第18話 樋水楓・殷賑の仮面
『八科の家、どうだった?』
起床すると不破さんからの連絡がまず目に入った。
『デカかった。でも凄く綺麗に片付いてたよ』
『八科らしいな。何も置いてなさそう(笑)』
「そんなこともないけどね」
もう何か月か何年か、敷きっぱなしの布団から身を起こして、んんーっ、と伸びをした。雑多な寝室から襖を開き、リビングのソファの方に転がり込んで、ベランダから入る光を浴びる。
父はいつも私が起きるより早く家を出て、私が寝た後に帰ってくる。まあ帰ってこない日もたくさんあるけど。
母はいない。写真で顔を見たから覚えてはいるけど、はて実際に会った記憶はあるのかどうか。
マンションの六階の一室、私は一人で何年ここに住んでいるだろう、とふと思った。
成長しても昔からひねたガキでしかなかったと思うし、今も大概はひねたガキだなぁと自嘲する。
結局お金だけ親からもらって料理を作ることなんてこれっぽっちも学ばなかったし、わざわざお弁当を買うよりもだらだらお菓子を食べて済ますか外食するかだし、成長なんてしてなかったのだろう。
八科さんはどうも自分で料理を作っているらしかった。兄の分と自分のお弁当、たぶん朝食も夕食も作ってるんだろう。立派なものだ。
八科の家は離婚か死別か、事情は知らないけれど私のところよりかは遥かに立派に、人間らしくしているようだった。
全く、劣等感で押し潰されそうになる。結局のところ状況まで酷似していてこの有様なのだ。不破さんの家とはかけ離れているからまだ言い訳も立つのに。
うちはネグレクトと言うようなものだ。そもそも、父の顔も数年は見ていない気がする。
私がするのはせいぜいゴミ捨てと洗濯と風呂掃除くらいなものだ。ダメな私を叱る人もいないけど。
本当に厄介なことになったと思ったのは、やっぱり八科さんと知り合ったことだけど。
ただ父に迷惑をかけない程度に、学校では平凡にいられればいいし、ちょっと変わった人程度ならそれでもよかった。
でも八科さんはあまりに優秀で、特異で――私と境遇が似ている。
どうしてこんなに差があるんだろうとか、違うんだろうとか、そういう考えても仕方ないことばかり考えてしまう。
今までは、何もなかった。ただ、時間を潰して、退屈に過ごして、それでも自分を大切にして、そんな自分を楽しんでいた気がする。
誰かが楽しそうにしてたり、幸せそうにしてても、私は根本から違うのだと、こうあることは仕方ないのだと、言い訳したり自分を誇ったりしていた。
八科さんみたいなのと出会ったのは初めてだった。あんなの、他にいるわけないけど。
昨日彼女の事情を把握してから、私の心は目紛るしく渦巻き、かき乱されていた。
「……いないんだ、親」
不破さんに嫉妬していたのだろうか。家族と仲良くて、親を鬱陶しがる姿も、旅行に行く姿なんかも。
悔しいとかそういう感情ではないと思う。それはだって、比べることができてようやく生まれる感情だ。私と彼女は同じステージに立ててすらいない気がする。
なのに、八科さんは、同じのようで、全く違う。
お兄さんと仲が良いのかな。それとも、単に八科さんが強いから、とか。
……八科さん、親を喪ったショックでああいう風になっちゃったのかな。
余計な考えばかりが浮かんでは消えて、いてもたってもいられない奇妙な興奮と衝動に駆られる。
それは全く下らない考えで――例えば今からでも自分は八科さんみたいに変われるとか、似た境遇だから八科さんとより親密になれるかもしれない、などというものであるらしかった。
哀れな情に
私は彼女の事情を無視して、早々と切り上げて帰ったのだ。彼女と仲良くなろうなんて資格もなければ、彼女の事情に踏み込む勇気すらなかったのに変われるわけもない。
水道水を一気に飲み干して、少し落ち着いた。
夏休み、今日も二人と会わない日だ。ただ緩やかに過ぎる時間に、私の心を煩わすうるさい知識が一つ増えただけ。
ただそれだけ。いつものように時間は過ぎて、できれば退屈しのぎにと友達と遊ぶ。
変わることはない。
※ ※ ※
友達をある程度作っては切り捨てるような真似をするのは、その期間だけ普通だと思われれば良いから、と本人は考えているが、その実は自信がないために誰か他の人間と親密になることを過剰に恐れているからである。
別に一人でいても問題視はされないし、お菓子ばかり食べていながら時に健康的な食事を繰り返したり不破未代から外聞の教授や学業を手伝ってもらうのは樋水楓の本質が”極端な臆病”であるため
※ ※ ※
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