八十八 決断



 元暦2年8月。

 北条政子は500騎の武者を率いて京に入る。

 7月に起こった地震の爪あとも無残な京の都は、不穏を孕みながらも、不気味な静けさを保っていた。



「この先、どうなるのか……」


「以前のように、うやむやのうちに沙汰やみになることはあるまい。なにせ今回軍を率いているのは、あの第六天魔王の化身だ」


「悪僧どもも、震えあがっていようさ。胸がすくわ」


「とはいえ……平家のように、悪僧だけでなく寺院まで燃やしてしまわぬか、不安だのう」


「祈るしかない。しょせん我らに今生での救いなどない。一心に阿弥陀仏に祈るのだ」


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」



 戦になる。

 延暦寺と、鎌倉の。

 そんなうわさを、誰もが信じていた。

 北条政子の上洛は、うわさを真実と思わせるに十分な出来事だった。



「――非常時ぞ。都での狼藉は許さぬ」



 都に入る前に、政子は御家人たちを集めて命じた。



「都人への傷害は許さぬ。姦淫は許さぬ。殺人は許さぬ。宋銭一枚たりとて物取ること許さぬ。これを侵すものは――斬る! 肝に銘じよ!!」



 言葉には、明確な殺気が込められている。

 これが、わずかな温情の余地もない命令だと、御家人たちは、戦慄とともに理解した。


 理解はしたが、そうなると、困る御家人たちも出て来る。



「あのよォ、御台様……そうすっと、オイラ鎧を売りにでも出さねえとカネが……」


「あ、オレも」


「オレも! オレもッス大将!」


「お・の・れ・らー!」



 つぎつぎと手を上げる御家人たちに、政子はぷるぷると拳を震わせる。



「そろいもそろって都での略奪をあてにするなーっ!!」



 叱りつけたものの、一応不足に備えてはいる。

 あらかじめ近縁所領から、諸々の物資調達を命じていたのだ。

 八条院の支援も期待できるので、とりあえず御家人たちが寝食に困ることはない。

 とはいえ、おまえらもうちょっと考えて生きてくれと、政子は願わずにはいられない。


 気を取り直して。

 都入りした政子を迎えたのは、兄、北条宗時だった。



「しくじったな、兄者よ」



 政子は、不敵な笑みを浮かべて言う。


 僧兵を殲滅しなかったことである。

 それが失敗だったと、すでに理解しているのだろう。宗時は顔に無念をにじませながら、頭を下げる。



「面目ない」


「よい。たいしたしくじりではない。後白河院に決断を迫る時期が、少々早まっただけのことよ」



 言って笑い、馬を進める。

 すれ違った背中越しに、政子は兄に声をかけた。



「かじ取りの難しい京の都で、兄者はよくやってくれている。あとは……わしに任せよ」



 ぶっきらぼうに言って、政子は振り返らずに行く。

 向かう先は法住寺殿。後白河院の御所だ。







 法住寺殿に向かうつもりの政子だったが、途中、使者に呼び止められ、急遽八条院御所を訪ねることになった。

 我が家のごとき気楽さで御所を押し通ると、政子は既知の女房に、八条院の元へと案内された。


 御殿の奥。人払いされて静まり返る、薄暗い空間。

 灯火に照らされ、そこに居たのは、御所の主、八条院だけではなかった。



「やー、政子やん元気ー?」


「娘よ、変わらぬようで安心したぞ」



 八条院に続いて声をかけたのは、八条院とよく似た雰囲気の、僧形の男――後白河院だった。



「治天の君! なにゆえ八条院御所ここに居るのだ?」


「うむ。院御所で会おうと思っておったのだが、段取りやら何やら、うるさい者が多くてな。ひとまず妹の御所を借りた。近日中には何とかするつもりだが」



 頭をかきながら、後白河院は困ったように笑う。



「急いだは、延暦寺に対する迷いゆえか?」


「うむ、それなのだ……延暦寺め、どうしたものか」



 苦悩をにじませる後白河院に対して、政子の回答は明快だ。



「――潰す。僧兵をだ、完膚なきまでに潰し、延暦寺から、そしてあらゆる寺社から武力を取り上げる」



 後白河院は目を見開いた。

 こともなげに言ったが、内容は過激に過ぎる。

 不安からか、それとも迷いからか。視線を左右に動かす後白河院。

 対象的に、かたわらで静かに座る八条院は、眉一つ動かしていない。



「……そんなことが、出来るのか?」


「――死ぬ気になれば、な」



 声を震わせる後白河院の喉元に、政子は言葉の刃を突きつける。

 治天の君――天下の主が想像するには、あまりにも残酷で破滅的な言葉に、後白河院は身震いした。



「寺社を本気にさせれば、都の仏事は執り行われぬようになろう……高僧の供養がなければ、祖先の御霊休まらず、怨霊は跋扈し、数多の天罰が下されよう……都は、滅ぶ」


「滅ばぬ」



 政子は恐るべき未来を即座に否定する。



「――このわしが滅ぼさせぬ。都を、国を質に取り、どのみち我らには抗えぬ、と、たかをくくっておる坊主どもの心に、凍てつくような冷水を、浴びせてやろうぞ」



 余人の言葉ではない。

 第六天魔王を自称し、数多の僧兵を殺した仏敵でありながら仏罰をものともせず、さらには怨霊と化した平清盛に守護された平家をも打ち倒し、従えた……そんな生ける魔王の言葉だ。



「……やるのか」


「怖ければ、わしが独断でやる――じゃが、機はいまぞ」


「――にーちゃん」



 額に汗を流し、惑う後白河院に、八条院が声をかけた。



「うちは政子ちゃんを助けるよ」


「……妹よ」


「わかってるよ。清盛さんにも言われた。皇統を守るのがうちの、皇族うちらの役目。せやから延暦寺と、南都と戦うなんて恐ろしいことは、武士に――政子ちゃんに任せるんが、正しいのやと思う」



 当惑する後白河院に、八条院は語る。



「でも、それでええの? いまのままの寺社で、本当にええの? 僧兵なんかは言うに及ばず、ろくに戒律も守らん、俗人よりよっぽど俗じみた僧が、格好だけ綺羅綺羅しく着飾って、国家の安寧を願う……それで本当に国が守られとる?」



 飢饉、大火、大風、地震。

 立て続けに起こる天変地異は、なにを咎めるものなのか。



「日ノ本を守るために、皇族うちらは寺社との戦いから逃げたらあかん。うちはそう思う……それに、大事な娘が戦うんや。おかあちゃんが知らん顔でけへん」



 最後に、そう言って、八条院は微笑む。

 後白河院は、なお視線を迷わせ、眉間にしわを寄せ、苦しみに顔をゆがめて。


 ふと、息を吐いた。

 灯明瞬く、静まりかえった空間で、その音は妙な存在感を伴って響く。


 後白河院の表情が変わっていた。



「余は、暗君だ」



 迷いをすべて吐きだてしまったかのように、揺れぬ瞳で、治天の君は語る。



「余ほど、そう評され続けた者も少なかろう……否定せぬ。余の治政の間に起こった災いの数を挙げていけば、災いに対処できなかった余の姿を見れば、誰もが納得するであろう」


「にーちゃん……」


「だが、そんな余にも取柄があってな……しぶとく、あきらめん事だけは――得意なのだ。かつて余は、延暦寺を抑えつけようとした。そのことは、今も覚えておる」



 微笑んで、後白河院は決意の言葉を発する。



「――やろう。延暦寺と、寺社と戦おう」



 政子は会心の笑みを浮かべた。



「うむ。ならば、よい機会ぞ。わしに皇子みこを預けよ」


「皇子を?」


「うむ。寺社を敵とする以上、宮中に無用の敵を作るべきではない。鎌倉殿を皇子に継がせる、その筋道を示せば、宮中の異論を抑えやすかろう」


「……ならば、尊成たかひらを預けよう」



 数え七歳になる、高倉院の四の皇子だ。

 後の後鳥羽天皇であり、史実を盛大に歪めてしまっているが、いまさらである。



「鎌倉殿よ。日ノ本を立て直す……頼むぞ、おぬしの力が頼りだ」



 後白河院の言葉に、政子は笑う。



「治天の君よ。この一事で、ぬしは後の世において名君と讃えられようぞ!」



 元暦2年8月12日。

 後白河院は、延暦寺との全面対決を決意する。


 まさに、歴史を動かす決断であった。

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