第17話 殷賑と孤独の合わせ鏡
『八科さんの家、行っていい?』
七月の末日、暇に
今日は不破さんが旅行に出る日なので、もちろん夢生ちゃんもいない。つまり暇を潰しつつ不破さんだけ旅行するという苛立ちを抑えることができるのだ。
ちなみに不破さんは沖縄に行くらしい。先に一人で水着のお披露目なのかと思いきや、基本的には毎年部屋で一人で寝てるらしい。正気を疑う。本当に。
そんな不破さん、連絡を見るや否や『ずるい。私も行きたい』と言った旨の連絡を十件くらい入れてきた。そこまで行きたい? 沖縄ほどじゃないと思うけど、彼女にとっては家族の恒例行事より八科さんの別の顔の方がよほど気になるらしかった。
当の八科さんは『兄に確認してみます』と言った後『駅まで迎えに行きますので』ということなので、早速私は着替えて八科さんの家に行くことにした。確か
着替え、この間不破さんに選んでもらったのはちょっとオシャレすぎるというか、八科さんがどうせジャージなんだろうなぁって思うとおめかしする気も失せた。まあ……今日くらいは前までの安いのでいいや、今度不破さんに良い感じの普段着の相談もしよう。どうせ刈谷駅なんてそんな人の多くない端の田舎みたいなもんだし、うちの地元と一緒くらいのね。
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駅では、案の定ジャージ姿の八科さんが立って待っていた。緑色は初めて見たけど。
「おはようございます」
「おはよ。じゃ早速」
「はい」
すらりと手足の長い八科さんが私の半歩先を歩く。
元々、身長差がかなりあるから肩を並べて歩くなんてことはできないけれど、彼女が前を歩くのは普段あまりないことだから少し違和感を覚えた。
不破さんだけじゃなく、八科さんも私とは比べられないほどの高みにいる存在で、歩幅も合わせなければ私は置いていかれてしまうような、魚の小骨程度の下らない不安が妙にちくりと胸を刺す。
「いきなり家にお邪魔して迷惑じゃなかった?」
「いえ」
ちょっと不安だからいっぱい喋りたいのに、彼女の調子は相変わらずだ。突然家に行くんだからもうちょっと焦ったり、反応してくれてもよさそうなものだけど。
「ちゃんと片づけてる~? 慌てて掃除機かけたとかない~?」
「毎日掃除はしていますので」
「ちぇっ」
小さな声で不満を示した後、八科さんの顔を覗き込むように二歩ほど走った。彼女は私の顔をちらりと見ただけで、同じように歩を進めるだけだった。
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田舎だからか、数えるほどしか車の通らない道路の脇に、閑静な住宅街としか言いようのない場所で、階段をいくらか上らないと玄関に入れない系の家があった。八科家は二階建ての大きめな家らしい。
ガレージには自転車が一つだけあって、恐らくは八科さんのものだろう。車も二つほど入る裕福さには息を巻く。いや、それほどじゃないけど、凄い貧乏ってわけでもなさそう。
この間、財布に三千円しか入ってないからもしかしたら……って思ってた。ちょっとした妄想癖が杞憂であって胸をなでおろす。
「どうぞ」
「はーい、お邪魔しまーす」
八科さんの言う通り、掃除は行き届いているようだった。フローリングが蛍光灯に照らされて輝いている。それにしたって……。いや、何もない。
案内されるままにリビングに連れて行ってもらった。かなり広い部屋でこういうところでパーティも開けそうだ。家族用のテーブルが置いてある所からキッチンに繋がってたりするディナー用の場所があって、反対側にはソファとテレビが置いてあるくつろげるリビングスペースがある。これってダイニングキッチンってやつだよね……、うちもそうなんだけど、こんなに広くないから感覚が……。
「そちらにどうぞ」
こげ茶色のソファを指示されたので、遠慮なく座る。もふっとした優しい座り心地、百点。
「わぁ~、テレビつけていい!?」
「どうぞ」
ソファの前にはこれまた高そうなガラステーブル、上には三種類のリモコン、テレビとかDVDのやつだろう。更にその先には私が両手を広げても覆い切れないくらいの大きなテレビ! 是非見てみたい!
が、つけてみても、こんな時間じゃワイドショーがいくらかやってるだけで、コメンテーターの真剣な議論を大きな画面で見るだけの無駄足だった。
「こんなに大きなテレビがあるなら、今度何か映画借りて不破さんと三人で見ようよ」
「その時はまた兄に聞いてみます」
言いながら、八科さんは私のためにお茶を入れてくれていたみたいだ。冷蔵庫の冷えた麦茶、心からの歓待に感謝感謝!
でも八科さんの部屋に行かないと嘘だよね、と思ったところで、部屋の隅、テレビの近くに教科書類が山積みにされているのを見た。
「八科さん、あれは?」
「教科書ですが」
「時間割、あそこで合わせるの?」
「はい」
「八科さんの部屋は?」
「あまり入りませんね」
どういうことなの。自分の部屋入らないって。
「じゃ、完全に寝るだけの部屋になってるの?」
「いえ、寝る時はそこで」
八科さんの視線は、私の座っている場所を見ているようだった。
「えぇ……ちゃんと布団で寝ないとダメだよ。や、ベッドかな」
「睡眠に場所はそれほど……もう何年もそうしていますので」
「そうなんだ」
何も言うまいと決めて、気まずさを麦茶で流し込んだ。
広い、広いリビングに、それ以外のものはなかった。
――――――――――――――――――――――――――――
シュレディンガーの猫という話を不破さんからこの前聞いた。
「箱に猫が入ってるじゃん。死んでるか生きてるか箱の中身見ないと分からないじゃん。するとつまり箱の中には半分生きてて半分死んでる猫がいるってわけ」
「は、なにそれ意味わかんない」
「いやだから確認しないと五分五分ってことじゃん。私は確かに机に突っ伏して呼吸してるけど、起きてるか寝てるかみんな確認してないでしょ? だからシュレディンガーの不破さんとしては半分寝てて半分起きてるってことなの。つまりぼーっとした頭で何も考えてない他の生徒と状況は一緒ってわけ」
「は、なにそれ意味わかんない」
「わかれって。いや厳密には量子力学と確率のもっと難しい話なんだけど……樋水にはもっとわかんないだろうからな~!」
「ハァ~~~~~~~~~~~!?」
結局よく分からなかったけど、そんな私にも分かることはある。
確認しなければ知らないフリができる。知らないでいられる。
もはや、事実はどうだっていいのだ。そんなの知ったところで恐らくこれからの人生はそう変わらないし、つまり知らなくても変わることはない。
今日のことはちょっとした事故のようなものだろう、そう思い切りたい。思いこんでみせる。
「今日は突然お邪魔してごめんね、八科さん」
夕方五時にもならないうちに家に帰ることにした。帰る言い訳は適当だけど、八科さんは気にしない人。
結局、テレビをぼんやりつけながら、一緒に勉強したりした。彼女の家に、遊ぶものはほとんどなかった。
「いえ」
「それじゃまた今度ね。お祭りとか、プールとかね」
「はい」
非常に端的にものを言う八科さんは私を引き留めることも追い返すこともしない。そして、自分の口から何を語ることもない。
玄関を出て階段を下りて、少し気になって、しばらく歩いてから振り返ると、彼女は私を見送ってくれているらしかった。
ガレージに車はなく、そもそも数年間、車はなかったのだろう、と今は思う。
事実は知らない、という事実だけが私の平静を繋ぎとめていた。
疑惑としては、八科智恵理に既に親はいない、という確信めいた考えが何度も脳裏をよぎっているが。
けれど知らない、ということにする。
だって、そうだとしたら、八科さんは……私は……。
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