九十 文治の乱
文治元年10月8日。
朝に都を発した鎌倉軍500騎は、日が西に傾きはじめるころ、ふもとの要衝、坂本にたどり着いた。
馬の背を並べたような、比叡山の尾根に沿って建ち並ぶ、数多の堂塔。壮麗なる光景は、なるほど国家鎮護の大道場の名にふさわしい。
だが、前世において延暦寺攻めを敢行し、今生においても僧兵を殲滅している政子にとって、この地を攻めることに一切の抵抗はない。
その背に続く御家人たちも、北条政子――彼らにとっては神にも等しい主に、狂信にも似た迷いなき視線を注いでいる。
「――ふむ」
吹き下ろす風に運ばれて来る読経の声を聞きながら、ふと、政子は口の端をつり上げた。
「まずは坊主どもが恃むこの読経を、粉砕してくれようぞ」
その日は衝突のないまま、深夜を迎えた。
読経の声は止まず、むしろ時を追うごとに大きくなっている。
襲撃に備えてだろう。かがり火が焚かれ、堂塔が赤く染まって見える。
――懐かしき紅蓮の光景よ。
政子は、ふと思い出す。
本能寺で最期を迎えた折、紅蓮に染まった己が視界を。
「――人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり……」
口ずさむ。
その瞳は、朱に染まる堂塔を映して、紅蓮に輝いている。
そして――政子は命じた。
「始めよ」
その、言葉を、合図として。
耳を聾する爆音が、比叡の山並に、立て続けに響いた。
読経が止んだ。
かがり火の炎が乱れに乱れた。
怒号と悲鳴が、吹きすさぶ風に乗って流れて来る。
山上の混乱は、麓からでも容易に見て取れた。
当然だろう。彼らにとっては初めて聞く音だ。天魔の
「わしを攻撃するために、ぬしらはわしをさんざんに貶めた。仏敵、魔王、あらゆる悪罵を浴びせた――それが、仇となったな」
皮肉に口の端をゆがめ、魔王は笑う。
「経も通じん、法力も通じん、仏の加護も通じん、そして魔性の力を現実に使う――そんな魔王と戦う度胸は、残されておるか?」
無理だ、と、確信して。
魔王は主の命令を待ちかねた様子の郎党たちに、命を下す。
「行け! 略奪狼藉は許さん! だが抵抗する者は殺せ! 武装する者は皆殺せ!!」
「はっ! 鎌倉殿が意のままにっ!!」
10月8日深夜から翌朝にかけて行われた攻撃で、延暦寺は占拠される。
死者多数。捕縛者多数。抵抗をあきらめた一部僧兵の手で略奪が行われ、その際の失火で小火騒ぎが起こる。延暦寺にとって地獄のような光景が、そこにあった。
延暦寺制圧を受けて、後白河院は、延暦寺の末寺分社にいたるまでの武装解除を要求。
加えて、これまで在地の豪族(ほとんどが同時に鎌倉殿御家人)が行ってきた寺社領の管理を、鎌倉殿推薦の御家人に任せることも、あわせて要求した。
「天をも恐れぬ所業ぞ!」
この暴挙に激怒した延暦寺勢力は、総力を挙げて抵抗の構えを見せる。
ことは延暦寺だけでは済まない。他人事ではないと見た南都、高野山がこれに同調。騒乱は全国に波及した。
全国的な騒乱の中、政子は都を守るため、京に張り付けにならざるを得ない。
そんな中で、寺社勢力は各地の豪族に、調略の手を伸ばしていく。
もともと地縁で繋がった寺社と豪族である。
しがらみに囚われ、身動きが取れなくなる御家人が続出した。
――仏法を恐れぬは、しょせん一部のみ。
確信を深めた寺社勢力は、全国に騒乱を起こしながら、南都に集めた軍勢で都を窺い、政子を都に釘付けにする。
――鎌倉の動きを封じ、続々と兵を募って数を頼みに鎌倉方を圧殺。そのまま院御所に押し寄せ、後白河院に泣きを入れさせる。
そんな粗々とした絵図を、彼らは描いていたのだろう。
甘い未来を信じさせた、悪意ある存在に、気づかぬまま。
◆
「……そうか、息子は――
「はい。いかがなさいますか?」
奥州平泉、
奥州藤原氏の棟梁、
「仏法の力を借りようと、時世はもはや動かしがたい。この平泉を――地上の浄土を守るためにも……奥州は、鎌倉に味方する!」
摂津国福原、
少なくなった一族郎党を集めて、かつての天下の主――平家惣領、
「
「はっ、叔父上。僕たちも、負けていられませんね!」
「うむ……さあ、みなの者、武器を取れ。わしも取る――魂に
下野国国府。
ここでは、
「さあみんな! 義姉上――鎌倉殿の御為に、この坂東を荒らす不埒者を一掃しようじゃないか!」
「ヒャッハー! さっすが範頼様、話がわかるー!」
「まずは二荒山を焼いてやりましょうぜーっ!」
「なんでですか焼かないでくださいっ!」
「ちぇー。義兼殿はノリが悪いぜーっ!」
「ノリで敵対もしていない寺社を焼くな―っ!!」
相模国鎌倉、
武家の都。すべての武士の、心のよりどころたるこの地には、南坂東の各国から、御家人たちが続々と集まって来ている。
「執権殿、どうしやすか?」
「とりあえず、来なかった者を数え上げて……滅ぼしましょうか?」
「なかなかぁ苛烈な……とりあえず
「上総、下総もよし。伊豆は、肝心の父上が……」
「ああ、上総殿にぃとっつかまっちまったから……」
鎌倉の権力者ふたりは、遠い目になった。
そのころ、東海道を駆けのぼる一団があった。
源氏の白旗を高々と掲げる騎馬武者の軍団は、意気軒昂に吼えながら、長蛇を成して続々と街道を駆けてゆく。
「ヒャッハー! 腐れ坊主は消毒だー!」
「我ら、鎌倉殿の御為に! 奉公せよ! 奉公せよ! 奉公せよ!」
「政子ーっ! 恨むぞ―っ!」
「奉公せよ! 奉公せよ! 奉公せよ!」
政子の父――
「……クソっ! 甲斐に居れば寺領ぶんどり放題だっちゅうに、割に合わんわ!」
「なにか言ったか武田の!」
甲斐源氏棟梁、
「なんでもないわい! それより暑っ苦しいぞ上総の!」
「当然よ! 将門公の化身たる鎌倉殿に奉公つかまつるは我が至上の喜びよ! 鎌倉殿に仇なす輩は、この上総広常が斬る! みなの者! 仏にあっては仏を斬れ、神にあっては神を斬れ! 退くことは許さぬ!!」
「おおっ!!」
一方、西国でも、東国同様、都を目指す一団がある。
西国鎮定を任され、そのまま西国の守護に収まった、
「姐さんのために! 行くぜ行くぜ行くぜーっ!」
「義仲ぁっ! 待ちやがれっ! ――くそっ、魔王娘め、おいしいとこ持っていきやがって! おい義経、南都はおれさまたちでやるぜ!!」
「叔父上が、行きがけの駄賃だってそこいらの寺社を燃やして回ったのが悪い!」
「馬鹿野郎! せっかくの機会を逃しちゃあ、もったいねえだろう!」
「もったいないで坊主を殺すな! 背後に敵を残さぬためとか食料を奪うためとか、もっともらしい理由がもっとあろうが!」
「いや、どう考えてももっともらしくないからな!」
横から全力で突っ込みが入ったが、ふたりは聞く耳もたない。
「へっ。だが、この戦が終わったら、平和になっちまうかもな」
「そうなったら、叔父上はどうするんだ」
街道を駆けながら、為朝と義経は語り合う。
「へっ、魔王娘に逆らうようなら斬る――って面してるぜ……まったく、所帯持ったら日和りやがって」
「日和ってなどおらぬ!」
「まあ、そういうことにしといてやるぜ……だが、そうだな、この戦が終わったら……魔王娘から大船でも
「どこまでもお供しますだぁ! 為朝さまぁ!」
鬼の従者を従えて、源為朝は天を仰ぎ、笑った。
◆
近江国、琵琶湖東岸。
山間の侘びた庵の中で、源頼朝は静かに微笑む。
同刻、京の都、八条院御所。
兄、
「――さあ、始めましょう。私と、あなたで、この世のすべての理不尽を、洗い流しましょう」
「――いざ、始めようぞ。わしと、うぬの天下取り。その総仕上げを!」
後に、文治の乱、あるいは文治の法難とも呼ばれる、全国規模の騒乱。
一貫して鎌倉有利であったにもかかわらず、寺社勢力を完全に沈黙させるには、実に三年の歳月を要した。
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