五十四 未来よりの一手
治承4年10月。
伊豆国国府、国司館。
関東を覆う反平家の大勢力。その首魁が住まう館だ。
夕焼けに
艶やかな黒髪を
北条政子。
幼き頃は北条の修羅姫として。
成長しては源氏の女将軍として。
そして今は、関東を支配する賊軍の首魁として。
恐れまた讃えられる少女は、従者、藤九郎からの報告を受け、口の端を不吉な形につり上げた。
「――来たか」
「はい、奥方様。平家軍10万、各地の反攻勢力をすり潰しながら、東海道を東へと下ってぇおります」
藤九郎は淡々と語る。
源頼朝の、無二の従者として、主を影で助け続けた藤九郎は、政子の従者として、今も忠実に仕え続けている。
「関東諸豪族の動揺は?」
「揺れてはおりますが、踏みとどまってぇおります」
政子が問うと、藤九郎は二通の文をさし出してきた。
「これは?」
「小山と新田からです」
「ほう?」
政子は文を受け取り、ざっと目を通す。
小山からは、平家から調略の一手があったとの報告が。
対して新田から送られてきたのは、平家からの命令書そのものだった。
「小山は小山らしく、新田は新田らしい」
面白い。政子は口の端を曲げる。
藤九郎がいぶかしげに首を傾けた。
「と、いいますと?」
「小山は恩着せがましく報告しながら、平家からの命令書は手元に置いた。どちらに転んでも損をせぬように、な」
藤九郎に、小山からの文を渡しながら、政子は話を続ける。
「対する新田は、ぶっきらぼうに文書そのものを送って来よった。一度腹を決めたら、それに殉ずるつもりらしい」
したたかな狼と、誇り高い虎の姿が、そこから浮かび上がる。
「信頼すべきは新田、ですか」
「勝っているうちは小山も裏切らぬさ。利に聡いだけあってそこは信用できる。
「松永……?」
「おっと、気にするな。むしろ新田の方が扱いにくい……が、あの
忌々しい、というように、政子はため息をつく。
「気になってたんですが、奥方様はなんでぇ足利殿を嫌ってるんですかい?」
主の様子に、藤九郎が不思議そうに問いかけた。
「――頼朝様と
足利義兼に対する手放しの賞賛に、政子はますます仏頂面になる。
「……非の打ちどころがないから、余計に腹がたつのだ。欠点のひとつもあれば、まだ可愛げがあったものを」
「そんな無体な」
「しいて言えば子孫が悪い」
「子孫て」
「まあ、それはよい。話の続きだ。信濃はどうだ?」
これ以上は無用とばかり、政子は強引に話題を引き戻した。
「足利殿の手腕と、なによりぃ甲斐源氏どもを脅威に感じてでしょう。こちら側に」
「その甲斐源氏はどうか」
「不調です。甲斐源氏棟梁、
「まあ仕方あるまい。我らの勝ちを信ずるには、追討軍10万はいかにも多すぎる。むしろ兄者はよくやってくれた。一部でも動いてくれるなら万々歳よ。武田への牽制にもなるしのう」
甲斐国に向かわせた兄、北条宗時に賞賛を送りながら、政子は笑う。
異様な
「しかし、奥方様」
藤九郎が口を開く。
その目には、一切の迷いがない。
「なんだ? 藤九郎よ」
「相手は10万。勝ち目はぁありますかい?」
問われて、政子は不敵な笑みを浮かべる。
「敵は都からの遠征であり、兵糧は不足。動員をかけられた武士たちも、古くからの平家恩顧の者以外は士気も上がっておるまい。大仰に10万の大軍というが、それも実数ではなかろう……まあ、それでも、普通に考えれば平家の勝ちは揺るぐまいな」
己を突き放すような言葉だった。
その、様子を見て。藤九郎ははっと息を飲むと、政子を睨みつけた。
「……
負け戦を恐れないのは、園城寺の炎に消えた頼朝に殉死するつもりではないか、との推測なのだろう。
「ばかめ。的外れもいいところじゃわ。わしは徹頭徹尾勝つつもりでおる。普通なら、と言っておろう」
「なにか、策でもあるのか?」
「策、というほどのものでもない。清盛が知らぬだけよ」
「知らぬ? なにを?」
その問いに、答えるかわりに。
政子は二本の指を振り上げ、床にとん、と置く。
それはまるで、碁を打つような仕草。
「囲碁の
「……未来よりの、一手」
「うむ。藤九郎よ、手伝え。この館より見える
政子は口の端をつり上げ、凶暴な笑みを浮かべる。
「――
はるか昔、存亡の危機にあった織田家が、逆に雄飛するきっかけとなった合戦だ。
一か八かだった。
二度とあのような博打は打つまいと思っていた。
しかし同時に、次があれば、もっとうまくやれるとも思っていた。
――その絶好の機会が、目の前にある。
くっくっく、と、政子は笑い、藤九郎に目を向ける。
「藤九郎よ、わしらは勝つ。そのために、存分に働いてもらうぞ」
「承知ですよ。この藤九郎、頼朝様の――あんたの
主と同質の笑みを浮かべ、藤九郎は頭を下げた。
◆
平家の討伐軍を迎え撃つため、政子は南関東の武士団を動員。
2万騎を号する大軍は、10月20日、伊豆国国府を発し、東海道を西に上る。
駿河国に入ると、先んじて駿河で暴れていた甲斐源氏の安田、加賀美らと合流し、22日夕刻、駿河の中部、富士川東岸にたどり着いた。
このとき、平家の先陣は、すでに富士川西岸に姿を見せている。
平家の赤旗をひらめかせる官軍。10万の兵馬の声は、ただそこに居るだけで、富士川の流れる音をかき消さんばかりだ。
だが、政子は恐れない。
神をも恐れぬ不遜な笑みを浮かべて、馬を進める。
「――さあ、参ろうぞ」
ここには居ない誰かに声をかけて。
政子は川辺に馬を寄せ、大音声で名乗りを上げた。
◆
甲斐源氏……甲斐国一帯に蟠踞する源氏。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の子孫。
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