」

「ふーんって、お前……」

「人間だから泣く時もあるよ。それがなに?」

 冷静になれる。二人を前にしても、私の表情が読み取れない二人ならそんなに怖くない。

 八科さんも仮面をつけているように表情が変わらないけどこんな気持ちなんだろうか。今は彼女が羨ましい、私にもそんな鉄面皮てつめんぴがあれば、もっと違う生き方ができただろう。それは、彼女が望んでいないものかもしれないけど。

 来客用のリビングはカーペットが敷いてある、隣接するダイニングキッチンになら椅子はあるけど、ここはそう広くない。

 駅近くのマンション六階、その一室が私の、ほとんど私だけの住居だった。

「ここに座って。……それで、何しに来たの?」

「何しにってなぁ……!」

「説得しにきました」

 不破さんは感情的だけど、それで私は変わらない。決して変わらない自信がある。二人を前にしても仮面のおかげで私は冷静でいられた。

 ゆるがない。今、二人の顔を見ても揺るがない。散々、自分の頭の中で思い浮かべた顔だから。言葉を交わしても平気だと思う。

「説得って、なんの」

「退学をしないでください」

「そんなの、二人が止めることじゃないよね。だって私、もうお父さんから許可取ったよ」

「っ、そんなの、違うじゃん! だって……」

「だってなに? 問題ないじゃん」

 不破さんは口を閉ざし悔しそうに歯噛みしている。我侭ガールに説得なんて無理なことだ。

「どうすれば退学を考え直してくれますか?」

 八科さんはそういった言葉で私に提案してきたけど、それもノーだ。考え直さない。充分考え続けたから。

「二人とも重いよ、私には。今の学校は私にはあまりにもうるさい。こうして、私は一人で静かにしている方が好きなんだ」

「そんなの嘘だ。だって、話しかけてきたのは、友達になろうって言ってきたのは楓の方だった! 私も、八科も、一人で平気だったのに、一人で過ごせたのに、楓が、友達になろうって、言ってくれたから、めげずに付き合ってくれたから、ずっと、一緒に遊んでくれたから、それなのに……」

 ぽろ、ぽろ。不破さんの目から涙がこぼれた。

 まずいな。

 もらい泣きしそう。

 自由で、我侭な八科さんが塩らしく泣いている姿は、想像だにしなかったし、今まで決してなかった。普段大人びている彼女の姿があまりにも幼い少女のように見えた。

 きっと、彼女は幼いのだろう。それを切り捨てることは、あまりに残酷なことに思えた。

「…………そういうのが重いって言ってるんだよ」

 一声出すのにも痛む喉を振り絞ってなんとか伝えた。不破さんは八科さんに縋ってえんえんと泣いている。もし、私の方に縋られたらそれでもう折れてたかもしれない。

 いけない、弱気になるのは。仮に戻ってどうなる? 通学して、二人と一緒にいて。そんな二人と一緒にいることは、耐えられないのだ。

 あの時の吐き気、怖気、あの場にはあれ以上一瞬だっていたくなかった。一時の情にほだされて元に戻る方が愚かなんだ。

 お願いだから早く帰って。

「樋水さん」

「……なに」

「私達のこと、嫌いですか?」

 わからない。八科さん、顔を見ても分からないよ、何を考えているか。

 傷つきたいの? 嫌いって言われると思わないの? それとも、こんな状況で好きだって言われると思う?

 邪魔だって、ウザいって言われたら、八科さんはきっと傷つくじゃん。そんなの聞くの、ズルい。

「…………別に、嫌いってわけじゃないって。重いのが、苦しいの」

「学校を辞めたいのですか」

「それは、だから、いったん離れたいの。そういう環境。別に戻れなくたって、生きていけるし、それでいいけど」

 別に最悪死んだっていい、とも思うけどね。大袈裟な話だけど、そんな無理に長生きなんて考えないし、適当にふらっと遊んですごせればそれでいいと思う。人生のことなんて知らないけどさ。

「やめてほしくないのですが」

「変わらないよ、そんなの言われても」

「楽しくなかったですか、私達は」

 そんなの。


「私は、本当に楽しかったです。二人と一緒にいることが」

 

 ……随分、はっきり言うようになったね、八科さん。昔は好き嫌いなんて絶対話してくれなかったのに。

 それは、好き嫌いなんてなかったってことじゃないんだよね。隠してたんだ。ズルいなぁ、そういうの、今言っちゃうの。

 

 楽しかった。

 

 二人と一緒の時間は本当に楽しかった。

 一緒にテスト勉強したり、プールに行ったり、怒られたりして、クラスでだらだらする時間も、登下校で不破さんを運びながらぐだぐだ喋るのも、全部全部、楽しかったんだ。


「……だ……だって、だって、私、ほんとに、無理なんだもん。ふっ、ふたりが、悪いんだから! む、むり、なの。ちかっ、ちかすぎるのは、ひっ、ひとがっ、にが、て、だから、心の中まで、踏み込まないでよっ!」

 やっぱり、私は弱いなぁ。嗚咽とともに、本音を吐いた。二人と一緒にいるのは本当に楽しかった、けど二人と一緒にいると、とても辛くなる。苦しくなる。本当に、それには耐えられない。

 涙があふれて止まらないのを、八科さんは私の仮面を外して、不破さんにしているみたいに、そっと抱き寄せてくれた。

「……樋水さん、表情が見えずとも、分かるものですね。樋水さんの沢山の迷い、悩み、苦しみが伝わってきました」

 八科さんの体に縋る私を、彼女は優しく、母親が子供にするように撫でてくれた。私が、彼女にかつてしてあげたように。

「私の気持ちは、そんなに重くて耐えられないですか?」

「……うん」

「……そうですか。不破さんの気持ちは大丈夫ですか?」

「……どうだろう。不破さん、調子あんま変わらないし」

 横で同じように抱かれている不破さんの寝息が聞こえる。安心して寝やがった、こんな時に。

 はぁ、結局、仮面外されちゃった。もう変に気取って話すこともないし、八科さんには腹割って話さないとダメだ。

「少し、お話しませんか?」

「……いいけど。八科さんからそういうこと言うの、珍しいね」

「話をしに来たわけですから」

 それは、確かにそう。

 でも八科さんがどういう話をするのか、それが分からない。

 鼻をずびずびとすすりながら待ってみて、ようやく一言。

「私のこと、好きですか?」

 重くない?

「なんでまた、そんな」

「答えてください」

「嫌いじゃないよ」

「好きと言ってください」

「……まあ、好きだけど」

「良かったです」

 はあ、良かったですか、なんて八科さんみたいな口調になりそうだ。これで八科さん、全く表情変わらず強気だから凄い。私なら仮面が欲しくなる。

「それで、話はそれだけ?」

「いいえ。学校に来るのが辛いのは、私の感情に耐えられないから、ですよね?」

「はあ、まあ」

「なら、ここで慣れましょう」

「……一応聞くけど、どうやって」

「実践です」

「どうやって!?」

 不破さんを床に寝かして、八科さんが両腕を広げてじりじり近づいてきた。

 いや。いやいやいや。それはおかしい。ゆっくり後ずさる。距離は開かないし、縮まりもしない。

「キャラ変更して私も不破さんのようになります」

「それは無理でしょ! 無茶でしょ!」

「では慣れてください。せめてスキンシップが過剰で友達との距離感の近い女子高生くらいにはなるので」

「じゃせめて笑ってよ! 笑顔で! 可愛い笑顔!」

「……難しいですね」

 それも無茶かな、と思ったけど、八科さんは動きを止めて、自分で顔をむにむにして、唇を吊り上げたり、眦を下げたり、福笑いで遊んでるみたいだ。

「こうでしょうか」

「悪そうな顔してる」

「……樋水さんが、変えてくれませんか? 昔、したように」

 そんなこともあったなぁ。あの時の八科さんは怒っているようだったけど、怒ってないのかな。

 恐る恐る近づいて、八科さんの顔に触る。暖かい肌は、鉄仮面でも何でもない人の体で、むにむに弄るときちんと形が変わる。

 そんなに無理にじゃなくて、今の八科さんのちょっと怖めの印象から、薄く口元に笑みを讃える程度で……。

「……ま、まずはこんなもんかな」

「笑えていますか?」

 少し引きつった表情だ。笑っているというよりも、ちょっと引いてるような表情。

「……無理っぽいね」

「そうですか。なら表情は諦めてスキンシップに励みましょう」

「えっ! わぁっ!」

 両手首を掴まれて簡単に押し倒された。そのまま八科さんの無表情が近く、近くにある。

「ち、ちか……ちかい、ちかいよ」

「貴女が寝坊した時、不破さんにこれほど近づかれました。彼女はそれで安心したと」

「いや……安心しないって。すごいドキドキするし……」

 何をされるのだろう。まさか無理矢理、なんて、八科さんがするとは思わないけど。

「……樋水さんは、好きと言われると辛くなるのですか」

「え、まあ、そういうことだけど」

「ときめいているだけでは?」

 ときめい……?

 つまり、八科さんの愛の告白に乙女らしくドギマギしちゃってそれが苦しいから私が悩んでたみたいな、下らない話ということ?

 まさか、そんな。

「ないない」

「目を見て言ってください」

「それは、近いし」

 本当に近い。喋れば息がかかり、喋らずとも彼女の肌が触れ合いそうなほど。

「不破さんとこうした時は、目を見て話し合いましたよ」

「それはキミらが肝座ってるだけでしょ!? いや普通は反らすよ、こんなの!?」

 だって、こんなに近くに八科さんの顔、黒い目を見たら、吸い込まれてしまいそうなほど、一心に私を見つめている。

 不破さん、これに耐えたのか、無理だ、私には無理。

「キスしてくれませんか?」

「はぁっ!? なんで!?」

「慣れるために」

「無理だよそんなの!」

「しないと放しませんよ」

「でも無理!」

「骨を握り潰しますよ」

「正気に戻って!?」

 そんな問答をしていたけど、八科さんは全然放してくれなくて、しかも話もしなくなった。

 ただ黒い目が私を一心に見つめていた。私の上に乗っかるような八科さんは、けどやがて手首を握る力も徐々に緩めていく。

 あとは、ただ見つめ合うだけになった。

 やっぱりすごいドキドキする。今すぐ走って逃げだしたいくらいには気分が悪い。

 ……この焦燥感にも似た、居心地の悪さ、熱でも出たみたいに熱くなる体。

 認めるには、あまりに陳腐で、下らない、下らない話だ。

 好きなんだろうか、八科さんのことが。

 ……いや、好きは好きだけど。

「八科さん」

「はい」

「恋したことある?」

「私は、貴女に」

「嘘だ。じゃ私のは恋じゃないよ。だってこれが恋なら、八科さんはもっと辛くて苦しそうにしてるもん」

「では、私の感情が恋でないのなら、貴女のそれは恋なのですか?」

「あっ、ズルい! そうやって私だけが八科さんを好きなことにしようとしてる!」

「いいえ、私も貴女のこと、好きですよ」

「そ、それも違うじゃん! 私は、八科さんのこと……恋はしてないよ。こんなの」

「なんです?」

「…………」

 なんなんだろう。人間恐怖症みたいなものだと思ってたけど。

「人を好きになるのを怖がっているだけでは?」

「……」

 そう言われるとそうなのかもしれない、と思ってしまう。八科さんも結構鋭い。

「私が、八科さんを好きになることを恐れていると?」

「はい」

「言うねぇ」

「私も恐れていましたので」

 さらりと八科さんは言う。

「ずっと恐れていました。貴女はすぐに壁を作る。不破さんだけがそれをするするとすり抜けて、貴女は私には一方的に壁を作って、近寄るなと暗に示す。私は、だから絶対に近づかなかった。貴女に嫌われたくなくて、貴女と離れたくなくて。ですが、貴女が言ってくれたのではないですか。本当の気持ちを伝えていいと、もう少し、本当の気持ちを話した方が良いと。だから話しました。そして、私は貴女の気持ちを聞く義務もあります。お答えください、私のことが、好きか、嫌いか」

「だ、だから好きだって……」

「仮初の言葉で逃げないでください」

 強い。八科さんは、強い。

 臆病で自分の気持ちを話さない八科さんを、私はやきもきしながら見守っていたものだけど、立場が完全に逆転してしまった。

 だって、まだ、そもそも、私は本当に八科さんのことが好きかどうかも分かってない。それなのに八科さんは自分が恋されていると思い切ってこんなことをしている。どんだけ自信過剰なんだ。信じられない。

 だけど、妙にその感情を当てはめると、私の今まで溜まった鬱憤うっぷんのようなものはその感情に集約されるような気がした。

 二人の前で覚えた不快感、苦しみ、辛さ、もやもやした感情。一人で引きこもった時の覚悟や決意、言い訳めいた後悔の数々。

 たまりにたまった私の溜め込んだ人間としての感情が、その一言に集約されていくのだ。

「……す」

 集約されていくのか!?

 けど、ここまで来てしまっては、もう止まれなかった。

 進むしかない。


「……すき」


「……! キス、してもいいですか?」

「いやなんで! 無理、まだ!」

 でも近い近いひぃ~! と恐れていたけど、ふと、八科さんがどかされた。

 不破さんが起きていた。

 八科さんを転がしてそのまま馬乗りになると、不破さんはあろうことか八科さんの顔に頭突きするみたいに……。

 唇と唇が重なった。

 わ、私は一体何を見ているんだろう……。不破さんと八科さんがなが~くキスしてる。永遠にも思われるような濃い十秒くらい。

 そして唇を放す、不破さんの目は据わってる。

「楓を説得したサービスと勝手に口説いてたお仕置きの私のファーストキッスだ。喜べ八科」

「……私も、初めてですが」

 二人の間に起こる妙な沈黙、互いに初めてのキッスをした見つめ合う二人を前にして、私は声も出せない。

 何しに来たんだこいつら。


――――――――――――――――――――――


 ……一言で言えば、色々まとまった。結局学校はもうちょっと頑張ってみることにしたし、二人に対する強い拒否感も薄れつつある。そもそもその拒否感が、恋愛感情というものらしかったけど。

 ただ、面倒な問題はまだ残っていた。

「ぜっっっっっっっったいキスなんかしないから。二人でしとけば?」

「樋水さん」

「楓~!」

 誰がそんな不純な……と距離を開けている。モテる女は辛いねなどと嘯く余裕もない。

「別に友達同士なんだからちょっとキスするくらい普通じゃんか~! な、そんな嫌がるなって、ちょっとくらい」

「最低。不破さん目がケダモノだし。もう二度とうちに来ないで」

「そんなぁ……」

「樋水さん、私は純粋な欲求からの言葉です。誠意があります」

「死ね」

 欲求って、君それ性欲じゃない? 不破さんと同じレベルだよ。

 と、こき下ろして二人をノックダウンさせた。

 八科さんが泣いた話とか、不破さんが八科さんの家で私にひどいことを言ったとか、そういう諸々の話も済ませたところだ。

 だから、二人の気持ちとか、真剣なところも知ったわけである。であるが、二人の友達としての姿は、私には勿体ないくらい素敵な人々だと思うけど、恋愛というと話が違ってくる。

 まさか八科さんまでこんな欲望に忠実とは。どうも、私が言った言葉に従って、らしいけど、こんなことなら八科さんを導くような真似しなければよかった。

「……じゃあ、まあ、とりあえず学校には行くよ。……ありがと、ごめんね、心配かけて」

 言うと、不破さんが元気そうに顔を上げる。八科さんも変わらない表情のまま、顔を上げる。

 なんていうか、はぁ。仔犬か、仔犬ねぇ……。

 また学校に通うことになるのは、まあいいんだけど、問題は。

 この二人と一緒に。

 不安なような、嬉しいような、むずむずするけど。

 やっぱり、ちょっと楽しみだった。

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