第29話 最も近しい者の耐え難い変化について

 最近のお姉の様子がおかしい。

 おかしいと言えば、それはお姉の高校の入学式の頃からそうだった。お昼ご飯を友達と食べてきて、家に呼んで来て、ゲームして、しかもその一人があの八科先輩!

 帰ってくる時間が遅かったから、どうせ前みたいに学校でたっぷり寝てから一人で帰ってくると思ってたけど、結局次の日は寝坊だったから、ああいつものお姉なんだなって思ってた。

 だから、きっとこの変化は樋水先輩のせいなんだろうって思った。

 玄関で足をパタパタ、かと思いきや廊下に寝転がって寝始めるお姉。いつも部屋でぐーすか寝てたお姉が、今はすぐに学校に行く準備して玄関で先輩方を待っている。

 先週の金曜日はテストなのに服を買いに行ったし、夜じゃない時間だって寝ずにいて、最近は毎日夕飯も食べてる。テストで0点取ったわナハハ、と笑った時は肝が冷えたけど。

 毎日毎日家に樋水先輩と八科先輩が迎えに来て、送り届けに来て、樋水先輩が家に遊びに来て、先輩方と映画に行くとか言い出して、お姉が珍しく八科先輩の話をして、夏休みにみんなで勉強会、家で夕食食えなんて言い出して、水着買いに行くとか言い出して……。

 一番驚いたのはやっぱり家族旅行の時だけど。毎年恒例になっている旅行で、今年は沖縄だったけど、お姉は直前になって行きたくない、八科先輩の家に行きたい、遊びたいみたいなことを言い出して困った覚えがある。

 お姉は旅行に興味がない人だったし、旅行に行っても基本的に寝てばっかりだった。それが八科先輩の家に行きたいと言い出すくらいだから、私は私の影響かと心配になったくらいだった。

 でも、それは違う。

 お姉は、あの二人のことが、きっと私達家族より大切になったんだろう。そう理解した。

 プール行ったり、我が家でお泊りしたり、順調にお姉は友達として二人との距離を詰めて、そして今に至る。

 私としては、すごく複雑な気持ちだった。一つ年の離れた姉、一年だけ面倒を見れない姉の面倒を見てくれる人がいることに、不破先輩にすごく感謝したし、その人が八科先輩まで連れてきてくれたことに、本当に凄い感激してた。

 でも、今は。

「ちゃーすす、不破さん今日も起きて……寝てるね」

「んにゃ、起きへる……」

 寝ぼけながらお姉が体を起こして、無理矢理にでも挨拶する。その体を八科先輩が引っ張って立たすと、いつもみたいに二人で担ぐ。

「おはよ夢生ちゃん、それじゃお姉ちゃんもらってくね~」

「ん~楓ぇ、もらってもらって~」

「酔っ払いか」

 楓、って、お姉は樋水先輩のことを呼んでいる。

 お姉が下の名前で呼ぶ人間は、今までで私だけだった。そんなことを考えると、また不思議な感覚にとらわれる。けどこれは、八科先輩に彼女ができた時と凄く似た感情だっていうことに最近気付いた。

「じゃ」

 三人とも揃って家から出ていく。それを見送る私の気持ちは、何故か妙な胸騒ぎと共に不安があった。


――――――――――――――――――――――――


 中学の頃のお姉と八科先輩は、それこそ孤高……、もはや周りから触れられざるほどの崇高な存在ですらあったような気がする。

 私にとってお姉は小学校の頃から世話の焼ける姉で、毎日、毎日、家から学校へ、学校から家へ、文句を言いながら運ばなければならないような人だった。

 ただ中学になると、一年の間に姉の存在はすっかり学校の有名人になっていて、私が進学した時に『不破の妹』という呼ばれ方で特別視され、また『眠り姫の王子様』なんて呼ばれることがあって、……今にして思えば、私は眠り姫の王子様などと言われることに多少の優越感を抱いていたのかもしれない、と考える。

 でも、その時は私は八科先輩に夢中だった。スポーツ万能で、賢くて、格好良くて、決して気取らない姿、鉄のように固いところも私は好きだった。先輩の栄光がどれほど続くものか知らないけれど、それでも先輩の姿を目の当たりにするとそれが永遠の栄光であるかのような気持ちにさせられた。

 私にとって八科先輩は私の全てだった。神様という言葉の定義とかは分からないけど、たぶん私にとって神様というものなんだろう、とさえ思った。

 今は、ちょっと違う。

 お姉も八科先輩も、樋水先輩に出会って変えられた。

 樋水先輩が全ての元凶だった。

 だから、呼び出した。

「すいません、わざわざ家に来てもらって」

「いやいいよ。夢生ちゃんとも知らない仲じゃないしね。でも二人きりで話っていうのは穏やかじゃないね。八科さんのこと?」

「いえ、今日は樋水先輩のことです」

 樋水先輩も予想外だったらしく、驚きを隠せていない。今なら、きっと樋水先輩の真意を聞ける。何をしてきたかも、嘘を考える余裕もないはず。

「お姉も八科先輩も、変わりました。中学の時から二人を見てる私にはわかるんです。樋水先輩は二人に何をしたんですか?」

「何を、って……なに?」

「だって、中学の時の二人と今は違います。樋水先輩が何かしたとしか思えません」

 ああー、と樋水先輩は気の抜けるような納得を示した。私がどれだけ真剣なのか伝わってないようでした。

 けど、先輩はあっさりと言った。

「私、割と普通の友達として接してるだけだよ? だから、こういうと二人に悪いけどさ、二人に普通の友達がいなくて、二人を普通の友達として見てあげる人がいなかっただけじゃない? ……二人とも、割と普通のいい子だよ」

 普通の、いい子。

 そんな近所のおばさんが、私を言うみたいな安易で、事情を知らない傍目から見たような凡庸ぼんような意見を、私は鵜呑みにしたくなかった。

 したくないけど、それはあまりに的を得ているような気がした。

 だって、二人とも普通の友達がいなかったから。そして樋水先輩は見るからに凡庸で当たり障りのない普通の人間で、そんな先輩に二人を変えられるとしたら、きっと二人の方も、実はそんなに変わったところのない普通の人間だった。

 そうじゃないと理由にならない、そんな風に思った。

 だから、それは私一人の人間の価値観を大いに狂わせるに充分で、あっという間に目の前が真っ暗になるくらいの衝撃を受けた。

「……樋水先輩は、自分が特別な人だと思いますか?」

「え、なにそれ。……、自分にとって自分は一人だけだし、特別だと思えば、特別にしか思えないんじゃない? 普通の人から見て特別でも、特別じゃなくても、自分にとって自分っていうだけで、特別だし。ま、わからないけど!」

「……そうですか」

 少しだけ安心したのは、樋水先輩に答えのこだわりがある様子だったこと。当たり前みたいな答えを言わなかったこと。

 私にとって今までの樋水先輩って、ちょっと好奇心の強い、お菓子ばっかり食べてる普通の人だった。でも今の話を聞くと、先輩は先輩の人生があって、それを一所懸命生きてるみたいな感じだった。

 モブキャラクターなんて人はいない。先輩は、先輩なりに色んな考えをもって、それで生きている人だった。そんな人が考えて行動した結果、二人に影響を与えた、そう考えれば少しだけ納得できた。

「……これからも、お姉をよろしくできますか?」

「うん、そのつもりだよ。あ、そういえばさ」

 もう話はいいかな、と思ったけど、樋水先輩の次の問いが、また私を悩ませた。

「その、夢生ちゃんが私を呼び出すくらいに気になる変化ってさ、不破さんの方? それとも八科さんの方?」

 私の方が完全に予想外でした。どう考えても、お姉が変わったことに対して樋水先輩を呼んだつもりです。ですけど、八科先輩も確かに今までのことを考えるとありえないくらいの変化があって、二人とも同じくらいに変わってるわけで。

 樋水先輩は二人を変えて、私は八科先輩のことを本当に尊敬してて、お姉のことは世話の焼ける姉としか考えてなくて――なのに、私はお姉が変わったことに対して樋水先輩を呼び出したのです。

 それは、言葉にせずとも、私が八科先輩以上にお姉のことを重視していることになりませんでした。

「ま、なんでもいいけどさ。……二人とも、普通の良い子だよ。それは間違いないと思う。だから夢生ちゃんも、めげずに二人のことちゃんと見てあげてね」

「…………もう、いいです。突然お呼びしてすみませんでした」

「いいって、へりくだらなくて」

 そんな風に言いながら部屋を出る樋水先輩を見送ることもできませんでした。

 樋水先輩のことを、私は侮っていたのかもしれない。年上の人なのに無意識のうちに侮るなんて、自分でも最低だと思い、しかも、それでやっぱり自分より凄い人だと理解して自己嫌悪に陥る。

 それは悔しいことだけど――認めるべきことは、私にできなかったことをあの人が成し遂げて、私の大好きな人と、身近な人を、あっさり変えていったということ。

 すんなり飲み込めるわけも、ないけど。


―――――――――――――――――――――――――――――


「お姉……」 

「ん、なに?」

 夜、お姉が普段寝ている時間、お姉の部屋の電気はまだ点いていた。

 ベッドに寝転がってスマホ弄って、私の知ってる限りなら絶対にすぐ寝るのに、妙に嬉しそうな顔をしてスマホを触って。

「楓のやつ、結構愛想悪くて連絡返してこないんだよ。やなやつだよね~」

 そんな風に嬉しそうにしながら、連絡が返ってこないかと、今か今かと待ち望むお姉の姿は、あまりにも、本当に、私の知ってるお姉じゃなくて。

 きっとこれが当たり前の、普通の女子で、今までお姉に足りなかったもので、私が口を酸っぱくして言ったまともになりなよ、ってやつなんだろうけど、それがどうにも寂しくて。

 生まれた時からお姉は、不破未代は隙あらば寝てるような不良だった。私が小学校の五年間と中学校の二年間ずっと姉を運んでいて、一緒にいた十五年くらいずっと注意しても直らなかった生活習慣を、樋水先輩はたった半年くらいで綺麗なくらいに直しつつある。

 あの人はお姉のことをどれくらい知っているのだろうか、好きな食べ物、睡眠時間、髪を触る癖、ほくろの場所。そんなことを考えたけど、きっと樋水先輩の方が、私の知らないお姉のことを知っている。

 そんなことを考えると、何故かますます惨めになった。

「……一緒に寝ていい?」

「……私と? なにそれ。生まれて初めて言われた。別にいいけど」

 お姉が布団をめくってぽんぽんと敷布団のスペースを叩く。そこはお姉のあったかさがあって、私はついお姉の体に抱き着いた。

「お、おおー。今日は寂しんぼだね。私がホラー映画見た時とか怖いって言っても無視してたのに」

 そんなこと知らない。私が知らないお姉の話、してほしくない。そんな意思表示を込めて、もう少し強く抱き着いた。

 今日だけの我侭だ。変に心配もかけたくないし、三人が仲良くしているのは私にとっても、嬉しいことのはずだから。

 でも今日だけは、甘えさせてほしい。姉が立派に、独り立ちするさまを見届けるんだから。

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