三十五 後白河



「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」



 かつてそう評された男が居る。

 およそ皇族として必要な教養を備えず、遊興にひたり、今様いまよう狂いの青年時代を送った男。


 異母弟の不幸により、他に選択肢がないにもかかわらず、それでも己の息子が皇位を継ぐまでの中継ぎとしての役割のみを求められた男。



「和漢の間、比類少きの暗主」



 身内にさえ前代未聞の暗君よ、とこき下ろされながら、保元、平治の乱を、幾多の政争をくぐりぬけ、治天の君として日ノ本に君臨するに至った男。


 男は、後にこう評される。



「日本一の大天狗」と。







 殿下乗合事件の最中である嘉応2年11月。

 八条院御所にお忍びで尋ねてきた後白河院は、密かに御所の主と会った。


 後白河院と八条院は、異母兄弟である。

 政治的には時に対立するものの、兄妹仲は悪くない。

 というより、おおらかな性格の八条院は、敵味方など気にしないのだ。



「やあにーちゃん。ひさしぶりー」



 御所に後白河院を迎えた八条院は、治天の君に対して謎の気安さを発揮する。



「おお。言うほどでもない気がするが、まあひさしぶりだな」



 対する後白河院の返答も気安い。

 本来なら両者の立場を慮って咎める人間が居るはずだが、あくまでお忍びだ。

 人払いも済ませており、隠れて控えている人間も口を閉ざしているので、幸か不幸か邪魔は入らない。



「にーちゃん元気してる?」


「おお。この間福原に行ってな、からの商人と話したぞ」


「あー、知っとるよ。にーちゃんが異国人と接見したゆーてみんな仰天しとったよ。九条くじょうはんなんか『天魔じゃ、天魔の仕業じゃ!』ゆうて頭から湯気立てとったみたいやね」


九条兼実あいつ、余のこと嫌いすぎではないか? というのはさておいて……妹よ、ちと尋ねたいことがあるのだが」


「なにー?」


「御所に上がる直前に、ただならぬ気配を纏った娘がこちらを見ておったのだが……」


「あー、先に会うてもたん? いきなり会わせてびっくりさせよう思とったのに」



 八条院の残念がっている様子を見て、後白河院が眉をひそめる。



「いや、いきなりあんなのに会わされたら、さすがに洒落にならぬからな?」



 抗議の声にも、八条院はどこ吹く風だ。



「まあまあ、うちの娘なんよ。紹介するわ」


「娘? ああ、先だって猶子に取ったという娘か」


「そうそう……伊勢やん? ちょっと政子ちゃん呼んできて?」



 八条院は、控えていた侍女に言い渡す。

 ほどなくして、それは姿を現した。


 一見、幼い少女だ。

 顔立ちは、整っている。

 だが、瞳はらんらんと輝き、放射される王気オーラの強さたるや、物理的な圧力を疑うほどだ。



「……妹よ」


「この子がうちの猶子むすめの北条政子やよ」



 八条院はのほほんと言うが、間違ってもそんなかわいい存在ではない。



「おぬし、本当に人か? 怨霊か妖魅の類ではないか?」



 後白河院が問うと、少女は得たりとばかり、笑う。



「はっはっは、治天の君よ。なにを隠そう第六天魔王とはわしのことよ!」


「こら、政子ちゃん、変なこと言わへんの――にいちゃんごめんな」


「いや、よい。童相手に非礼を咎めるも無粋な話よ……だが」



 後白河院は、政子をまじまじと見て、にやりと笑う。



「気に入った。妹が無理やり猶子むすめに迎えただけのことはある」


「うちのやでー。にーちゃんにはあげへんよー」



 しみじみとつぶやいた後白河院に、八条院が釘を刺した。



「それは残念だ。御所うちに上げたとき、公家どもがどんな顔をするか、見てみたかったのだが」


「おい今さらっと怖いこと言いやせんかったか?」



 政子の突っ込みは華麗に聞き流される。

 八条院がため息をついた。



「そんなこと言うとるから九条さんに嫌われるんやないの……」


「はっはっは、余も嫌いだからおあいこだな」


「治天の君が好き嫌い言うたらあかんのと違う?」


「まあ許せ、ここだけの話だ――と、すまぬな。余が八条院の兄だ。よろしく頼むぞ」


「う、うむ」



 兄妹そろった危機感のなさに、政子はある意味圧倒された。


 それから、二人で話し始めた兄妹を見ながら、政子は考える。



 ――こやつらが治天の君とその妹とはな……



 兄は治天の君――つまりは天下を差配する皇父。

 妹は巨大な皇室領を保有する天下屈指の資産家。


 とてもではないが、そうは見えない。



 ――というか、後白河院こやつの雰囲気、どこかで……あ。



 気づいた政子は、苦虫をかみつぶした。


 似ているのだ。

 政子が信長時代ぜんせで知る、ひとりの男に。



 ――足利将軍、足利義昭あしかがよしあき、あの公方殿に似ておる。



 政子は内心頭を抱えた。



 ――天下で最も尊貴な男があやつそっくりとかイヤすぎる。



 なにせこっちから手を出せない。

 いや、後白河院は政子に対して何もしていない、どころかむしろ好意的なので、彼女の不満こそ理不尽極まりないのだが。



 ――おにょれ義昭ぃっ!!



 とりあえず政子は、心の中で絶叫した。

 この時代に存在する、足利家のご先祖様の安否が危ぶまれる。





治天の君……天皇家の家長として政治の実権を握る者。

足利義昭……室町幕府最後の将軍。信長と敵対して包囲網を敷いた。先祖の足利義兼は、将来の義理の弟(予定)。

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