第30話 八科郁夫・軽薄の仮面
中間テストも終わって十月の初旬、すっかり冷えてきて制服も衣替えになった。ちょっと厚着になったくらいではまだまだ寒いけれど、三人で一緒に歩くと不思議と温かい。
登下校で不破さんが寝ることがほとんどなくなったから、夏の暑苦しい時と違って少し寂しいような、冬なら暖かいだろうと八科さんと話してたのが少し馬鹿みたいだ。
一年は全国模試とかあるけど、もう行事的には期末テストをしたら冬休み、っていうくらい特にすることがない。期末テストが一番怖いと言えば怖いけど……。
二人との距離感は、まちまちだ。不破さんはべたべた甘えてきて、けどそれは以前までの不破さんと似通っているから特に気にしないでいられる程度のもの。
八科さんの方は、変わらずと言って構わないだろう。彼女との距離は、きっと出会った時からほとんど変わっていない。遊ぶようになっても、彼女の迷いが見えても、彼女は決して私に近づいていることをしなかった。
不破さんが懐いた捨て犬だというのなら、彼女はきっと警戒して寄ってこない仔猫だ。それでいて妙に主のことを想っている。
なんて恥ずかしい考えをしてしまうくらいには気温が低い。寒い寒い、あー本当に寒い……。
私としてはそれくらいの距離感で良い。互いに警戒しながら程よい距離を保つ、人間関係にしては少しギスギスかもしれないけど、決して仲違いすることも、変に勘違いもしないくらいの仲になる。
……それで八科さんが満足するのか不満なのか、きっと問い詰めても教えてくれないだろうけど。
彼女はいつも私の意見を伺っていた。
最初の頃は、単に私の気持ちが分からないだろうから、それを聞いたんだと思った。
次に聞いた時は、自分が何を言っても信用されないから、貴女の望む答えを言いたい、そんな風に言ってた。
そして、直近。そんなこと、突然言われても困ります、だって。
きっと嘘が吐けない人なんだろう。あまりに不器用で、隠そうとしてても隠しきれない感情が透けて見える。
透けて見えるからって引っ張り出そうとは思わないけど。
そう思ってたけど。
何もない日々が続くと思っていたけど。
「兄が、貴女方と話をしたい、と言うのですが……」
最近、八科さんから話題を切り出す時はいつも、爆弾発言しかしないような気がする。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
八科が私達を家に招きたいなんて! そりゃもう両手を挙げて喜んだ。
なんてったって八科が自分から何かしようって言い出したんだし、それも家に呼ぶとか、めずらしいどころの話じゃない。
八科の家のことは、結局デカい以外の情報をもらってないし、八科の兄についても私は何も知らない。八科に変なサプライズ仕込んだやつ、っていうくらいかな。しょっちゅう連絡入れてるからたぶん厳しくて無愛想な八科みたいなやつなんじゃないかと思うけど。
そういえば八科の親の話なんかも聞かない、私って八科のこと何にも知らないんだなぁ、なんて考えもした。
「それって絶対に行かなきゃダメ?」
「強制はしませんが」
なんて、二人が話してて驚いた。楓の正気を疑うほどには。
「なになに、楓行きたくないの? 八科の家。デカいんでしょ」
「もう不安になるくらいデカいよ」
「いいじゃん、面白そうじゃん、行こうぜ行こうぜ」
「そんなに行きたいんだ。じゃ、いいけどさ……」
楓の崩れるような作り笑いに消え入りそうな声、あからさまに下がったテンションと困った雰囲気は、どう見ても八科の家に行きたくないと言っていた。
意外、というか、また楓の悪い癖が出たと思った。
楓は妙なところで遠慮する癖がある、というより普段が無理矢理にでも盛り上げようとしたり、強引なことをするくせに、いざ距離を詰めようとか仲良くなろうとした時に退くような。
本当は人間が嫌いなんじゃないだろうか。そんなら、昔の私や八科みたいに教室に一人でクールぶっとけばいいのに。そういうのを私は飼い主の責任を取れというのだが。
相変わらずの八科と、見るからに気分が悪そうな楓と反面、私はそれをとても楽しみにしていた。
―――――――――――――――――――――――
なるほど、確かに八科の家は大きかった。家の大きさだけならうちより大きい。
八科が階段を上って玄関戸を開けると、それについて私と楓も中に入った。
「ただいま帰りました、兄さん」
いつもと変わらぬ調子の八科の声を皮切りに、どたどたと足音を鳴らしてやってきたのは、妙に柔らかい笑顔の若い男だった。
「おー! いやいや、お二人さんが智恵理のお友達? どうも、僕が兄です。兄の
にこにこ、にやにや、へらへら、……へらへら、が最も打ってつけと言ったところか。いかにも調子のいい
彼が招いてくれたのは、広くて何もないダイニングキッチンだ。
「さ、そこのソファ座って座って。いや~智恵理に友達ができてお兄ちゃん安心だよ~。お茶、ほうじ茶と紅茶どっちがいい? コーヒーもあるけど。あ、お菓子は和と洋のどっちがいい? なんでも好きなものあったら言ってね」
なんか調子が狂う。これが八科と仲の良い兄、なのか……? もしかして八科が喋ること全てこいつが先に言うから八科が無口になったとか。
「あれって八科と血、繋がってんの?」
「はい」
小声で聞いてみたけど八科は毅然として答えた(いつも通りだけど)。楓もちょっと困惑してるから、あの兄と会うのは初めてっぽいし、兄について詳しく聞いたこともないんだろう。
鉄人の兄とは思えないほど軟派な若者だけど、実は八科くらい賢くて運動できたりするのかもしれない。人は見かけによらないと言うし。
「……それより、話ってなんですか? わざわざ家に呼びつけて」
「あはっ、そうだね、ごめんごめん。いや僕、前々から君達と喋ってみたいと思ってたんだ。だって智恵理が人を呼んだりとか友達と遊びに行ったりとかって本当に珍しくて、でもまあ高校生ってそういうもんかなって思ったりもして、気になるからね」
「で、本題は?」
楓は妙に本題へと急ぎたがっている。乗り気じゃないのは知ってるけど、快適な部屋だしお兄さんの態度も癇に障るけど悪い人じゃなさそうだし、苛立つ理由が分からない。
「あ、その前に、樋水さんっていうのはどっち?」
楓が素早く反応して目を向けた。それに呼応してか、いつの間にかお兄さんの表情は笑いがなくなって引き締まっていた。
「そうか、君か」
「それで?」
「何かあるって話じゃないよ。智恵理とこれからも仲良くやってほしい、っていうくらいの話」
お兄さんは努めて軽い風に言って、それで話は終わりだと言わんばかりに部屋を出た。
楓はそれでも警戒を解かないよう、じっとお兄さんが部屋を出るまでじっと待っていた。それで階段を上る音が聞こえてようやく安心した風に溜息を吐いた。
「楓ってもしかして男の人苦手なの?」
「えっ? 別に苦手ではないけど、得意でもないかな」
「じゃ人生を女の子で手で打たない? 今ならこんなに可愛い女の子がついてくるけど」
「……ま、考えとく」
心ここにあらず、と言った具合で私のプロポーズは保留された。今日は楽しくない楓だ。責任とらせるか。
「楓~! 好き好き!」
「ちょっと! はぁ……」
ぴょんとソファを跳ねて抱き着いてみたら、呆れられた風に溜息を吐かれた。
「で、なんでそんな落ち込んでんの?」
「……落ち込んでないよ」
「じゃ笑ってよ」
責めた風に言うけど、楓はまた小さく息を吐いて、ごめん、と一言だけ言った。
「ちょっと、ちょっとでいいから置いといて。今は」
体調が悪くなっているのか、顔色もあまりよくなさそうで、むしろ私が申し訳なくなって少し離れた。
楓はそしてソファにもたれかかって、少しだけ呻いて目を閉じた。
自然、八科と二人残されることに。どうしたらいいものか。とりあえず喋るけど。
「楓、どうしたんだろ。心当たりある?」
「特には」
八科に聞くのが無理がある。でも、ああいう嫌がる素振りの楓をそもそも私は見たことがある。
そう……夏休みの宿題してた時。
夕食を食べないかって誘ったけど、八科も置いて先に帰ろうとした時だ。あの時の楓と同じ感じがする。
人の家が嫌いなのかな。それなら無理に誘うのはやめた方が良いかもしれない。
でも、少し違う気がする。だって、そもそも楓は人嫌いの傾向があるから。なにか大きな原因がある、そんな気がする。
今は休んでいるから、休ませておくけど。
「八科ってお兄さんと仲良いの?」
「どうでしょう」
「親とは?」
「親は、既にいません」
「……ん」
一瞬だけ理解が追いつかなかった。あまりに普段と変わらない、いつも通りの八科から放たれた言葉は私に様々な疑問を想起させ、同時に様々な納得を与えるのに充分で、膨大な情報を持った言葉だった。
自分の震える唇をそっと撫でて、変わらない八科の表情を見つめながら、その肩を撫でるように優しく触れて、もう一度聞いた。
「それ、本当?」
「はい。私が小学生の頃に事故で」
「……そう、ごめん、聞いて」
「いえ、構いません」
構わないわけ、あるか。
八科のことを誤解していたかもしれない。八科の抱える辛さとか問題とか、そういうのがずっとあったかもしれない。
私だって人間だ、それくらい心配はする。
ただ、楓は、聞こえていただろうに姿勢を全く変えずにソファにもたれていた。
「……もしかして、楓は知ってた?」
「ん、若林くんが言ってたよ。八科さんから直接は聞いてないけど」
「知っててなんで黙ってたの? 私くらいには言ってくれたって」
「言ってどうするの?」
「どうするって、それを一緒に考えるんじゃん」
確かに私達にできることなんて全然ないと思う。だけど、曲がりなりにも八科は友達で、孤独な八科と仲良くなったのは楓だった。
だからこそ、私を助けてくれた楓だからこそ私は、期待していた。
なのに。
「……いいじゃん、別に親いないったって一緒に遊んでワイワイするだけで。色々忘れられるよ、それで」
――気付いた時には楓の首を掴んで立たせてた。
「……樋水、お前」
「な、な、なに、なにさっ、暴力!? や、だってできないじゃん! 親いないって何ができるの!? どうするの!? 私だって不破さんだってそんなのどうしようもないじゃん!」
「私は……私は!」
こんなに感情的になったことはない。でも、そう、そもそも私は我慢なんてできる人間じゃなかった。楓を殴る、そう決めた。
けど、凄い力で締め付けられて手を放した。八科が、私を止めている。
「不破さん、落ち着いてください」
「八科! だって!」
「構いません。樋水さんの言う通りです」
振り解こうとしても、八科の力は凄まじくて私にはどうにもできない。
「ま、待ってよ不破さん。ごめん、ちょっと体調悪くて愛想悪かったけど、私もちょっとは八科さんのこと……」
「本音なんだろ!? 私が一番許せないのは、それを八科の目の前で言ったことだ!!」
楓は考えたことがあるのだろうか、家族のいない寂しさを。そんな八科が仲良くしている友達が、そんな心配を少しもしていない風な態度をされる、突き放されるような悲しみを。
私は楓に突き放されたらきっと耐えられない。今、楓がしたのはそんな飼い主の責任放棄だ。私達を突き落とすような悪行だ。
もう一息、暴れてみるけど、やっぱり八科は拘束を解いてくれなかった。
「……もういい、もういいよ! 八科、帰るからもう放せ!」
そう言うと、八科は大人しく手を離してくれた。楓をどうにかすることも一瞬考えたけど、もう顔も見たくない。
「見損なったよ、樋水」
そんな捨て台詞だけ残したけど、怒りは全く収まらないし、ただ妙に惨めで悔しい気分だった。
――――――――――――――――――――――――――――
めちゃくちゃ不破さんを怒らせてしまった。
「……ありがとね八科さん、助けてくれて」
「いえ」
少し気を抜き過ぎていた。不破さんのことをいろいろ見てきたけど、あんな風に怒る姿は初めてだ。
まだ首が少し痛い。でもそれ以上に明日からどう接したらいいかが分からなくなる。
とりあえず後で連絡入れるとして、それでも許されると思えない。でも、自分のことも話したくない。
八科さんは何も言わないし変わった様子もないけど、私の言うことに傷ついたのかな。
「……あれっ、まだ帰ってなかったの? 一人だけ帰ったの。なんだビックリした~」
上から八科兄が降りてきた。ただ、ちょっと尋常じゃない雰囲気は読み取ったみたいで笑顔が崩れた。
「なんかあった? 大丈夫?」
「……や、大丈夫ですよ、たぶん」
「そうかい? それなら、いいけど。じゃ」
言うと、また八科兄は上に戻っていった。
妹の友達が帰ったと思ったら降りてくるけど、いると自室に引きこもる。兄弟の距離感ってそんな感じなのかな。
「あの、八科さんのこと聞いていいですか?」
「え、なに、僕のこと?」
「あ、いや、智恵理ちゃんのこと……」
うわ、恥ずかしい。私、下の名前で人を呼ぶのってすごく苦手なんだよな。智恵理ちゃんって。
「智恵理のこと? いいよ、何が聞きたい? って言ってもたぶん智恵理に聞けば全部話してくれると思うけどね。僕が知ってることならなんだって話すけど」
それは、確かにそうだ。八科さんが隠し事なんかするわけなかった。
でも一応。
「あの……八科さんって、表情とか変わらないな~ってよくなるんですけど、切っ掛けとかって、あったんですか」
「ない」
あまりに短い一言で締めくくられた。自分でぼろぼろ喋りながら、暗い話になるかもしれない、という覚悟をしていたんだけれど。
「ない?」
「ないよ。智恵理が生まれてからずっと、智恵理は智恵理だったからね」
「それって……」
少し嫌な疑惑が浮かんで、胸の中に吐き気のような黒い汚い何かが渦巻く。けど、それは私だけじゃなくて、八科兄も抱えていて、抱え続けていた感情を彼は吐きだした。
「驚くけどさ、そいつ、親の葬式の時だって表情一つ変えなかったんだよ? 小学生の、親に甘えたい一番の年頃の時にさ。それだけじゃない、生まれた時から泣かなかったって言うよ。いきなりゲェ吐いて独りでに呼吸してって。いや本当に、人間じゃないよね。そんな奴とさ、二人で暮らしてるとさ、もうやってられないんだよ。親戚にもたらいまわしにされて、俺がなんとか仕事して養ってるけど、もうやってられないんだよ! こいつのせいで……どれだけ俺が……!」
絞りだすような泣き声はかすれて、八科兄は力任せに壁を殴った。けど手が赤くなるだけで、どうにもならない。
そんな姿を見て、八科さんは、やはり表情一つ変えなかった。
彼女は、生まれた時からずっとそうであるらしかった。
「……八科さん、大丈夫?」
でも私は知ってる。
「…………はい」
「嘘だ」
分かるよ。八科さんの
八科さんの背中に手を伸ばして、ちょっと無理矢理抱きしめる。肩を押して、背を低くさせて、胸で抱きしめてあげる。
「八科さん、表情は絶対に変わらなくても、心はあるもん。さっきはごめんね。よしよし」
八科兄も、八科さんに随分なことを言った。私はそれを咎めることはできない。私も同じようなことをしたんだから。
彼も救われるべきだろう。そして、八科さんも。
八科さんは特に抵抗することなく、私の抱擁を受け入れた。
家族が誰もいない、そんな寂しさを私は知っている。誰にも理解されないし、誰かに話そうともしない。ただ、静かに、それでいて愉快に、過ごせればいい。
私の悩みと八科さんの悩みは違う。心があるのにそれを蔑ろにされるようなのは違うんだ。
八科さんに謝るし、不破さんにもちゃんと詫び入れないと。
「お兄さん、八科さんは私が……責任もってなんとかします……なんて」
「……ごめん」
涙声が低く震えていた。年の差はいくつくらいなんだろう。既に働いているらしいけど、そんな中でこの八科さんと二人きりというのは、想像に難くない難しさがあったはずだ。
「でも、君のことを話す智恵理を見てると、なんとかなるって、思ったんだ。智恵理は君のために変わろうとしている、そんな、気がして」
「……そうですか」
八科兄の縋る希望が私だった。
八科さんは、どうなんだろう。
何かを求めているのか、何事をも諦めたのか。
求めているとすれば、何を求めているのだろうか。
「……遊ぶ気分じゃなくなっちゃったね。今日は私も帰るよ」
「……そうですか」
「あ、でも八科さん、たまには、自分のしたいこととか言いたいこと、言った方がいいよ。私とお兄さんとの約束、あと不破さんも」
「…………では、もう少し」
「ん?」
「もう少し、このまま」
ぎゅ、と背中に手が引き絞られた。
「甘えんぼだ」
「……」
もう少し、頭をなでてあげた。
※ ※ ※
八科郁夫の軽佻浮薄と言えるいかにも若者らしい軽薄さは、長年人間離れした八科智恵理の間近にいながら、その存在に頼ることもできず抑えつけられた感情の抑圧による現実逃避の一種である。
親の死に立ち会えど表情一つ変えない妹の存在をトラウマに思いながら、しかし親戚の誰一人さえも妹の不気味さが原因で頼ることのできない彼は、それでも妹のために働くことに苦しみ続けたがため性格に大きく分厚い仮面をつけている。
それでもなお、妹を見捨てず、妹を変える可能性に縋る姿は親の遺言にも似た口癖である『智恵理を笑わせてあげたい』という言葉と、実の妹をなんとかしてあげたい”誠実さ”のため。
※ ※ ※
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