第31話 八科智恵理・孤独の仮面外れる時

不破ふわさんには連絡入れておくけど、明日話す時は直接、ほんとのきもち伝えてね。じゃないとまた不破さんに怒られるから』

 樋水ひみずさんはそう言って帰宅しました。

 樋水さんは、自覚していないと思いますが、妙に鋭く、耳と勘が良いらしく、私の嘘を見抜いたり、不破さんの寝起きや私から出る僅かな間を感じ取ることができるようでした。

 他人との距離感を大切にしたい、近づきすぎず、離れ過ぎず、そんなことを常に心がけている彼女だからこそ身に着けることができた、経験と実績に裏打ちされた努力の賜物たまものと呼んでも過言ではないでしょう。

 私にとっても、不破さんが怒り心頭のまま行動を起こすことは全く予想外でした。そしてそれが他ならぬ私のためであることも。

 幼い頃から、私は兄の言う通りに恐れられるような存在でした。いくらか、親の期待するように私は表情を作ろうとしたものの、どうにもそれが難しいようで、自分では変えているつもりでも表情が変わらない、不気味な鉄仮面であるというように言われ続けてきました。

 両親が死んだ時、確かに涙は出ませんでした。言い訳するようなことでもありませんが、私はとにかく茫然ぼうぜんとしていて、心が悲しむ余裕もなかったのです。そんな話を、もう兄にする気概きがいもないですが。

 私は、両親が大好きでした。兄も大好きです。けれどみんな、顔の変わらない私のことを不気味に、あるいは心配し、あるいは不安に思っているようでした。

 言葉で気持ちは伝わらず、感情がないと揶揄やゆされ、そんな風に理解し合えないまま親を喪い。

 ――中学の時、獅童しどう留実音るみねに告白されたこともよく覚えています。

 友達さえいなかった私にできた恋人。あまり重い話をしないようにと気を遣いましたが、そもそも身の上に重い話が多いような気をして、私は結局自分のことをあまり話せなかったように思います。

 それが、また彼女と私の間に無理解を発生させ、心無い言葉と共に破局することになったのですが。

 その時に、恐らく私という人間は他の人間と相容れない性質を持っているのだろうと理解しました。

 そうなると、もはや己の意志も存在も意味のないような、いてもいなくても変わらない、むしろいるだけ邪魔な存在であるような、道端の動物のようなものかもしれない。

 ただただ希薄な人生でした。大好きだった兄との生活も重苦しい沈黙が支配し、何のために生きているのかもわからないような日々。

『あの、友達になりませんか?』

 忘れもしません、貴女と出会い、桜に祝福された日のことを。

 不破さんの家に泊まった時、不破さんの発する言葉の一つ一つを私は自分のことのように思いました。

 誰も、親さえも気付かなかった私のことに気付いてくれた喜び。誰もいない世界から私を見つけ出してくれた喜び。私を見つけてくれた貴女だからこそ私は貴女を信じられる。貴女とだから、生きていられる。もう貴女のいない世界は考えられない。

 しかし、私は不破さんのように強くなれませんでした。

 もし、留実音や両親のように貴女を失うことになったなら、貴女に嫌われたら、貴女がどこかに行ってしまったら。

 そんなことばかり考えては恐ろしくて恐ろしくて、離れたくなくて、何も言えない日々ばかりを送っていました。

 貴女には何を言っても許して欲しいのに、貴女はきっとそれほど優しくない。貴女は結局は自分のことを大事にする人だと、そう分かっていましたから。

 けれど、私も勇気を出すことにしました。

 だって貴女がそう言ってくれたから、貴女をもっと、信じてみたいから。

「私も、樋水さんのことを愛しています」

 そう、二人の前で言いました。


――――――――――――――――――――


『ほんとのきもちを伝えてね』、と確かに八科さんに連絡した。

 でもそれは、不破さんの怒りを収めるために、暴言を吐いた私のことを許すとか許してないとかを正直に言えと言ったつもりなのだ。

 それが朝、突然不破さんの家で大胆に告白されてわけがわからなくなっている。

 どういうことなの?


※ ※ ※

 八科智恵理の何者をも寄せ付けない孤高なる存在に付きまとう孤独は、親と無理解のまま死別し、兄を含む親戚らから一切の理解を得られないままに成長し、他人を信じ切れずに理解を諦めた諦念ていねんによるものである。

 しかしてその諦念は、自分の表情を変えられない、変わらないことに対する絶望や、他人から見捨てられる恐怖を味わいたくないという”臆病”が原因である。

 そんな八科智恵理の臆病は、同じく臆病であるはずの樋水楓の踏み出した小さな勇気とちょっとした勘違いによって暴かれ、その役目を終えた。

※ ※ ※

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