五十三 平家の戦
治承4年8月。
全国に、燎原の火のごとく広がる反乱。
往年の平将門の乱を思わせる、関東の大反乱。
政情不安と相次ぐ天災から、崇徳院の怨霊を恐れる無辜の民。
平清盛は、福原の私邸で、それらの報告を受けていた。
報告を聞きながら、清盛の視線はその相手――平宗盛にはない。
見つめるのは
「ふうん? 畿内を収めるうちに、関東を平定されてしまった、と」
清盛が石を置く。
その乾いた音を恐れるように、宗盛は平伏した。
「はっ、諸国に反乱鎮定の命令を発するも効果なく。申し訳ございません」
「いや、いい。あの娘なら、それくらいはやる。実質、畿内と関東の二者択一を迫られたといっていい。そしてボクたちは畿内を取った。ならば関東失陥は予定調和だよ」
「そ、そんな」
「宗盛、危機感が足りないね。いま平家は、浮沈の狭間に在るというのに」
清盛の静かな言葉に、宗盛は答えられない。
「大げさだと思っているね? 違うよ。事実、応じる手を間違えば平家は沈む。それほど厳しい相手だよ。北条政子という娘は」
「……それほどに」
「うん。それに、天もあちらを味方している。まったく、柄じゃないけど怨霊の存在を疑いたくなる間の悪さだよ……平家が浮かび上がるために、ずいぶんたくさんの貴人の恨みを買ってるからね」
「
宗盛が眉をひそめ、清盛の発言を咎めた。
「まあ自虐はよしておこう。しかし凶作は深刻な問題だ。畿内どころか西国一帯に、すでに飢饉の兆候がある。関東に遠征しようにも、まず兵糧の確保がおぼつかない。対する東国は不作とは無縁、おまけにあちらは防衛戦だ。兵糧に苦しむ事はないだろうね」
「ならば奥州の藤原氏、
「悪くない」
盤面に白石を置いて、それから清盛は肩をすくめた。
「だが、良くもないね」
言われて、宗盛は視線を地に落とし。
しばらくして顔を上げる。
「甲斐源氏や小山、新田にも、官位を餌に、反乱の首魁――あの
「悪くない。やっておくべきだね――だが、足りない」
「……申し訳ありません。なにが足りないのでしょうか?」
平伏して教えを請う宗盛に、清盛はため息を落とした。
「宗盛、ボクたち
碁盤に黒石を置きながら、清盛は語る。
「――天下でもっとも財を持ち、人臣としてもっとも尊貴で……日ノ本でもっとも多くの武士を抱える。それが、平家だよ」
「は、はっ……!」
「兵糧確保、地方慰撫に財貨を惜しむな! 朝敵どもにありったけの汚名を被せ、味方には至上の栄誉をくれてやれ! そして日ノ本を戦慄させる大兵を率いて――関東に攻め入る! それが“天下の平家”の戦だ!」
鋭く、厳しく、清盛は命じる。
嵐のごとき怒号に、宗盛は縮こまって平伏した。
「承知いたしました! しかし、それほどの大兵となると兵糧も」
「大将に権を与えて、道中の
「なんと!? それでは民が飢えます!」
宗盛が平伏して翻意を促す。
だが、清盛は応じない。ただ一言、冷たく言い放つ。
「民が飢えても平家が残ればいい」
「なっ!?」
「乱が長引けば、どのみち民は困窮する。ならば圧倒的兵力で敵をすりつぶし、戦を短日の内に終わらせることこそ肝要……そうだろう、宗盛?」
「……高倉院に相談――」
「許さない。院への奏上は、すべてが決まってからだ」
「なにゆえですか! ここは筋を通すべきではありませんか!?」
血相を変える宗盛に。
「宗盛。院に、民を飢えさせた責任を負わせるな」
低い声で、清盛は辛辣な言葉をぶつけた。
「なっ!? 私はそのような」
「自覚がないのかい? いま、キミはそう言ったんだ。たしかに院に相談すれば、平家の責任は軽くなるだろうさ。責任の半ばを院が背負うことになるんだからね。でも、それはいけない。自らが担ぐ神輿に泥を塗るようなものだ。なんと愚かで、みじめな行為じゃないか」
「……父上」
教え説かれて、宗盛の顔が青ざめる。
そんな息子に、清盛は優しく語りかける。
「宗盛。これは平家の戦だ。そうでなくてはいけないんだ……わかるね」
「……わかりました。平家の惣領として、この戦の汚名、私がすべて背負いましょう」
怯えの色は隠せない。
だが、宗盛は声を震わせながら、そう言った。
ふっ、と、清盛は顔を緩める。
「頼むよ宗盛。本当はボクが兵を率いたいところなんだけど」
「いけませぬ。父上は平家にとって、そして日ノ本にとって大事な身」
「わかっているよ。戦の事は重盛たちによく相談しなさい……もっとも」
「もっとも?」
「ボクの知る重盛なら、キミに鬱陶しがられても、親切の押し付けをしに来るだろうと思ってね――と、噂をすれば」
言葉の途中で、清盛は視線を外に向ける。直後。
「――宗盛殿! こちらに居られたか! 父上も、お元気そうでなによりです!」
そう言って訪ねてきたのは、噂の主、平重盛だった。
「やあ、重盛。すくなくとも、病み上がりの君よりは元気なつもりだけどね」
「なにをおっしゃいます! この重盛、元気も元気ですぞ! 宗盛殿、関東鎮圧の折には、ぜひとも俺を大将に!」
「ね?」
と、清盛が微笑み。
宗盛も苦笑を浮かべた。
「兄上、病み上がりの身です。戦の腕よりも、その知恵をお借りしたい」
「なにを言うか宗盛殿! この平家の存亡がかかった
「それほどお痩せになられて、無茶をおっしゃいますな!」
「よけいな肉がとれて身軽になったというものだ! 宗盛殿も武家の棟梁なれば、もうちと痩せてはいかがか!?」
「なんと仰る!? 私が太っているのは関係ないではありませんか!?」
たがいの気遣いが原因で口論を始めた兄弟を前に、清盛は思う。
――ボクは、源頼朝に感謝すべきなのか。
頼朝が重盛を説得してくれたから、いまの兄弟の良好な関係がある。
そこに何か思惑があったのかもしれないが、結局それも、頼朝とともに、園城寺の炎の中に消えた。
――だけど、頼朝。だからといって、キミの奥方に手心を加えたりはしないよ。
清盛は東の空を見る。
清盛を越える打ち手が、そこに居る。
「平家の力、平家の武、平家の戦を、見せてあげるよ」
静かに、清盛は石を置く。
治承4年9月下旬、平家の追討軍は、関東を目指し出発する。
平家の発した大号令により参集した、その数、号して10万騎。
平家の赤旗を翻し、行く先々で略奪を重ねるその姿は、地獄の軍勢そのものだった。
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