八十三 都の不穏
養和から改元し、寿永元年(1182)6月。
この日北条宗時は、都の治安維持のため、市中を見回っていた。
さすがに市中の治安は、だいぶんにましになった。
飢饉の最中とはいえ、行き交う人の顔色も、けっして暗くはない。
――だけど、不穏は、むしろ加速している。
宗時は、そう思わざるを得ない。
二年連続の不作。
東国からの米穀も、市中の民全員の飢えを満たしきれない。
力弱い者から、確実に。飢えは容赦なく、民衆の命を奪っていく。
そのかたわらで、いち早く東国からの貢納の恩恵にあずかった公家たちの中には、世情に似合わぬ大きな宴を催して、良識ある者たちの眉を顰めさせる者もいる。
いや。無分別な浪費で怨嗟の対象となったのは、公家だけではない。
延暦寺もまた、東国帰服の恩恵にあずかって、酒色をともなう無分別な浪費を再開させている。
むろん、それに対する非難は内部でも根強く、さらには飢えた民への施し、棄民の引き受けなど、飢饉に対する独自の対応も行ってはいる。
だが、それで悪行が相殺されるわけではない。
さらには、延暦寺の威を借る僧兵たちの横行も、都人の眉をひそめさせる。
――浮世離れしているうえに、俗世じみている。
悪僧は、民衆の心がわかっていない。
僧兵に紛れこんだ、俗心を捨てきれぬ者たちが、都の治安を乱している。
検非違使である北条宗時、ひいては朝廷や後白河院との衝突は、いずれ避けられなくなるだろう。
「どしたっスか、宗時の兄ぃ!」
「ヒャッハー! 腐れ僧兵ども、今日は居ねえのかぁっ!? 狩ってやるぜーっ!!」
配下の
彼らはみな、南坂東の武士。
北条政子が、朝廷に反旗を翻す以前から従っていた者たちだ。
かつて政子とともに、延暦寺の僧兵たちを屠った筋金入りも多い。
神仏に等しく――いや、神仏の上位者として、北条政子を信望する狂信者たちだ。
政子の命であれば、彼らは延暦寺を焼くことすら迷うまい。
――そこを見誤れば、あるいは延暦寺が滅びるかもしれない。
神や仏の威が通用しない。
それを骨身にしみて理解している僧兵は、もはやこの世には居ない。
――だが、そうなれば、政子も無傷では済まない。
後白河院も、公家たちも、みな神仏を厚く信仰している。
勢力としての寺社を疎ましくは思っていても、必要以上に苛烈な処置には反発を覚えるだろう。
なりふり構わなくなれば、延暦寺は皇室の仏事すら盾にしかねない。そこまでいけば、政子の方が、分が悪い。
――まだ、延暦寺とは戦えない。
宗時は、そう判断せざるを得ない。
しかし、だからといって退けない。
退けばせっかく築いた「神仏を恐れない」という悪名が台無しになる。
かといって退かねば、増長甚だしい僧兵たちと、ぶつかることは避けられない。
恐れさせなくてはいけない。
あちらから退かせなくてはならない。
そうさせるには、検非違使・北条宗時の名では無理だ。
尼将軍。
第六天魔王。
あらゆる武士の棟梁。
北条政子の存在が、いまの都には、要る。
――だけど、それも無理だ。
宗時は口の端をゆがめる。
武士の都、鎌倉にとっても、北条政子は居なくてはならない存在だ。
今まさに、出来つつある武士のための行政機構。
それを強靭なものにするためには、棟梁である北条政子が、何事も裁量し、実績を積み重ねていかなくてはならない。
――京は、僕がなんとかするしかない。
だから、宗時は決意する。
京の都に悪名を轟かせ、僧兵たちをしり込みさせる。
生きながらの鬼か修羅。政子同様、自分がそんな存在になることを。
「――ヒャッハー! 出やがったぜーっ!!」
と、供の坂東武者が歓声を上げた。
見れば、道の向こうから、僧兵と思しき男が歩いて来る。
でかい。
身の丈七尺はあるだろうか。飛び抜けた巨漢だ。
白い頭巾をかぶりった僧の姿。見かけは、まぎれもなく僧兵だが……
「はっはぁ! 大人しく弓矢の的になりやがれっ!!」
「――止めろ!!」
僧兵に絡もうとした武士を、宗時は大声で制止する。
目を見張る巨漢、というだけなら、別人の可能性もあるが、身に纏う剣呑極まりない気配は、余人ではありえない。
「鎮西八郎為朝殿! お久しゅう!」
声高に呼ばうと、あたりがざわめいた。
鎮西八郎。十代半ばで九州を制圧し、保元の乱で武名を轟かせた彼の名は、都人にとっても特別だ。
巨漢が頭巾を外す。
中から出てきたのは、源為朝の日焼け顔だった。
「よお、魔王娘の兄よ! 魔王娘に言われて、おれさまが貴様を手伝いに来てやったぜ!」
身長の倍近くある、長柄の大太刀を振りまわしながら、源為朝は笑って言う。
宗時は苦笑交じりの息を落とす。
この男なら。この男の悪名ならば、あるいは延暦寺の僧兵を抑えつけるに足る。
「――さすが政子」
政子とて、そこまで計算して為朝を送ったわけではない。
だが、宗時がそんなことを知る由もない。感謝とともに、宗時は妹を讃えた。
なぜか同調した
◆
宗時の目論見通り。
勇名と悪名轟く源為朝のおかげで、朝廷と寺社の本格的な衝突は先延ばしにされた。
飢饉の都は、悲惨な情景を産みだしながらも、さらなる惨劇を産むことなく、そのまま年を越す。
寿永二年の春になって、ようやく未曽有の飢饉も小康を得るに至った。
だがそれは、天災によって動きを封じられていた者たちが、自由を得たことをも意味していた。
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