三十三 嘉応の強訴

 嘉応かおう元年も暮れになった。

 政子が京に来て二度目の冬だ。年が明ければ政子も十三歳になる。



「うみゅ。やはり京の冬は、伊豆よりよほど寒い」



 白い息を吐きながら、政子はつぶやいた。

 言いながら、さして寒さを感じている様子はない。

 簀子えんがわ高欄てすりに肘をかけながら、悠然と庭の景色をながめている。



「そういえば、このごろは刀狩りのうわさを聞かぬな」



 ながめながら、政子はつぶやく。

 五条の橋元で刀狩りをしていた源為朝のうわさは、一時期都中を駆け回っていたが、最近はとんと聞かない。



「さては為朝、義経を鍛えるのに夢中になっておるな?」



 そうに違いない、と、政子は苦虫をかみつぶした。


 源為朝といえば当代無双の武人だ。

 そして為朝は知らぬことだが、牛若丸――源義経は源平合戦において比類ない活躍をする未来の英雄だ。さぞかし育てがいがあることだろう。



「あれはわしのじゃというのに……」



 口を引き結んで、政子は仏頂面になる。

 当人――義経が聞けば、「だれがお前のものだっ!?」と全力で抗議しただろうが、あいにく当人はここには居ない。


 かわりに現れたのは、年かさの女房だった。

 しずしずと近づいてきた女房は、愛嬌などまるでない真面目くさった顔を政子に向け、言った。



「姫さま、若い女房たちが怖がって通れないので、簀子ろうかを占領するのはおやめ下さい」


「デアルカ!」



 女房からの苦情を受けて、政子がさっと立ち上がった、その時。



「まーさーこちゃん!」


「にょわっ!?」



 後ろから、覆いかぶさるようにして抱きつかれた。


 こんなことをする人間など、この八条院御所には一人しかいない。

 目の前の女房が、心底疲れきったようなため息をついて、見て見ぬふりを決め込んだことからも明白だ。



八条院ははうえ!? いきなりにゃにをっ!?」



 抗議の声も届かず、政子は声の主――八条院に頬ずりされる。



「んー、あったかい。子供やからかな? ほんまあったまるわぁ」


「わしは冷たいぞ!」



 両袖に包みこまれて懐炉がわりにされる政子。


 ふつうなら、こんな仕打ちに黙ってはいない。

 しかし、相手が八条院となると、そうもいかない。

 彼女が日本屈指の権力者だから――では、無論ない。



 ――この緩さ! この無遠慮さ!この、なんとも言えぬ抗いがたい雰囲気!



 そのすべてが、政子の前世、織田信長の妻だった濃姫を彷彿とさせるのだ。



「さあ、政子ちゃん、お母ちゃんといっしょに中であったまろか?」


「おにょれ、放せ! 放せーっ!」



 政子はあっというまにさらわれた。

 後に残った年かさの女房が、思いきり深くため息をついた。







「――やれやれ、ひどい目におうたわ」



 半日ほども八条院に捕まっていた政子は、日が西に傾いてから、ようやく解放された。

 その間ずっと懐炉がわりにされていたので、体が火照って仕方ない。


 冷たい空気を吸おうと政子は外に出た。



「――っ!?」



 異変には、すぐに気づいた。

 八条院御所の外が騒がしい。

 あたりが異様な雰囲気で満ちている。



 ――なにかが起こっている。



 政子は心の中で断じた。

 異常。それも尋常ではない。どよめく群衆の気配に混じって兵馬の気配――軍気まで感じる。



「乱……では、ないな。時世はそこまで煮詰っておらん。ならば――ええい、まどろっこしい!」


「おいまてっ! 無茶ぁするなっ!?」



 高欄てすりを飛び越えて駆けだした政子を呼び止めたのは、お目付役の藤九郎だった。



「藤九郎。なにが起こっておる?」



 政子は素早く藤九郎に尋ねる。



強訴ごうそだ。延暦寺の僧兵どもがぁ都に押しかけて来やがった!」


「よし、焼け!」



 延暦寺、と聞いて政子は反射的に命じる。



「馬鹿なことぉ言うな! 神仏が相手だぞ? 仏敵になるつもりかぁ?」


「阿呆が! わしは第六天の魔王ぞ! はなから仏敵じゃわ! ゆえに焼け――きゃつらは我が敵ぞ!」



 魔王オーラ全開で語る政子。



「……くっ、はなせ! はなちゃぬか!?」


「はいはい。頼むからおとなしくしてろぉ危険人物!」



 あたり前だが全力で止められた。







 この、嘉応元年12月に始まった比叡山延暦寺の強訴を嘉応の強訴という。


 寺社の所有する、国家規模といっていい広大な荘園を規制したい朝廷と、それに反発する寺社勢力との政治的な争いが生み出したひとつの闘争である。


 日吉大社の神輿を奉じた僧兵たちは京に押し寄せ、これに対抗するように、朝廷は検非違使や武士たちを招集する。

 神威と兵威を背景にしたにらみ合いが争いに発展しなかったのは、ひとえに武士を率いる平家が、後白河院の意に反して、武力鎮圧に消極的であったためだ。


 事件は年をまたいて翌年まで続き、方々に遺恨を残したまま収束する。

 この時から、後白河院と平家の関係は、音を立てて軋みはじめる。


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