八十二 鎮魂の歌



 ――末法の世である。



 武士の時代となる、はるか以前。

 摂関政治に衰えが見え始めた時代から、そう言われてきた。

 世は乱れ、人倫は打ち捨てられ、仏の教えは顧みられなくなる。そんな絶望の世こそ、今だ、と。


 たび重なる政変を目の当たりにして、民はなにを思っただろう。

 昨日まで朝廷を動かしていた貴人の首が、河原に晒されているのを見て、民はなにを思っただろう。

 日ノ本で最も尊い御方が、兄弟で相争い、子に親を処刑させ、自らの手で人倫を乱す様を見て、民はなにを思っただろう。

 昨日まで貴族の使用人のようだった武士が、貴族を、皇族を、治天の君すら抑えつけて専横を振るう様を見て、民はなにを思っただろう。

 仏法を守り導くべき寺社が腐敗堕落を極め、僧は立身出世や私利私欲を満たすことしか考えず、僧兵が我が物顔で都大路を闊歩する様子を見て、民はなにを思っただろう。


 仏法の世にあって、僧は戒律を守らず、貴族は己の欲のままにふるまい、しかも己の手を汚さない。

 そんな人間が極楽往生を遂げる傍らで、生きるために手を汚さねばならぬ、それを強いられる者は、己の穢れを知り、己が救われぬことを知りながら、絶望の中で朽ちていかねばならない。


 狂おう。

 狂い果てて、この矛盾に満ちた世で我がままに生きよう。

 どのみち救われぬならば、財を盗み人を殺し娘を犯し御仏を穢そう。


 奪おう。

 真面目に生きて救われぬならば、己が奪う側に回ってやろう。

 なけなしの縁に縋って寺社に入りこみ、酒色に溺れる僧に取り入って、自分が奪う側になるのだ。


 生きよう。 

 それでも生き続けよう。

 最後の最後まで生きる事をあきらめず、命の続く限り、この明日のことすら考えられない今を生きていこう。


 一片の救いもない末法の世。

 日ノ本は、矛盾に矛盾を重ねてきたつけを、今、まさに払わされている。







「おびただしい血を流して、その末に……ようやく日ノ本は生まれ変わろうとしています」



 琵琶湖東岸の山中、侘びた庵の薄闇に紛れながら、頼朝は粘性を帯びた瞳を碁盤に向ける。

 盤面は、白黒の石が冗談のように入り混じっていて、戦況はにわかに判じがたい。



「寺社も変わる。変わらねばなりません」



 頼朝は、妄執のようにつぶやく。



「寺社はすでに、己を制御する手段を持たない。僧兵を失い、かわりに入り込んだ|そのようなもの(・・・・・・・)は、この未曽有の飢饉で加速度的に数を増やしている。魔王の名で抑えつけていられるのも、あとわずか。早晩、市中にあふれて世を乱すことは間違いありません――そうなれば」



 頼朝は、黒の石を盤面に激しく叩きつける。

 勢いで他の石が飛び散ったが、気にも留めない。



「政子殿、貴女の勝ちです」



 頼朝が会心の笑みを浮かべた、その時。



「御免」



 と、庵の外から声がかけられた。







「ふむ……」



 唐突な声に、頼朝は眉をひそめた。

 人目を忍んで建てた庵である。客などあろうはずがない。

 だが、ふたたび「御免」と声がかけられた。

 男、それも老人のそれだが、よく通る、歌うような風韻だ。



「どなたです?」


「旅の僧でござる。琵琶湖(おうみ)を見渡す景色に誘われて迷い込み、渇きを覚えていたところ、こちらの庵を見つけた次第。できれば水を分けていただきたく」



 声に偽りの色はない。

 頼朝は隠し置いた太刀に視線をやってから、席を立つ。



「それは……お疲れでしょう。たいしたもてなしもできませんが、どうぞお入りください」


「や、これはかたじけない――御免」



 頼朝の声に応じて、入って来たのは六十がらみの老僧だった。

 旅の僧。自らそう称すにふさわしく、旅慣れた風体で、顔は日に焼け、旅塵にまみれている。



「どうぞお寛ぎください」



 言いながら、水甕から杓で水を汲み、手渡す。

 朝の内に焚いておいた雑穀混じりのゆるい粥があったので、それもふるまった。



「このような飢饉の折に、かたじけない」


「いえ、どうかお気になさらず」



 老僧が畏まってしまったので、頼朝はかえって恐縮してしまう。

 死んだことになっているとはいえ、伝手も使いようで、まず、食うには困っていない。



「ありがたい」



 老僧は一口一口、噛みしめるように粥を平らげると、もういちど感謝の言葉を述べ、ふと、奥の碁盤に目を移した。



「これは、囲碁ですか。山の庵にて風流な」


「お恥ずかしい。手慰みです」


「いやいや、実は拙僧も、俗世では囲碁を嗜んでおりました。もっとも、拙僧は下手の横好きでしたが……同年の友人が強うござってな。よく叩きのめされたものです」



 老僧は、懐かしげに語る。



「同い年の」


「先だって、亡くなりました。拙僧が若くで出家遁世いたしたので、おたがいめったに顔を合わすことも、なくなっておりましたが……やはり、いくつになっても、友の死は堪えるものです」


「それは……ご愁傷さまです」


「かたじけない。懐かしくて、つい口が滑り申した」



 老僧は微笑んで頭を下げた。



「ついで、と言ってはなんですが、友人の話をさせてもらってよろしいか」


「ご友人の供養になるというのなら、喜んで聞かせていただきましょう」


「では……」



 居ずまいを正して、老僧は語り始めた。



「我が友は、武士でした。武士といっても、それなりに身分がある身でござる。武士の中では顔役といっていい身分であったが、それでも貴族の中に入ると下の部類でしてな。その狭間で、ずいぶんと苦しんだはずですが、そんな苦労をまったく見せぬ男でござった」



 老僧の歌うがごとき声に、頼朝は聞き入った。

 老僧の友人の苦労は、頼朝も体験したことだ。


 源氏の棟梁。

 そう謳われた、その実権力者の走狗でしかなかった父、源義朝。

 その嫡男として、頼朝は幼くして官位を得、宮仕えを経験してきた。


 屋敷に居れば郎党や家人に、次期棟梁としてかしずかれ、宮中においては稚児よ武家の子よと陰口をたたかれる。

 そんな歪を極めた環境にあって、苦労を面に出さない。並大抵の努力ではなかっただろう。



「頭も要領もいい男でしてな、とりわけ人の欲というものを、よく理解してござった。そのくせ身内のこととなると、とたんに頑なになるのが玉に疵でしたが……運にも恵まれて、とんとん拍子に出世を重ねて、ついには位人臣を極めてしまい申した」


「その方は、もしや……」



 頼朝は、老僧が友だという男の正体を察した。



「さよう。かの平清盛公こそが、その友人でござる……六十四歳。早いとは申せぬが、一族を守るために自ら怨霊にまでなったというのが、実にあの男らしい」



 老僧は苦笑めいた笑みを浮かべた。



「なぜ、その話を私に?」


「……実は拙僧、この庵を見つけた時、鬼気の様なものを感じ申した」


「鬼気?」


「さよう。この世のものでない雰囲気、と申せばよいか……ただならぬものを感じて、放ってはおけぬと訪ねてきた次第」



 言われて、にわかには言葉を返せない。

 たしかに頼朝は、自分の死を偽っている。

 しかし、実際は生きている。そのはずだった。



「貴殿は生きながらにして、死んでいる。死にながらにして、人の世に手を伸ばしている……そう見え申した。その様が、どうしようもなく重なるのでござる。死してなお一族を守り続ける、清盛公と」



 ――私は、死んでいるのでしょうか。



 生きている。と、胸を張って言いきれない。

 妻と語らい、そして誓った、その想いを達する。

 ただそれだけのために死を偽り続け、生き続けている。

 そのあり方の歪さを、老僧の言葉はまっすぐに射抜いた。



 ――ですが、戻れない。たとえ有り方が、怨霊に近しいものであったとしても。



「お言葉、ありがたく」


「こちらこそ、もてなしていただき、かたじけない……どうか、生きられよ」



 胸にしみいるような、温かい言葉だった。

 その余韻が冷めぬうち。



「では」



 と、老僧は立ち上がり、手早く出立の支度を済ませる。



「お待ちを。あなたはいったい……!?」



 何者なのか。

 問う頼朝に、老僧は振り返らず、名乗った。



「西行(さいぎょう)と申す。ただの旅の僧でござるよ」



 言い残して、老僧は庵から出ていった。


 しばらくして。

 風とともに、遠くより歌を吟じる声が流れて来る。

 己の魂を慰める歌だと、頼朝は思った。






西行……諸国を巡った漂泊の僧。当代屈指の歌人。元北面の武士。崇徳院の霊を慰めた逸話を持つ。

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